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▼第6章 鰐の馬蹄花
▼6-4 マーラヴァ遠征
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「ハルシャ王子、緊張するなと言うのが無理というのは承知しておりますが、そんなに肩肘を張っていては、目的地のマーラヴァに着く前に疲労困憊してしまいますぞ」
将軍が声をかけてきた。鎧を着こんで、頭頂部にきらびやかな房飾りの付いた兜を被り、腰帯として柔らかで太さの均等なムンジャ草を三重に編んだものを使っている。先祖が南西方面のドラヴィダ系ラージプート戦士出身だということで、肌の黒さがハルシャよりもずっと濃い。
「えっ。俺ってそんなに緊張しているように見えますか」
ハルシャの被っている兜は、副官ということで将軍のものよりは控えめな小さい房飾りがあり、仔馬の尻尾のように微風が吹いただけでも小さく揺れている。
今回の遠征軍の総大将である将軍と、副官に任じられたハルシャは、同じ象の背中の上で揺られていた。少し離れた場所にはマンゴー林が窺える。この辺りは統王たる父のプラバーカラ王の直轄支配地域だ。街道は整備され、旅人が休む用の小屋も所々に設置されて適切に維持管理されていて、靴、傘、抜棘具、処方薬、飲み物等が置かれている。
とはいえ、小屋はあくまでも個人の旅人を想定したものだ。小人数編成とはいえ軍隊の者が全員入って休めるような場所ではない。
夜になれば野営となる。野営や食事の準備は、随行員たちがしてくれるので、その間は王族のハルシャ王子は休んでいてよかった。食事は予想通り、宮殿で食べるものよりも明らかに量と質で劣る野趣溢れるものだったが、さすがにそこに文句をつけるほどハルシャは無知な子どもではなかった。天幕の中に入って虫の音や夜啼き鳥の鳴き声を聞きながら眠るのは落ち着かなかった。
目的地はマーラヴァだ。少し前に父王が討伐して征服した国だ。当時の藩王を討ち取ることはできず逃亡させてしまったが、あるいはそれで良かったのかもしれない、とハルシャは思っている。
国際情勢を漠然と考えていたハルシャは、マーラヴァという国の持つ意味を深く考えていなかった。
すっかり失念していたが、ハルシャの母ヤソマティ王妃はマーラヴァ国出身の姫だった。つまり討伐した藩王と母とは親族なのだ。
繊細な話なので藩王と母の詳細な親族関係については尋ねていない。
母が我が国に輿入れすることによってマーラヴァ国とは婚姻関係による同盟が結ばれたはずだった。にもかかわらず、その後、マーラヴァの藩王は統王の風下に立つことを潔しとせずに反旗を翻し、父に討伐されたということだ。
母は宮殿の中でも離れた建物で暮らしていて、普段はあまり目にする機会が無い。ので、父王の政治についてあれこれ容喙することも無いのだろうが、マーラヴァ国との関係が微妙になってしまって母の心境はいかばかりであろうか、察するに余りあるものがある。
だが、いかにマーラヴァが母の故郷であろうとも、任務は任務だ。しっかりと反乱軍の残党狩りを果たさなければならない。
福地たるタネの古戦場から離れて街道を進むにしたがって、マーラヴァの領域に接近していくにつれて、治安の悪化が肌で感じられるようになってきた。道自体も、荷車の轍の跡が深く、真ん中部分が大きく盛り上がっていて、人間の徒歩では歩きにくくなっていた。象の歩みもつられて遅くなる。街道の両脇は畑のようだが、生えているのが作物なのか雑草なのかよく分からない。
前方が騒がしくなって、進行が止まった。
「何事だ」
総大将の将軍が叫んだ。細長い隊列の前方から、伝令の者が兵士の列に逆らって走ってきた。
「最前列の者に対して矢が射かけられました。現在進軍を止めて、こちらも弓矢で応戦中です」
「数は多くないはずだ。速やかに敵を撃滅せよ。あと、この象の周囲を固めて警戒を厳にせよ。こちらを足止めして奇襲の腹積もりかもしれん」
将軍と副官ハルシャの乗る象の周囲を円形に囲むようにして兵士たちが散開する。象兵は一頭につき前方に十五人、後方に十五人の歩兵が援護についているものだが、指揮官が乗る象も同様に周囲を歩兵ががっちり囲っている。
騒ぎの中で、複数個所から悲鳴が聞こえてきた。「どうした」と将軍が叫ぶと同時に報告が上がってくる。
「畑の中に落とし穴が仕掛けられていたようです。歩兵数人が落ちて、穴の中に仕掛けられていた竹槍に貫かれて被害が発生しています」
「罠か」
と呟いたのはハルシャかそれとも将軍か。あるいは両方か。
「だがハルシャ王子、この程度の小規模の罠では、損害は出ても、相手よりも軍勢で圧倒している事実は変わりません。勝利は約束されております」
軍として勝つのは規定事実だろう。だが、その過程でどれほどの損害が発生するのか。そしてその損害の中に自分の命が入らないという保障は無いのだ。その事実がハルシャの背筋を強張らせた。
弓矢の応酬による戦闘はハルシャから離れた場所で行われていたが、その間ハルシャはずっと緊張して体に不要な力が入ったままだった。結局、将軍とハルシャの乗った象が攻撃されることは無かったが、落とし穴の罠により幾人かの死者と負傷者が発生した。
