ソールレイヴ・サガ

kanegon

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●長い夜

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 いつもは、朝になればゲルドが神殿にやって来て、掃除など諸々の作業を始めている。が、その日はゲルドの姿は神殿にまだ無かった。季節は秋から冬に向かおうとする頃だった。日の出は遅く、夜の訪れも早い。日の出の時間になっても神殿にゲルドはおらず、日没時間になっても巫女不在のままだった。
 本日もまた、いつも通りゲルドと一緒にキリスト教対策の勉強をするはずだった。ソールレイヴは朝から神殿を訪れていた。最初は、ゲルドの遅刻に呆れて溜息をついた。日の出の頃には苛立ちになっていた。日の入りの頃には不安の雲に覆われて体の芯から寒気が襲ってきた。
 いつもの狭い部屋で、机に向かって堅い木の椅子に座ったまま、長い時間が過ぎた。ゲルドにキリスト教についての知識を教えることで、ソールレイヴ自身もまた持っている知識の確認作業をしているのだが、一人では、羊皮紙の資料を眺めていてもなかなか知識は固まって行かなかった。お尻が痛くなってきた。木製の椅子とお尻の骨の間に挟まれた肉が耐えられなくなってきている。ソールレイヴは立ち上がってお尻をさすった。
「おーい! ルーンの占いをやってくれる巫女は居ないのか!」
 礼拝堂の方から野太い男の声が聞こえた。また座り直すのも億劫なので、ソールレイヴは部屋を出て声のした方へ向かった。
「おっ、あんた、お館様の孫の賢者だな。巫女を見かけなかったか?」
 ソールレイヴが礼拝堂に入ると、男の方から声をかけてきた。縮れた髪の毛に縮れた顎髭の太った男だった。
「僕は朝からずっと待っていますけど、ゲルドはまだ来ていません。何かあったのかもしれませんね」
「ゲルドってのは、巫女の長女だろう。母親の巫女も来ていないのか?」
「あ、ゲルドが礼拝堂に居ない時は、大抵ゲルドのお母さんが居るはずなのですが。どちらも居ないとなると、おかしいですね」
 ソールレイヴはずっと小部屋に閉じ籠もっていたので、ゲルドの母が来ていないことに気付いていなかった。
「ちぇっ。巫女も娘の巫女も居ないなら、待っていられねぇや。自分でトール神の名前を二回唱えて戦勝を祈っておくわ」
 縮れ毛の男は牛のように荒い鼻息をふかしながら、慌ただしく神殿から出て行った。
「ただ待っているだけで何もしていないけど、それだけで疲れちゃったな」
 祭壇に祀られている像を眺める。神の中の父たる、隻眼の老人であるオージン神の姿がそこにあった。戦神トールの像もある。
 場違いな感じが、ソールレイヴの心に波のように押し寄せる。ここは神殿だ。巫女であるゲルドやゲルドの母の居場所であって、賢者のための場所ではない。それでも、オージン像やトール像が鎮座している限り、この神殿はソールレイヴ含めて峡谷の民にとって心の拠り所であり続けるはずだ。あの像が十字架に置き換わるところを見たくないのだ。
 背後で扉の開く音が聞こえ、反射的にソールレイヴは振り返った。そこにはゲルドが立っていた。勉強に疲れた時のゲルドの比ではない、明らかに憔悴した様子だった。
「遅くなってごめんなさい。実は今朝方、お母さんが倒れたのよ」
 穏やかな話題ではなかった。礼拝堂で立ち話をしていて、訪れた信者に無用に聞かれては困る内容の話になりそうだ。二人はいつも勉強している狭い部屋に移り、木の机を挟んで腰を落ち着けてから、少し声を潜めて話し始めた。
 ゲルドの母は、この神殿で働いている巫女である。娘のゲルドも巫女の業務を手伝っているものの、まだまだ巫女としては若くて未熟だ。ゲルドの母は日頃から疲れを溜めていたようだ。そこへきて、オーラヴ王即位以来のキリスト教の強圧的伝播である。巫女にとっては辛い状況だ。夫は商人として各地を船で渡り歩いていて、長期間不在にしている。
 ゲルドの母の容態はというと、呪術医の診察と祈祷のおかげか、昼過ぎには意識を回復したという。氷の島で使われているという苔を牛乳で煮込んだ薬を服用したら、もう少し楽になったらしいので、現在はゲルドの弟、妹たちが母の様子を看ている。
「そうか。お大事にね」
「うん、とにかく、今のところ命には別状は無いみたいだから一安心なんだけど、しばらくは静養が必要みたいだわ」
「今日、なかなかゲルドがここに来ないから、どうしたんだろうと思っていたら。まさかこんな大変な事態になっていたとはね」
 ゲルドは疲れた顔に笑みを浮かべた。
「でも心配しなくてもいいわよ。生命にかかわるような危険な病気ではないみたい。お母さんがいない分、神殿のことは私が頑張ればいいわけだし」
「ゲルド。無理に笑っていないか? 一人で全部抱え込むんじゃないぞ。僕にできることだったら何でも協力するから」
 ゲルドは笑顔を引っ込めて、酸っぱい物でも食べたかのような表情に変わった。
「う、うん、ソールレイヴの、その気持ちは嬉しいよ。そうね、今まで通り、キリスト教のことなど、勉強を教えてくれたら、それで十分だから」
 そうは言うけど、神殿での仕事が増えたら、勉強のために費やせる時間が減るのではないだろうか。
 疑問を胸に抱きつつも、それを直接口に出すのは躊躇われて、ソールレイヴは沈黙を貫いた。ゲルドは銀に近い白髪を後ろで一つに束ねて邪魔にならないようにすると、神殿内の掃除を始めた。今日はもう時間も遅いし、今から勉強を始めるのは無理だろう。
 掃除の手伝いでも申し出ようかと一瞬思ったソールレイヴだったが、かえってゲルドの態度を硬化させるだけのような気がしたため、ゲルドが一人で巫女の務めを行うに任せることにした。
 自分に出来ることが何も無いなら、神殿に長居する理由は無い。ソールレイヴは外に出た。
 外はもう真っ暗だった。季節的に長い夜になる。北極星が頭上に寒々と輝いていた。暗さに目が慣れれば、慣れた帰り道を歩くのにそれほど不自由は無かったが、丘の斜面が急坂に感じた。

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