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▼第8章 華燭の典

▼8-4 祝いの日

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 大人数の行列が東からやってきてタネシュワールに入城した。カナウジからグラハヴァルマン王がやって来たのだ。

 グラハヴァルマン王とラージャシュリーは結婚してカナウジで暮らすことになるが、正式な結婚式はカナウジに移動してからになるという。その前にラージャシュリーの地元であるタネシュワールで簡易の形での結婚式を行い、タネシュワールの民にお披露目する。これは政治的にはタネシュワールとカナウジの合従連衡が成立したことを、周辺の者たちへ広く通知する意味がある。

 ハルシャとしては、ラージャシュリーの結婚相手の顔など見たくもなかった。が、花嫁の兄であり王族の一人である以上、そういう我儘は通用しないので、挨拶はしなければならない。

 今後はハルシャの義弟となるグラハヴァルマン王は、謁見の間で王族が勢揃いした中での挨拶を済ませた後、個別に挨拶回りをしていた。ハルシャの私室にもグラハヴァルマン王が訪問してきた。隣には王に付き従う賢明な大臣であるバーニが並んでいた。

 間近で面会すると、グラハヴァルマンは二十代半ばくらいの年齢だった。ラージャシュリーよりは一〇歳くらい年上となる。政略結婚ならばこれ以上の年齢差など珍しくも無いので、年齢的なつり合いは取れている。年上の弟ができるというのも変な気分だった。

「ハルシャ殿下、今後よろしくお願いします」

 身長は兄のラージャー王子よりも少し低いくらいだが、顔は整っていて十人中九人はグラハヴァルマンを美男子と評するだろう。

「ハルシャ王子は、外国の音楽に興味があるとお聞きしました。それに、演劇がお好きで自分でも戯曲を書いておられるとか。詩作もされているとか」

「よ、よくご存知ですねグラハヴァルマン殿。戯曲や詩は自分で作っているだけで他人には見せていないのですが」

「わたくしは、自分では戯曲も詩も書きませんが、観劇や詩を読んだりするのは好きですし、遠い亀茲国の音楽を好んで聞いています。こちらのバーニ大臣も伎楽を好んでおりますし、かの大詩人カーリダーサを尊敬していて、戯曲の『シャクンタラー』がお気に入りだということです」

 カーリダーサはグプタ朝の時代に活躍した劇作家だ。ハルシャにとっても尊敬していて目標にしている人物といえる。

「へえ。グラハヴァルマン殿もバーニ殿も、芸術全般がお好きなのですね。俺も『シャクンタラー』は好きです。バーニ殿の紅縞瑪瑙の指輪、作中に出てくる指輪っぽくて良いですね」

 カーリダーサ作の戯曲『シャクンタラー』は、王が狩りの最中に山の中で仙人の娘のシャクンタラーに出会い恋をし、誓いの指輪を贈り山を下りる。その後紆余曲折があるが、指輪が鍵となって二人は再会し、大団円になる話だ。

 芸術を好む人物に悪い者はいない、とハルシャは思っている。ラージャシュリーの結婚相手のことを好きになる機会は永遠に無いとは思っていたが、悪い男よりは若干なりとも好ましい男の方が良い。

 既に何日も前から結婚式の準備は進められていたが、主役の一人であるグラハヴァルマン王が到着したことにより、タネシュワールの街の盛り上がりは一層華やかになり、準備も加速された。

 式典の日がやって来た。控室で準備している花嫁のその顔は朝の薄明のようで、薔薇色の紗幕で隠されていたが、その輝きで太陽や月すらも欺くほどであった。ラージャシュリーは過度に繊細な女性らしさを演出するかのように、長く柔らかい溜息を洩らした。

 己の結婚式ということで、さすがに乙女らしく緊張していて、側に控えて手伝ってくれている侍女ともほとんど話すことができないでいた。

「ラージャシュリー様、緊張しておられますか、少し震えておられますよ」

 侍女に指摘されて初めて自分でも震えていることに気づいて、ラージャシュリーは羞恥心に頬を赤く染めて、恥ずかしそうな態度で直立したまま少し俯いた。纏っている赤い衣装は、月明りから愛情を集めて蓮の葉の褥に降臨させたかのように柔らかに輝いていた。

