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▼第2章 近くて遠い佳人
▼2-2 矢の乱れ
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翌日の天候は晴れだった。なかなかに珍しい。
といっても暑季のような体を苛む暑さにはならず、昨日までの雨で湿った大地をほどよく乾かすようなものだった。まだ辛うじて、雨季ならではの涼しさと、湿気による蒸し暑さが同居している妙なものが肌を撫で行く風に感じられるのだった。
弓矢の練習のような体を動かすことは、雨が降っていない方がやり易い。昨日は雨の中での修練だったが、今日ならば条件的には昨日よりも良い射ができるはずだ。
兄のラージャー第一王子は既に来ていて、何本か矢を射ているようだった。円形の的のほぼ中央にいずれの矢も集まっている。相変わらずというべきなのか、天候条件による差がほとんど出ていないと解すべきなのか。
ハルシャもまた準備を整えると弓を握った。真っ直ぐ目の前にある円形の的を射る場合には、角度を付けず一直線の飛翔を思い描いて射ることになる。
何だか俺、調子が悪いな。集中できていない。
矢を番えて今にも第一射に入ろうかという時に、ハルシャ王子は自分の出来を正しく読み取っていた。実際に矢を射る前から分かってしまうのは口惜しいが、事実は枉げられない。
忘れよう、忘れようとしても、どうしても先日の佳人のことを思い出してしまう。忘れようとする能動的な行動によって記憶を強引に消去しようとすることによって、かえって彼女のことを思い出してしまう。逆効果が発生しているようで皮肉なことだ。
矢筈を握っていた手を放す。風を切り裂く鋭い音を残して、矢はハルシャから逃げ去って行く。円形の的から大きく外れてその後ろの日干し煉瓦の壁に当たって矢は地面に落ちた。普段のハルシャの技量ならばこの距離からであれば確実に円形の的のどこかには命中させることができていた。そのはずなのに、今の第一射は的の中心どころかぎりぎり外周付近にすら当てることができない大失敗となった。
駄目か。やっぱり心の乱れが如実に弓矢の結果に出てしまうな。
心の中だけで苦々しく舌打ちする。そんなハルシャの様子を、兄のラージャーが隣に立ったまま珍しそうに眺めていた。
「どうしたハルシャ。いつもだったら、これくらいは確実に的に当てるだろう」
「兄上、ご心配おかけします。今日はちょっと熱っぽくて、体調不良なので。それで弓矢に集中できていないようです」
「おい大丈夫か。危ない熱病や伝染病じゃないだろうな」
「ご心配には及びません。微熱ですから」
微熱があるというのは自分自身の体感的に嘘ではない。彼女のことを考えると、心臓の辺りから暖かい物質が生まれて体内を隈なく駆け巡るのだ。
「しかし、今日は天候からいうと、雨季のいつもの雨が降っていないという条件なのに、的にすら当たらないなど。余程調子が悪いのかな、と自分で思います」
その後も練習は継続したが、ハルシャの矢は天候条件の良さを活かせることは無く、ほとんどが的を外れた。こうなるとたまに命中した数本も、単にまぐれで当たっただけだったのだろう、としか見えなくなってしまう。
次に、衝立と藁人形を用意して、頭部に括り付けた鉦の音だけを頼りに相手を射ぬく練習を行った。兄はいつもの通りの命中率だった。概ね、藁人形の体のどこかには命中するが、たまには外れることもある。ハルシャは、今日に限っては珍しく一本も藁人形に命中させることができなかった。
最後に出てきたのは、濃い緑色釉薬の陶器の壷だった。同じような形状の壷がたくさんあるらしく、毎度同じ型のものが出されている。兄のラージャーが放った矢は、勢いが弱すぎて壷よりも遥か手前で地面に落ちてしまった。
ラージャーは少しはがっかりしているが、この難易度の高い射を成功させたことは一度も無いので、ある程度慣れてしまっている様子だった。
続いてハルシャが斜め上空に射た矢は、高く昇って太陽をかすめるようにして放物線を描き落下し、壷の前面に当たって、その勢いで壷を台座から押し出して落としてしまった。地面に落ちた緑色の壷は、前面はほぼ原型を留めたものの、地面に直接当たった後面はバラバラに砕けてしまい、大小二十個くらいの破片に成り果てた。
ラージャーとハルシャ、王子二人は揃って溜息をついた。その日の好不調に無関係に、相手を傷付けずに射るという射法は難しい。ただ難しいだけではなく、壷が割れてしまうため幾度も繰り返し練習することが許されない一発勝負であるところも困難さを増していた。
「やっぱりこれは、僕にもハルシャにも難しいね」
「相手を傷付けない射法って、そもそもどんな場面で使うんだろうか。俺には想像もつかないんですけど」
弓矢の練習が終了になる。午後からはジャヤセーナ論師の座学が待っている。それまでに気持ちを立て直さなければならないし、原因不明の微熱も落ち着かせなければならない。
いや、原因不明ではない。ハルシャは自分自身で本音では原因を把握している。
彼女への想いで胸が焦がれて過熱していて体温にまで影響が及んでいるのだ。このままでは良くないのは承知している。弓矢も不調だったし、この調子では机にかじりついて勉学に励んでも身にならないだろう。
