さんざめく思慕のヴァルダナ

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▼第5章 本生譚の慈悲

▼5-1 尊き黒い者

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 雨季なので毎日のように雨が降る。降った雨は大地を潤す。雨後にビーラナ草がはびこるかどうかは場所次第ではあるが、大地に吸い込まれた以外の水はやがて川に集まる。いくつもの川はやがてガンジス河に合流し、ゆったりと東に向かう。

 水はいいな。どこにでも好きなところへ行ける。聖なるガンジスの流れにのって、いずれ海に出ることもできる。

 窓から小降りになった雨空を眺めていたハルシャは、目下に女性が丘陵を昇ってくるのが見えた。象に乗っておらず自分の足で歩いているが、あれはラージャシュリーだ。

 周囲に複数のお付きの人が同伴しているにもかかわらず、ラージャシュリーは自らの両腕で籠を抱えて、その中を覗き込みながら歩いていた。いつかどこかで既視感の有る光景だった。

 ハルシャは部屋を飛び出した。が、すぐに引き返して戻ってきて、忘れ物を持って再び部屋を飛び出した。

 鉢合わせするのは、やはり中庭だった。ただし現在は小降りになったとはいえども雨が降り続いているので、屋根の庇のある壁際部分でラージャシュリーと顔を合わせた。雨に濡れたせいで、ラージャシュリーの肌に衣服が貼りついていて腰のたおやかな曲線を浮かび上がらせていた。

「ラージャシュリー、また偶然会ったね。なんかずぶ濡れじゃないか。そのままにしていると風邪をひくよ」

 ラージャシュリーに話しかけると、どうしても格好つけた気取った感じの言い回しになってしまう。言いながらハルシャは乾いた布をラージャシュリーに渡した。部屋を飛び出す時に、妹は雨で濡れているだろうから拭くための布があった方がいいだろうと思いついて咄嗟に引き返して持ち出してきたものだ。暑いからすぐ乾くとはいえ、自然に乾燥させるよりは布で拭いてしまった方が良い。

「気を利かせてくださってありがとうございます、お兄様。でも、どうせ気を利かせてくださるのなら、侍女たちの分も乾いた布を用意してくださればありがたかったですわ」

 片手で籠を抱えたまま、もう片方の手で布を持って濡れた髪を拭きつつ、ラージャシュリーはお礼を述べた。実際にラージャシュリーのお付きの侍女たちもまた長時間屋外にいたので雨に濡れている。そこまで配慮ができていれば点数稼ぎができたのに。ハルシャは少しだけ悔しさを噛み締めた。

「それより、もしかしてまた鴨の子を拾ってきたのかい。世界中の鴨の子を助けるつもりなのかい」

 ハルシャは、ラージャシュリーが抱えている籠の中を覗き込んだ。敷き詰められている布も雨で濡れているので保温の役には立たなさそうだった。一見しただけでは黄色っぽい鴨の子は見当たらなかった。

「鴨ではなく、黒猫の赤ちゃんが鳴いているのが聞こえたので助けてきたのです」

 言われて改めて見てみると、布の影かと思っていた黒い部分は黒い子猫だった。掌に載るくらいの小さく細い体だ。

「結局世界中の鴨や猫を助けるつもりなのかい。さすがにそれは無理があるのでは」

「全知全能でもなんでもない普通の人間ですから、わたくしにはそのような能力はありませんわ。観音菩薩は世界中に手が届くから多くの衆生を救うことができます。でもそれは、手の届く範囲が広くて巨大な観音菩薩だからこそできることです。普通の人間であるわたくしは、己の手の届く範囲で、助けられる生命は手を差し伸べて助けたいですわ。ですから、先日偶然見つけた鴨のアールティーも拾いましたし、今日のカンハシリも拾って連れてきたのです」

「カンハ、シリ、か」

 先日の鴨の子の時と同様、拾ったばかりであるにもかかわらず既に名前をつけているようだ。カンハシリとは尊き黒い者という意味なので黒猫には合った名前ではある。

 そうこうしている内に、周囲に人が集まってきた。宮殿内に残っていたラージャシュリーのお付きの侍女たちが主人を迎えに出てきたのだ。ラージャシュリーと同行して屋外に出ていた侍女たちも、留守番だった者達から乾いた布を受け取って濡れた髪や顔を拭っていた。

 ラージャシュリーは多くの侍女たちを引き連れて、拾った黒猫の子を抱えて自室へ戻っていった。とハルシャが妹の後姿を見送っていたら、集団の中からラージャシュリーだけが一人、ハルシャの方へ戻って来た。

「忘れるところでした。お兄様、布をお返しします。ありがとうございました」

「べ、別に返すのは今じゃなくても良かったのに。というか布くらいは返してくれなくても良かったんだけど」

 今ではなく、後から返しに来てくれるのならば、その時にまたラージャシュリーと会うきっかけになったかもしれない。ただし、侍女に命じたりせず本人が来ることが必須ではあるが。布を受け取りながら、ハルシャは惜しく思い奥歯を噛み締めた。

「お兄様って、全ての鴨とか猫の赤ちゃんを救わなければならない、とか仰って、わたくしの行動に批判的なご意見をお持ちなのですね」

「そりゃ、王子の義務として色々勉強しているけど、民の上に立つ王家の者としては、特定の者だけを手厚く救うんじゃ駄目なんだ。広く国中の民を等しく救わなければならない。慈悲の心が分からないわけじゃないけど、みんなに等しく救いの手を差し伸べるのなら、一人当たりに向けられる慈悲はどうしても薄まってしまうだろう」

 講義で学んだ通りの、王者としての正論だった。特定の者だけを贔屓したのでは、いずれ腐敗の温床となり、国が滅んで行く。

「そういう建前はわたくしにも理解できます。問題は、それを口実にして目の前で苦しんでいる人や、死にかけている鴨や猫の赤ちゃんに手を差し伸べない冷たさですわ。わたくし、ハルシャお兄様のこと、少し嫌いになりましたわ」

「えっ、そんな理不尽な」

 自分としては何も間違ったことは言っていなかった。だが、あまりにも本音で言い過ぎたかもしれない。ラージャシュリーの好感度が下がるのはハルシャにとっては大きな損失だ。

 今度こそ本当にラージャシュリーはハルシャに背を向けて、籠の中の子猫だけを見て去って行った。

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