さんざめく思慕のヴァルダナ

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▼第6章 鰐の馬蹄花

▼6-3 演習

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 王子といえども、王と会う機会は多くはない。王は執務で忙しいし、王子は勉学や訓練で忙しい。

 軍隊を大規模に動かす訓練の時は王も王子も参加する場合がある。王子は見習いとして、王の指揮の様子をすぐ傍で見守るのだ。

 本日、演習が実施される場所は見晴らしの良い平原だった。四指草 (クローバー) が一面に生えている。

 無論、現実の戦争が条件の良い平原で実施されるとは限らない。だがあくまでも演習は基本的な動きを確認するためのものだ。条件の良い平原ならばほぼ完璧な軍事行動ができるようになる必要がある。

 また、ガンジス流域で都市の発達している場所は当然ながら平坦な土地が多い。山に段々畑を作って上の方にはあまり水を必要としない麦を作るという工夫が必要な上流域とは条件も異なる。

「陛下にご報告です。右翼の翼部分の歩兵隊の進行が遅れています。いかがいたしましょうか」

「こういう報告を受けたぞ。さあ、ハルシャ、お前ならどう指示を出す」

 象の背中に乗せられた籠型の鞍の中、鎧を身に纏った王が振り返ってハルシャに尋ねた。同じ象の籠の前に父王が、後ろに次男のハルシャが乗っている。

 ハルシャは前方の周囲を見渡す。確かに、最も右側に位置する歩兵部隊が前進が遅れていた。

 現在実施されている演習では、汎用性の高い鷹陣を組む訓練をしていた。

 ハルシャは心の中で、ジャヤセーナ論師の講義で習った陣形図を思い出していた。

  胸
 脇 脇
翼   翼
  後

 中央の主力である胸は象軍部隊で編制されている。文字通りその両脇を固める左右の脇部分は最も機動力の高い騎兵部隊だ。そして更に外側の両翼は最も数が多く、最終的に戦の勝ち負けを担うことが多い歩兵部隊だ。

 王とハルシャが乗っている象は後詰めの位置にいる。理想的な鷹陣は中央の胸が先行して、そこから順序良く脇の騎兵隊と翼の歩兵隊がついて行くからこそ、中央突破力が高くなるのだ。

 右翼の歩兵が遅れているので、習った理想形よりは若干崩れた形になっているのが象の背上から眺めても把握できた。

  胸
 脇 脇

    翼
  後

 翼部分が両方遅れているのならともかく、片方だけだ。これならば大勢に影響はあまり無いのではないか。とハルシャは判断した。

「構わず、速度を緩めることなく突進です」

「ふむ」

 プラバーカラ王は前方の左右を見比べて思案顔をした。といっても象の背上の籠の中、王の背後に居るハルシャには王の兜の後頭部しか見えないが。

「先行している象軍部隊へ指示。右翼の歩兵と後詰め部隊が遅れ気味で、やや分断が起きつつある。ここを敵に突かれてしまうと厄介だ。なので、少し進軍速度を緩めて、陣形の一体感を保つように留意せよ、と指示するのだ。胸が速度を緩めた時に、脇と左翼が前に出過ぎないように、そちらにも指示を出せ」

 プラバーカラ王は左手を振り上げて、前方を示した。その手首にはいまだ包帯が巻かれており、以前の出撃の時に負った矢傷が治っていないことを示していた。

 後ろで聞いていたハルシャは驚きで思わずあんぐりと大きく口を開けてしまった。現在は象の背に乗って進軍中だ。それなりの速度で象が走っているので上下に大きく揺れる。舌を噛みそうになって、慌てて上下の唇を密着させて、左右の奥歯を噛み合わせた。

「ハルシャ。今の場合、右翼だけが遅れているなら、そのまま進軍でも良かったかもしれない。だけど我々後詰め部隊も遅れていて、前を行く本隊との間に隙間が大きくできていた。もしそこを敵に突かれたら、総大将である王が討ち取られてしまう。なので、全体の進撃速度を落として陣形を保つ方を選択した。そういうことだ」

 前を向いたまま後ろのハルシャを振り返らずに、プラバーカラ王は述べた。先行していた本隊に後詰めも追いついて、きれいな鷹陣が形成された。

「そういえばハルシャは、初陣はまだだったかな。ラージャーは、以前、白フン族を撃退した時に連れて行ったことがあるが」

「はい。演習は何度も参加しているし、その中で小さい部隊を実際に指揮したこともあります」

「最近、以前に平定したマーラヴァで残党が小規模な反乱を起こしているらしい。そこの鎮圧に部隊を差し向けなければならないのだが、ハルシャ、お前もそこに行って初陣を済ませてみるか」

「えっ」

「経験豊富な将軍の誰かを総大将にして、お前を副官という形で見習わせる。どうだ」

 そこまで言って、王は全軍に停止命令を出した。伝令の者達が散って行ってやや時間が過ぎると、緩やかに全軍は概ね鷹陣を保ったまま停止した。

 ハルシャの背筋が緊張し、頬が軽く引きつった。

 軍事演習も、きちんと行わなければ怪我をしたり死んだりする危険がある。高い位置から落馬ならぬ落象すれば、固い地面に叩きつけられてそれだけで大怪我だ。

 実戦となると、軍事演習など比較にならぬほどの危険が牙を研いで舌なめずりしている。残党の反乱というからには敵の数は根本的に少ないだろうが、少ないからこそ罠を張って待ち構えているかもしれない。演習の時の敵役には殺意は無いが、実戦の敵はこちらを殺しに向かってくる。

「どうだハルシャ。実戦は怖いか。それとも、自分の手で人を殺めることになるかもしれないが、そちらに抵抗があるか」

 実戦は怖い。そのことは隠しようの無い事実だ。それは自分でも認めることができた。自分が手を汚して人を殺す可能性については、正直なところよく分からなかった。

 仏教の講義を受けて、仏教に心を寄せているラージャシュリーが動物の命を愛しむ慈悲を目の当たりにして、それとは明らかに正反対のことをしなければならないことに、どうしても戸惑いが発生している。

 それが、王の道なのだろうか。慈悲の心は必要だろう。だけど、時として厳しく、人を殺さなければならない時もある。

「はい、父上。怖さはありますが、それはいずれ克服しなければならないことだとは自覚しております。その残党狩り、行かせてください」

「良い答えだ。特に、恐怖があることを偽らずきちんと自分に向き合ったのが褒められるところだ」

 王の指示により、部隊はぐるりと反転して街に戻ることになった。

 鷹陣を解いて、横一線の杖陣に変形して帰ることになった。

翼脇胸脇翼
  後

 帰るまでが演習だ。陣形を保って進むよう、後詰め部隊の象の背上から、ハルシャは前方の部隊の足並みを観察していた。

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