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短編
雨の日
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しとしとと降り続く小雨の音を聞きながら、溜息をついていた。
――まいったなぁ。
家を出るときから曇ってはいたけれど、大丈夫だろうとカッパはおろか、傘さえ持ってこなかった。
いつも、「なんとかなるだろう」と行動して、後悔する。そりゃあ、そのまま「なんとかなる」こともあるけれど…。
「どうぞ」
「あっ、どうも」
私が雨宿りに入った店は、『月夜の猫屋』という名前だった。何も考えずに飛び込んでから、みんなが騒いでいた店だと気付いた。
雑貨店なんだけど、喫茶店もやってて色々珍しいメニューがあるとか。特に『サボテンドリンク』のことが話題にのぼっていたけれど、私がたのんだのはミックスジュースだった。
冷たくて甘いそのジュースを飲みながら、雨の音を聞き続けた。
どこかへ行かなきゃいけないような気がするのに、それがどこなのか覚えていない。どこに行くんだったろう。――思い出せない。
ぼんやりとガラスにぶつかると同時にはじける雨粒を見ていると、不意に甘い匂いがした。気付くと、エプロンをした高校生くらいの男の人――確か、ここの店員さん――がケーキを持って立っていた。そして、それを私の前において、自分は私の向かいの席に座った。
「…? 私、たのんでませんよ?」
「ああ、これは違うんだ。このケーキ、新製品なんだけど、味見してもらえないかな」
結構かっこいい人だ。そういえば、「店員がかっこいい」とも言っていた気がする。マンガに出てくるような「優しいお兄さん」みたい。本当にいるんだ、こんな人。
「桃のケーキなんだけど、いい?」
「あ。はい」
――危ない危ない。今、意識とんでたみたい。気をつけなきゃ。
「新製品」のケーキはできたてだったらしく、熱いくらいだ。食べると、ほどよい甘さの絶品だということがわかる。添えられた生クリームが、よくあっている。
「おいしい…」
「本当? やった!」
心配げに私の様子をうかがっていたその人は、歓声を上げて自分も食べ始めた。私は、初めて年上の人に対して「かわいい」と思った。
「もっと食べる? まだたくさんあるよ」
「一つ、いくらですか?」
「お金なんていらないよ。本日限り、だけどね。待ってて、取ってくるよ」
そう言って彼が奥に戻ってしまうと、一人店内に残された。
大人数は入れないような喫茶店と、いろんな物の並んだ雑貨店と。その中に、私はたった一人だった。
――どこに行こうとしてたんだろう。
おいしいケーキとジュース。小規模だけど、「幸せ」だ。そう思うのと同時に、どこか恐くなる。それと、焦りに似た気持ち。なんだろう。何か、やらなきゃいけないことがあったのに。どこかに行かなくちゃ。ここでこんなことをしている暇なんてない――?
「はい、お待たせ。どうかした?」
「え……?」
「難しいかおしてるから。体調でも悪いの?」
「…いえ、大丈夫です」
「お金忘れたとか?」
「あります」
「ケーキ、本当はまずかった?」
「おいしかったです。今まで食べた中で一番」
「そうか。良かった」
彼の心底安心した表情を見て、張り詰めていた気が少しやわらいだ。
そして、彼はこう言った。
「迷子にでもなってるの?」
不意を突かれた。
家の場所もこの店の位置も判っている。でも、行き先がわからない。これは、立派な迷子なのかもしれない。
まさか十五にもなって、よく知っているはずのところで迷子になるなんて思ってもみなかった。
――じゃあ、どこに行こうとしているの?
