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▼第2章 近くて遠い佳人
▼2-3 遭遇は突然に
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弓道場からのんびり歩きながら自室に戻るべく、中庭を通る。庭師が雑草を除去している横を過ぎたところで、突然、茂みの陰から目の前に彼女が出現した。
「えっ、あっ、こんにちは。俺はハルシャと申します。この宮殿の王子です」
驚きつつも咄嗟に大きな声で自分の名前を主張して相手に印象付けようとしたのは、予想外の状況への対応としては満点に近いものだった。
謎の美女は大きな目を更に大きく瞠いて、右手に持っていた手巾で鼻から下を覆って俯いた。と同時に素早く後ろに振り向いて、槍を持っている護衛の兵士の横をすり抜けて走り去った。
「あっ、待って」
ハルシャの小さな声はもう届かない距離まで彼女は走り去っていた。槍を持った護衛の兵士が「姫、お待ちを」と言いながら慌てて主人を追いかける。ハルシャもまた追いかけて走り出そうとしたが、思い止まった。
突然遭遇してしまった上に、大きな声で呼びかけてしまったので、相手が驚いて怖がらせてしまったのかもしれない。あるいは不意に男性と鉢合わせてしまったがゆえに恥じらいを覚えて困惑したのだろうか。
それでも、この一瞬の出来事にも意義があった。ハルシャは自分の名前を伝えて、王子であることも言うことができた。更に、護衛が「姫」と呼びかけていたのも聞き漏らさなかった。高貴そうないでたちから想像していた通り、やはりどこかの国の姫君であるようだ。であるならば、王子の婚約相手として来た可能性が高いのではないか。
その王子とは、ラージャー王子なのか、ハルシャ王子なのか。順番から考えれば普通は第一王子の方である確率が高そうだ。
良くない考えは、川に落ちて濡れた犬が全身を震わせて水滴を飛ばすように首を大きく振って、振り払った。せっかく会ったのだから、手巾で顔を隠さずに麗しい全てを見せてほしかった。そう、美人であるのに、なぜ恥ずかしがって顔を隠す必要があるのかが理解できない。
ふと気づいた点がある。昨日も今日も、水色の手巾を使っていた。お気に入りの物なのだろうか。だが、手巾なら洗い替えをしないのだろうか。それとも、同じ色の手巾を複数枚所持しているほど、あの水色を気に入っているのかもしれない。
もしかしたら彼女は水色が好きな色なのかもしれない。これは、ほんの短時間の遭遇の中で得られた貴重な情報だ。
部屋に戻ったハルシャは、侍従の者に指示を出して、宝石を扱っている商人を呼ぶことにした。若い女性が身に着けて似合うような、水色の宝石を使った装飾品を探している、と伝えておくように、と言い含めておいた。
良い装飾品があるかどうかは実際に商人が来て品物を見せてもらわなければ分からない。が、仮に良い宝飾品があったとしても、上手く渡せるのだろうかが心配だ。今日、出会った感じだと、また次に顔を合わせる機会があったとしても、すぐに逃げられてしまうのではないか。好意を寄せている相手に意図的に避けられるというのは、なかなかに傷つくものらしい。
悩んでいても考えていても、あるいは心を無にして何も考えず呼吸だけしかせずに時間を過ごしたとしても、王家に生まれた義務として勉強はしなければならない。
やる気は起きない。
元々ハルシャは座学が好きではない。だからジャヤセーナ論師の講義にやる気が起きないのは普段通りだった。
弓矢の練習の時は調子が悪かったハルシャにとっては、どこかで挽回したいとは思っていた。
なので、午後からの初級講義で頑張ろうと、珍しく気合を入れた。やる気が無いのだから、意図的に気合を入れなければならない。車輪は回り始めるまでが重くて大変なのだ。
「本日は、戦闘においての陣形の基礎についてですが。今日はラージャー第一王子は受講はしないということですかな」
ジャヤセーナ論師が言うように、生徒はハルシャ王子一人だけだった。なので、教室の後ろに控えている二名の護衛兵を除けば、一対一での講義となる。
「まずは基本の基本の基本から。カウティリヤに限らず恐らくどんな帝王学においても、戦の基本は相手よりも優勢な状況を事前に作り上げることにあります。例えば兵士の訓練の質であり、武器や防具の質であり、また地理的地形的条件であり、あるいは優秀な象軍部隊を展開すること、などなどあれこれ挙げられます。理論上の話になりますが、もし、それらが全く彼我で同じ条件だったならば、戦いは、単純に数が多い方が勝ちます」
ジャヤセーナ論師は、胸を張って、そこに顎髭を垂らし、偉そうな態度で当たり前のことを言った。基本という言葉をわざわざ三回もしつこく繰り返したくらいなので、本当に基礎の話だった。
「戦は、相手よりも多く兵士や馬や象や戦車の数を集めること。これが大事中の大事です」
「当たり前ですね、ジャヤセーナ論師」
