さんざめく思慕のヴァルダナ

kanegon

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▼第5章 本生譚の慈悲

▼5-3 ささやかな墓

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 その後も、ラージャシュリー抜きで講義が行われた。

 兄と弟が二人で受けた仏教の講義が終わると、ハルシャは自室に戻る前にラージャシュリーの様子を見るために妹の自室に行くべきかどうか考えながらぼんやりと歩いていた。

 中庭を通過する時、隅の方で人だかりを見つけた。もしや、と思った予感は正しかった。侍女たち取り巻きの向こうには泣きじゃくっているラージャシュリーがいた。

「どうしたのですが、我が親愛なる妹」

 ハルシャは駆け寄りながらラージャシュリーに呼びかけた。

「ハルシャお兄様、カンハシリが死んでしまったのです」

 烈しく泣いてしゃくりあげながらではあったが、そう言ったのはハルシャにも聞き取れた。

 泣いているラージャシュリーではなかなか言葉にならないので、側に控えている侍女たちからハルシャは説明を受けた。昨日、部屋に黒猫の赤ちゃんを連れ帰ったが、もうその時点で雨に濡れたせいか衰弱が激しかった。乾いた布で濡れた体を拭いて温めてやったが、元気にならない。浅い鉢に入れて牛乳を飲ませようとしたが、飲んでくれない。

 鴨の子のアールティーを介抱した時には上手く行ったようで元気になってくれたのだが、黒猫のカンハシリは全然回復する気配が無かった。仏教の講義も欠席て黒猫カンハシリの面倒を見たのだが、苦労は実らず、小さな生命の灯は虚しく消えてしまった。

「わたくしの努力不足か、それとも信心不足だったのか。救ってあげることができなかったカンハシリに申し訳ないですわ」

「そんなことは無いでしょう。ラージャシュリーが信心不足なら、信心が足りる人なんてどんな高僧でもいないでしょう。単に運が悪かったというか、間に合わなかっただけだよ。気を落とさないで」

 ラージャシュリーは兄の慰めにもかかわらず泣きやむことはなく、泣きながら中庭の隅に穴を掘っていた。元々花粉症で鼻が詰まり気味なので、泣いていると息が苦しそうだ。まるで亡くなる寸前の黒猫カンハシリの苦しみを追体験しているかのようだった。

 ハルシャに名案が思い浮かんだ。今の張り詰めたラージャシュリーを完全に慰めて気持ちを回復させるのは不可能だろう。だが、言葉で慰めるだけではなく、他のことで気を紛らせることができれば、幾分かでも妹の傷心に寄り添えるのではないか。

 ハルシャは自分のお付きの者に指示を出して自室に戻らせた。

 ハルシャもラージャシュリーを手伝って、掘った穴に黒猫カンハシリの冷たくなった亡骸を埋めて、土を持った上に石を載せて簡易な墓標とした。

 いまだに泣きやまないラージャシュリーの持っている水色の手巾はすっかり涙で濡れてしまったので、侍女が代わりの手巾を手渡して交換した。同じような水色のものだったので、やはりラージャシュリーは水色が好きで気に入っているのだろう。

「ラージャシュリー、あなたの悲しみを幾分かでも癒せるように、これをあなたに贈ります」

 そう言って手渡したのは、お付きの者に自室から取ってきてもらった水精珠の耳當だった。先日、商人から毘琉璃の頸珠と抱き合わせ割引で買ったものだ。

「ハルシャお兄様、これを、わたくしに下さるのですか」

 ラージャシュリーは水色の手巾で涙を拭った。それでもまだ目は潤んで涙は溢れてくるが、掌に受けた小さな耳飾りをしっかりと見据えた。

「ありがとうございます。お兄様、昨日は嫌いだなんて言ってしまって、申し訳ございませんでした。わたくしのことを心配してくださったのですね」

 涙に濡れた頬のままではあったが、ラージャシュリーは少しだけハルシャに微笑みを向けた。

「妹よ、あなたの悲しみは今すぐに薄れて消えることは無いのだろうけど、でも忘れないで。ラージャシュリーの側にはいつでも俺がいるんだということを」

 舞台の上で演劇を上演中の役者のように、持って回った言い方で格好をつけて言った。偶然の産物なのだろうけれども、昨日の失点を取り返したくらいにはラージャシュリーの好感度を得て和解できたのではないか、という気がしていた。

 翌日からは、ラージャシュリーも仏教の講義に今まで通り参加するようになった。

 話を聞いてみると、黒猫のカンハシリは死んでしまったものの、鴨のアールティーは元気に生きているので、そちらだけでも命を長らえて天寿を全うさせてあげたいということだった。

 そして、ラージャシュリーの両耳たぶには、ハルシャが贈った水精珠の耳當が小さく輝いていた。清楚なラージャシュリーに、透明感の高い水精珠は良く似合っていた。どうやら気に入ってくれたらしい。

 贈った側としては誇らしい気持ちだった。水精珠の耳當を選んだ自分の美的感覚の正しさが、元より美しいラージャシュリーを更に引き立てて太陽のように輝かせる。

「三人揃って、何よりです。では本日は、先日の譬え話の続きという感じで、本生譚などを話してみましょうかね」

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