戦闘とも呼べないような小競り合いが終了して進軍は再開したが、明らかに襲撃前よりは軍勢全体の士気が少しだけ落ちていた。
将軍が声をかけてきた。鎧を着こんで、頭頂部にきらびやかな房飾りの付いた兜を被り、腰帯として柔らかで太さの均等なムンジャ草を三重に編んだものを使っている。先祖が南西方面のドラヴィダ系ラージプート戦士出身だということで、肌の黒さがハルシャよりもずっと濃い。
「えっ。俺ってそんなに緊張しているように見えますか」
ハルシャの被っている兜は、副官ということで将軍のものよりは控えめな小さい房飾りがあり、仔馬の尻尾のように微風が吹いただけでも小さく揺れている。
今回の遠征軍の総大将である将軍と、副官に任じられたハルシャは、同じ象の背中の上で揺られていた。少し離れた場所にはマンゴー林が窺える。この辺りは統王たる父のプラバーカラ王の直轄支配地域だ。街道は整備され、旅人が休む用の小屋も所々に設置されて適切に維持管理されていて、靴、傘、抜棘具、処方薬、飲み物等が置かれている。
とはいえ、小屋はあくまでも個人の旅人を想定したものだ。小人数編成とはいえ軍隊の者が全員入って休めるような場所ではない。
夜になれば野営となる。野営や食事の準備は、随行員たちがしてくれるので、その間は王族のハルシャ王子は休んでいてよかった。食事は予想通り、宮殿で食べるものよりも明らかに量と質で劣る野趣溢れるものだったが、さすがにそこに文句をつけるほどハルシャは無知な子どもではなかった。天幕の中に入って虫の音や夜啼き鳥の鳴き声を聞きながら眠るのは落ち着かなかった。
目的地はマーラヴァだ。少し前に父王が討伐して征服した国だ。当時の藩王を討ち取ることはできず逃亡させてしまったが、あるいはそれで良かったのかもしれない、とハルシャは思っている。
国際情勢を漠然と考えていたハルシャは、マーラヴァという国の持つ意味を深く考えていなかった。
すっかり失念していたが、ハルシャの母ヤソマティ王妃はマーラヴァ国出身の姫だった。つまり討伐した藩王と母とは親族なのだ。
繊細な話なので藩王と母の詳細な親族関係については尋ねていない。
母が我が国に輿入れすることによってマーラヴァ国とは婚姻関係による同盟が結ばれたはずだった。にもかかわらず、その後、マーラヴァの藩王は統王の風下に立つことを潔しとせずに反旗を翻し、父に討伐されたということだ。
母は宮殿の中でも離れた建物で暮らしていて、普段はあまり目にする機会が無い。ので、父王の政治についてあれこれ容喙することも無いのだろうが、マーラヴァ国との関係が微妙になってしまって母の心境はいかばかりであろうか、察するに余りあるものがある。
だが、いかにマーラヴァが母の故郷であろうとも、任務は任務だ。しっかりと反乱軍の残党狩りを果たさなければならない。
福地たるタネの古戦場から離れて街道を進むにしたがって、マーラヴァの領域に接近していくにつれて、治安の悪化が肌で感じられるようになってきた。道自体も、荷車の轍の跡が深く、真ん中部分が大きく盛り上がっていて、人間の徒歩では歩きにくくなっていた。象の歩みもつられて遅くなる。街道の両脇は畑のようだが、生えているのが作物なのか雑草なのかよく分からない。
前方が騒がしくなって、進行が止まった。
「何事だ」
総大将の将軍が叫んだ。細長い隊列の前方から、伝令の者が兵士の列に逆らって走ってきた。
「最前列の者に対して矢が射かけられました。現在進軍を止めて、こちらも弓矢で応戦中です」
「数は多くないはずだ。速やかに敵を撃滅せよ。あと、この象の周囲を固めて警戒を厳にせよ。こちらを足止めして奇襲の腹積もりかもしれん」
将軍と副官ハルシャの乗る象の周囲を円形に囲むようにして兵士たちが散開する。象兵は一頭につき前方に十五人、後方に十五人の歩兵が援護についているものだが、指揮官が乗る象も同様に周囲を歩兵ががっちり囲っている。
騒ぎの中で、複数個所から悲鳴が聞こえてきた。「どうした」と将軍が叫ぶと同時に報告が上がってくる。
「畑の中に落とし穴が仕掛けられていたようです。歩兵数人が落ちて、穴の中に仕掛けられていた竹槍に貫かれて被害が発生しています」
「罠か」
と呟いたのはハルシャかそれとも将軍か。あるいは両方か。
「だがハルシャ王子、この程度の小規模の罠では、損害は出ても、相手よりも軍勢で圧倒している事実は変わりません。勝利は約束されております」
軍として勝つのは規定事実だろう。だが、その過程でどれほどの損害が発生するのか。そしてその損害の中に自分の命が入らないという保障は無いのだ。その事実がハルシャの背筋を強張らせた。
弓矢の応酬による戦闘はハルシャから離れた場所で行われていたが、その間ハルシャはずっと緊張して体に不要な力が入ったままだった。結局、将軍とハルシャの乗った象が攻撃されることは無かったが、落とし穴の罠により幾人かの死者と負傷者が発生した。
戦闘とも呼べないような小競り合いが終了して進軍は再開したが、明らかに襲撃前よりは軍勢全体の士気が少しだけ落ちていた。
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