いずれにせよ、早く彼女の正体を知りたい。名前を知りたい。彼女ともっと近づきたい。答えを出さずには、ハルシャは心が保たずいつまでも生きられない。
といっても暑季のような体を苛む暑さにはならず、昨日までの雨で湿った大地をほどよく乾かすようなものだった。まだ辛うじて、雨季ならではの涼しさと、湿気による蒸し暑さが同居している妙なものが肌を撫で行く風に感じられるのだった。
弓矢の練習のような体を動かすことは、雨が降っていない方がやり易い。昨日は雨の中での修練だったが、今日ならば条件的には昨日よりも良い射ができるはずだ。
兄のラージャー第一王子は既に来ていて、何本か矢を射ているようだった。円形の的のほぼ中央にいずれの矢も集まっている。相変わらずというべきなのか、天候条件による差がほとんど出ていないと解すべきなのか。
ハルシャもまた準備を整えると弓を握った。真っ直ぐ目の前にある円形の的を射る場合には、角度を付けず一直線の飛翔を思い描いて射ることになる。
何だか俺、調子が悪いな。集中できていない。
矢を番えて今にも第一射に入ろうかという時に、ハルシャ王子は自分の出来を正しく読み取っていた。実際に矢を射る前から分かってしまうのは口惜しいが、事実は枉げられない。
忘れよう、忘れようとしても、どうしても先日の佳人のことを思い出してしまう。忘れようとする能動的な行動によって記憶を強引に消去しようとすることによって、かえって彼女のことを思い出してしまう。逆効果が発生しているようで皮肉なことだ。
矢筈を握っていた手を放す。風を切り裂く鋭い音を残して、矢はハルシャから逃げ去って行く。円形の的から大きく外れてその後ろの日干し煉瓦の壁に当たって矢は地面に落ちた。普段のハルシャの技量ならばこの距離からであれば確実に円形の的のどこかには命中させることができていた。そのはずなのに、今の第一射は的の中心どころかぎりぎり外周付近にすら当てることができない大失敗となった。
駄目か。やっぱり心の乱れが如実に弓矢の結果に出てしまうな。
心の中だけで苦々しく舌打ちする。そんなハルシャの様子を、兄のラージャーが隣に立ったまま珍しそうに眺めていた。
「どうしたハルシャ。いつもだったら、これくらいは確実に的に当てるだろう」
「兄上、ご心配おかけします。今日はちょっと熱っぽくて、体調不良なので。それで弓矢に集中できていないようです」
「おい大丈夫か。危ない熱病や伝染病じゃないだろうな」
「ご心配には及びません。微熱ですから」
微熱があるというのは自分自身の体感的に嘘ではない。彼女のことを考えると、心臓の辺りから暖かい物質が生まれて体内を隈なく駆け巡るのだ。
「しかし、今日は天候からいうと、雨季のいつもの雨が降っていないという条件なのに、的にすら当たらないなど。余程調子が悪いのかな、と自分で思います」
その後も練習は継続したが、ハルシャの矢は天候条件の良さを活かせることは無く、ほとんどが的を外れた。こうなるとたまに命中した数本も、単にまぐれで当たっただけだったのだろう、としか見えなくなってしまう。
次に、衝立と藁人形を用意して、頭部に括り付けた鉦の音だけを頼りに相手を射ぬく練習を行った。兄はいつもの通りの命中率だった。概ね、藁人形の体のどこかには命中するが、たまには外れることもある。ハルシャは、今日に限っては珍しく一本も藁人形に命中させることができなかった。
最後に出てきたのは、濃い緑色釉薬の陶器の壷だった。同じような形状の壷がたくさんあるらしく、毎度同じ型のものが出されている。兄のラージャーが放った矢は、勢いが弱すぎて壷よりも遥か手前で地面に落ちてしまった。
ラージャーは少しはがっかりしているが、この難易度の高い射を成功させたことは一度も無いので、ある程度慣れてしまっている様子だった。
続いてハルシャが斜め上空に射た矢は、高く昇って太陽をかすめるようにして放物線を描き落下し、壷の前面に当たって、その勢いで壷を台座から押し出して落としてしまった。地面に落ちた緑色の壷は、前面はほぼ原型を留めたものの、地面に直接当たった後面はバラバラに砕けてしまい、大小二十個くらいの破片に成り果てた。
ラージャーとハルシャ、王子二人は揃って溜息をついた。その日の好不調に無関係に、相手を傷付けずに射るという射法は難しい。ただ難しいだけではなく、壷が割れてしまうため幾度も繰り返し練習することが許されない一発勝負であるところも困難さを増していた。
「やっぱりこれは、僕にもハルシャにも難しいね」
「相手を傷付けない射法って、そもそもどんな場面で使うんだろうか。俺には想像もつかないんですけど」
弓矢の練習が終了になる。午後からはジャヤセーナ論師の座学が待っている。それまでに気持ちを立て直さなければならないし、原因不明の微熱も落ち着かせなければならない。
いや、原因不明ではない。ハルシャは自分自身で本音では原因を把握している。
彼女への想いで胸が焦がれて過熱していて体温にまで影響が及んでいるのだ。このままでは良くないのは承知している。弓矢も不調だったし、この調子では机にかじりついて勉学に励んでも身にならないだろう。
いずれにせよ、早く彼女の正体を知りたい。名前を知りたい。彼女ともっと近づきたい。答えを出さずには、ハルシャは心が保たずいつまでも生きられない。
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