月夜の猫屋

来条恵夢

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短編

代わりの夢

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「会いたかったの。ずっと…待ってた」
 私はそっと、彼に寄りかかった。
 私の手首には、赤黒い幾筋もの傷が見られる。それは、白い肌と合間って、見かけだけは痛々しさを引き立てていた。でも、そんなことはどうだって良かった。
「ねえ。会えるだけで良かったのに。どうして来てくれなかったの…?」
 物言わぬ彼を責めるのではなく、ただ知りたかった。どうして来てくれなかったのか。あんなにも待っていたのに。淋しかったのに。
 彼はそっと、私の左頬に手をあてた。
千恵ちえ
「名前…やっと呼んでくれた」
 ただそれだけで、幸せだった。ただ、これだけのことで。
 彼は、私の伸ばした手を優しくつかんだ。きずを、いつくしむように手の平をかぶせる。
 少しくすぐったくて、私は微笑した。
「これ? 気にしなくていいのよ。痛くなんてないんだから。あなたに会えるなら、痛くなんてない」
 けれど彼は、ゆるやかに首を振った。決して強くはなく、とがめるのでもなく。ただ、哀しむように。
「千恵。お別れを言いに来たんだ」
 息を呑む。
 一瞬にして、空気が凍った。
「どうして? どうして…何も要らないから、何も望まないから、そばにいてくれるだけでいいから…!」
「千恵」
 ゆっくりと、青年は言葉をつむぐ。
 その確かな響きに、私は血走った目で何かを探した。何か――疵をつけられる、何か。けれど、それはどこにもない。
 彼は、私の肩を優しく捕らえて、静かに顔を見据えた。
「君に傷ついて欲しくない。僕は、行かなくてはならないから。もう君を護れないから。だからどうか、僕を…許して欲しい」
「何…を」
「君とともに歩めないことを…許して欲しい」
 涙が、こぼれた。ひどく透明な、一滴。そして、全てがわかった。
 私は、ゆるりと青年の服をつかんだ。
「許してあげる…全部。だから…伝えて。あなたに会えたことを後悔なんてしない。ありがとう」
 私は、真っ直ぐに青年を見て、にこりと微笑んだ。
「そう、伝えて」
 言うと、その場を去った。きっと青年は、一人残されただろう。
 本当に…全てを許すから。だからどうか、あの人に伝えて。

「ばれてしまったか…始めからばれておったか…」
 青年は、苦い笑みを浮かべた。
 これで、女は意識を取り戻した。心中未遂。男は逝き、女は残った。
 青年が、積極的にだましたわけではない。しかしやはり、許されるものではないのだろうと思う。例え、女が許したとしても。
「まあ――」 
 そんなことは、はじめからわかっていた。
 青年も、その場を後にした。  
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