 まるで春の真っ只中から出てきたかのように、花の香りがラージャシュリーの周りに息づいていた。

「大丈夫です」

 蓮の花のように赤みを帯びた両手で拳を握り締めて心を正すと、震えは嘘のように消えた。ラージャシュリーの吐息の香りは、花の香りが微風に乗って蜜蜂を魅了するように、周囲に穏やかな優しさを振りまいていた。

 促されて控室を出た花嫁は、式場である広間に入った。両脇には居並んでいる人々がいる。プラバーカラ王やハルシャなど王族は花環で飾られた祭壇が設置されている奥の方に並んでいる。

 反対側の控室から出てきた新郎のグラハヴァルマンと並んで、新婦ラージャシュリーは静々と奥へ進んだ。その耳では水精珠の耳當が柔らかな光を反射して小さく揺れる。

 儀式の場では篝火が焚かれ、火の近くに汚れのない神聖な緑のクシャ草が置かれ、カモシカの皮で覆われた祭壇が設えられている。

 儀式を執り行う老婆羅門は、婆羅門の象徴たる聖紐を肩から前に掛けている。祖先を祭る時はプラーチーナヴィータ紐を掛けているが、今は結婚式なのでウパヴィータ紐を掛けていた。

 新郎と新婦は、アショーカの花のように清浄に燃え盛る炎に近づく。全ての邪気を燃やし清める炎は、花嫁と花婿の前例のない形の優雅さに驚いて微笑んだようだった。

 花嫁の頬に涙が伝った。花粉症の影響が無いとはいえないだろうが、さすがに自分の結婚式という節目を迎えて、感極まったのだろう。

 白いシンドゥバラの花が幾つも集まっている様子のようなケーララ地方産真珠の首飾りを、花婿と花嫁がお互いの首にかけた。

 堅苦しい儀式は夜の初更に終了した。人々はさすがに疲れているので、すぐに床に就く。

 夜が明けると、百華園で結婚祝賀宴で祝盃となる。華燭の典という語が似合う絢爛豪華さを凝縮したような場だ。

 華やかな装飾が設えられた宴会場で葡萄酒の芳醇な香りが漂う。豪華な菓子や果物が並ぶ。縁起の良い果物、檳榔子の菓子が並ぶ。酔って興が乗った人の中には、宮女の楽器演奏を背に踊り出す者も出て来る。

 人々が談笑し、お祝いの雰囲気が高まる。参加者が三々五々新郎新婦の側に寄って個人的なお祝いの言葉を述べる。

 ハルシャもまた頃合いを見て、サンターナの花環を頭に被ったラージャシュリーの近くに立った。目の前の花嫁は綺麗に着飾っているが、その綺麗さは兄であるハルシャのためのものではない。

「ハルシャお兄様、今までお世話になりました。わたくしはカナウジに参ります」

「困ったことがあれば、いつでも俺に連絡してください。たとえラージャシュリーが結婚しても、俺の妹であることには変わりありません」

「わたくしは、カナウジ以外では花粉症で困るのです。なので、結婚相手はカナウジの人という以外に選択肢が無いのです。わたくしは実質、カナウジと結婚するのですわ」

「そう、ですね」

 ラージャシュリーの言葉は、さほどハルシャの慰めにはなっていなかった。叱られて尻尾を垂れて後ろ足の間に挟み込んだ犬のような悄然とした表情を隠し切れていなかった。

「お兄様、これを受け取ってください」

 あまりにも気落ちしている兄を見かねて、ラージャシュリーは水精珠の耳當の片方を耳から外し、ハルシャに向かって差し出した。

「これは、俺が差し上げたものなのだが」

「はい。大切なものだからこそ、お兄様と片方ずつ分かち合いたいのです。兄妹の絆の証といたしましょう」

 美しい装身具は身に着けてラージャシュリーの美しさを引き立ててこそなのだが、そう言われては否定するのも申し訳ないと思えたので、ハルシャは黙って受け取ることにした。

 宴は賑やかに夜まで続いた。翌日には新郎新婦は新居に向けて旅立つことになっていた。

 新郎グラハヴァルマンと新婦ラージャシュリーが二人乗りしている駱駝を中心とする行列が福地たるタネの古戦場タネシュワールを去って、曲女城たるカナウジに向かって去って行った。

 ハルシャは宮殿の高い窓から、その姿が消えて見えなくなるまでずっと、行列を未練がましく見送っていた。

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