また、戻ってしまった。
「焦らなくてもいいんじゃないかな。『急がば回れ』ってね。落ち着いて、どんなことでもいいから一つ一つたどっていくといい。急いで短期間に沢山のことをこなすのもいいけど、無駄に見えるような時間も大切だよ」
その声を聞くだけで、不思議と落ち着いた。焦りが消えて、忘れていた記憶の断片が戻ってくる。
雨。車。ぼやけた風景。だれかの驚いた顔。道路。紅い、色。――ああ、そうだった。
「思い出せたみたいだね」
「はい。私、行かなくちゃ。ごちそうさまでした。あ、お金…また今度払いに来てもいいですか?」
「うん。いつでもおいで。待ってるよ、夏海ちゃん」
小雨の降る中、外へ出た。傘はいらない。
あの人に本当のことを言ったら、どう思っただろう。そう考えると、少しおかしくなる。きっと、信じてもらえないだろう。
――あれ、どうして私の名前を知ってたんだろう。
お店に戻ろうとして、やめた。今度行ったときに聞いてみよう。もう、私は迷子にならない。
私は、今朝事故に遭っていた。
一人きりの店内で、青年は食器を片付けていた。
「あの子、ちゃんと戻れたかなあ。交通事故に遭ったことさえ忘れてたくらいだから…また、迷子になってなきゃいいけど」
ぽつりと呟くと、食器洗いに専念しはじめる。外の雨は、まだ降り続いていた。
――まいったなぁ。
家を出るときから曇ってはいたけれど、大丈夫だろうとカッパはおろか、傘さえ持ってこなかった。
いつも、「なんとかなるだろう」と行動して、後悔する。そりゃあ、そのまま「なんとかなる」こともあるけれど…。
「どうぞ」
「あっ、どうも」
私が雨宿りに入った店は、『月夜の猫屋』という名前だった。何も考えずに飛び込んでから、みんなが騒いでいた店だと気付いた。
雑貨店なんだけど、喫茶店もやってて色々珍しいメニューがあるとか。特に『サボテンドリンク』のことが話題にのぼっていたけれど、私がたのんだのはミックスジュースだった。
冷たくて甘いそのジュースを飲みながら、雨の音を聞き続けた。
どこかへ行かなきゃいけないような気がするのに、それがどこなのか覚えていない。どこに行くんだったろう。――思い出せない。
ぼんやりとガラスにぶつかると同時にはじける雨粒を見ていると、不意に甘い匂いがした。気付くと、エプロンをした高校生くらいの男の人――確か、ここの店員さん――がケーキを持って立っていた。そして、それを私の前において、自分は私の向かいの席に座った。
「…? 私、たのんでませんよ?」
「ああ、これは違うんだ。このケーキ、新製品なんだけど、味見してもらえないかな」
結構かっこいい人だ。そういえば、「店員がかっこいい」とも言っていた気がする。マンガに出てくるような「優しいお兄さん」みたい。本当にいるんだ、こんな人。
「桃のケーキなんだけど、いい?」
「あ。はい」
――危ない危ない。今、意識とんでたみたい。気をつけなきゃ。
「新製品」のケーキはできたてだったらしく、熱いくらいだ。食べると、ほどよい甘さの絶品だということがわかる。添えられた生クリームが、よくあっている。
「おいしい…」
「本当? やった!」
心配げに私の様子をうかがっていたその人は、歓声を上げて自分も食べ始めた。私は、初めて年上の人に対して「かわいい」と思った。
「もっと食べる? まだたくさんあるよ」
「一つ、いくらですか?」
「お金なんていらないよ。本日限り、だけどね。待ってて、取ってくるよ」
そう言って彼が奥に戻ってしまうと、一人店内に残された。
大人数は入れないような喫茶店と、いろんな物の並んだ雑貨店と。その中に、私はたった一人だった。
――どこに行こうとしてたんだろう。
おいしいケーキとジュース。小規模だけど、「幸せ」だ。そう思うのと同時に、どこか恐くなる。それと、焦りに似た気持ち。なんだろう。何か、やらなきゃいけないことがあったのに。どこかに行かなくちゃ。ここでこんなことをしている暇なんてない――?
「はい、お待たせ。どうかした?」
「え……?」
「難しいかおしてるから。体調でも悪いの?」
「…いえ、大丈夫です」
「お金忘れたとか?」
「あります」
「ケーキ、本当はまずかった?」
「おいしかったです。今まで食べた中で一番」
「そうか。良かった」
彼の心底安心した表情を見て、張り詰めていた気が少しやわらいだ。
そして、彼はこう言った。
「迷子にでもなってるの?」
不意を突かれた。
家の場所もこの店の位置も判っている。でも、行き先がわからない。これは、立派な迷子なのかもしれない。
まさか十五にもなって、よく知っているはずのところで迷子になるなんて思ってもみなかった。
――じゃあ、どこに行こうとしているの?
また、戻ってしまった。
「焦らなくてもいいんじゃないかな。『急がば回れ』ってね。落ち着いて、どんなことでもいいから一つ一つたどっていくといい。急いで短期間に沢山のことをこなすのもいいけど、無駄に見えるような時間も大切だよ」
その声を聞くだけで、不思議と落ち着いた。焦りが消えて、忘れていた記憶の断片が戻ってくる。
雨。車。ぼやけた風景。だれかの驚いた顔。道路。紅い、色。――ああ、そうだった。
「思い出せたみたいだね」
「はい。私、行かなくちゃ。ごちそうさまでした。あ、お金…また今度払いに来てもいいですか?」
「うん。いつでもおいで。待ってるよ、夏海ちゃん」
小雨の降る中、外へ出た。傘はいらない。
あの人に本当のことを言ったら、どう思っただろう。そう考えると、少しおかしくなる。きっと、信じてもらえないだろう。
――あれ、どうして私の名前を知ってたんだろう。
お店に戻ろうとして、やめた。今度行ったときに聞いてみよう。もう、私は迷子にならない。
私は、今朝事故に遭っていた。
一人きりの店内で、青年は食器を片付けていた。
「あの子、ちゃんと戻れたかなあ。交通事故に遭ったことさえ忘れてたくらいだから…また、迷子になってなきゃいいけど」
ぽつりと呟くと、食器洗いに専念しはじめる。外の雨は、まだ降り続いていた。
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