「だが人は時にその当たり前すぎることをついつい失念してしまうものなのですよ。だから執拗ではありますが、繰り返し基礎を反復学習するのです」
基礎が大事であることは論を俟たない。
「えっ、あっ、こんにちは。俺はハルシャと申します。この宮殿の王子です」
驚きつつも咄嗟に大きな声で自分の名前を主張して相手に印象付けようとしたのは、予想外の状況への対応としては満点に近いものだった。
謎の美女は大きな目を更に大きく瞠いて、右手に持っていた手巾で鼻から下を覆って俯いた。と同時に素早く後ろに振り向いて、槍を持っている護衛の兵士の横をすり抜けて走り去った。
「あっ、待って」
ハルシャの小さな声はもう届かない距離まで彼女は走り去っていた。槍を持った護衛の兵士が「姫、お待ちを」と言いながら慌てて主人を追いかける。ハルシャもまた追いかけて走り出そうとしたが、思い止まった。
突然遭遇してしまった上に、大きな声で呼びかけてしまったので、相手が驚いて怖がらせてしまったのかもしれない。あるいは不意に男性と鉢合わせてしまったがゆえに恥じらいを覚えて困惑したのだろうか。
それでも、この一瞬の出来事にも意義があった。ハルシャは自分の名前を伝えて、王子であることも言うことができた。更に、護衛が「姫」と呼びかけていたのも聞き漏らさなかった。高貴そうないでたちから想像していた通り、やはりどこかの国の姫君であるようだ。であるならば、王子の婚約相手として来た可能性が高いのではないか。
その王子とは、ラージャー王子なのか、ハルシャ王子なのか。順番から考えれば普通は第一王子の方である確率が高そうだ。
良くない考えは、川に落ちて濡れた犬が全身を震わせて水滴を飛ばすように首を大きく振って、振り払った。せっかく会ったのだから、手巾で顔を隠さずに麗しい全てを見せてほしかった。そう、美人であるのに、なぜ恥ずかしがって顔を隠す必要があるのかが理解できない。
ふと気づいた点がある。昨日も今日も、水色の手巾を使っていた。お気に入りの物なのだろうか。だが、手巾なら洗い替えをしないのだろうか。それとも、同じ色の手巾を複数枚所持しているほど、あの水色を気に入っているのかもしれない。
もしかしたら彼女は水色が好きな色なのかもしれない。これは、ほんの短時間の遭遇の中で得られた貴重な情報だ。
部屋に戻ったハルシャは、侍従の者に指示を出して、宝石を扱っている商人を呼ぶことにした。若い女性が身に着けて似合うような、水色の宝石を使った装飾品を探している、と伝えておくように、と言い含めておいた。
良い装飾品があるかどうかは実際に商人が来て品物を見せてもらわなければ分からない。が、仮に良い宝飾品があったとしても、上手く渡せるのだろうかが心配だ。今日、出会った感じだと、また次に顔を合わせる機会があったとしても、すぐに逃げられてしまうのではないか。好意を寄せている相手に意図的に避けられるというのは、なかなかに傷つくものらしい。
悩んでいても考えていても、あるいは心を無にして何も考えず呼吸だけしかせずに時間を過ごしたとしても、王家に生まれた義務として勉強はしなければならない。
やる気は起きない。
元々ハルシャは座学が好きではない。だからジャヤセーナ論師の講義にやる気が起きないのは普段通りだった。
弓矢の練習の時は調子が悪かったハルシャにとっては、どこかで挽回したいとは思っていた。
なので、午後からの初級講義で頑張ろうと、珍しく気合を入れた。やる気が無いのだから、意図的に気合を入れなければならない。車輪は回り始めるまでが重くて大変なのだ。
「本日は、戦闘においての陣形の基礎についてですが。今日はラージャー第一王子は受講はしないということですかな」
ジャヤセーナ論師が言うように、生徒はハルシャ王子一人だけだった。なので、教室の後ろに控えている二名の護衛兵を除けば、一対一での講義となる。
「まずは基本の基本の基本から。カウティリヤに限らず恐らくどんな帝王学においても、戦の基本は相手よりも優勢な状況を事前に作り上げることにあります。例えば兵士の訓練の質であり、武器や防具の質であり、また地理的地形的条件であり、あるいは優秀な象軍部隊を展開すること、などなどあれこれ挙げられます。理論上の話になりますが、もし、それらが全く彼我で同じ条件だったならば、戦いは、単純に数が多い方が勝ちます」
ジャヤセーナ論師は、胸を張って、そこに顎髭を垂らし、偉そうな態度で当たり前のことを言った。基本という言葉をわざわざ三回もしつこく繰り返したくらいなので、本当に基礎の話だった。
「戦は、相手よりも多く兵士や馬や象や戦車の数を集めること。これが大事中の大事です」
「当たり前ですね、ジャヤセーナ論師」
「だが人は時にその当たり前すぎることをついつい失念してしまうものなのですよ。だから執拗ではありますが、繰り返し基礎を反復学習するのです」
基礎が大事であることは論を俟たない。
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