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船上
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「よく似合ってたのに、もうあのドレスは着ないのか?」
「…美味いなこれ」
二日ほどを上海観光で過ごし、これからまた二日かけて香港へと向かう。雪季がつまむのは、上海で購入した本来は台湾産だというパイナップルケーキだ。
この二日、何度も来ているからと慣れている英をガイドにあちこち見て回り、これまで食べたこともないような料理を食べたりした。
まるっきり豪華客船を満喫する旅行者で、雪季自身、何をやっているのかよくわからない。
「東京にも店はあるんだけど、来るとつい買ってしまう。お土産に手ごろだし評判もいいし」
「へえ」
こんな世間話をしている場合だろうか。
金魚売は、船にはスタッフとして乗り込み、上海で行方をくらませたという扱いになっているようだった。生死のほどは、雪季も知らない。英が言いくるめたのか、海にでも落としたか。
何にしても、あの夜、しばらくして戻った英は何事もなかったかのように再び眠りに就き、上海では楽しそうに雪季を引っ張り回していた。今このデッキにある椅子の上でも、香港ではどこに行きたいかと訊いて来る。
「なんのつもりだ」
パイナップルケーキの最後のかけらを呑み込むと、待ちかねていたかのように言葉がこぼれ落ちた。あの夜と同じ、冷ややかな眼が見つめてくる。
「何がしたいんだ、お前は」
「夏休み。俺、とうとう母親に捨てられてさ。これからは父親の世話になれって放り出されて。まあ別に、どこでも良かったし、むしろ結果的にはプラスになったものの方が多いし、それはいいんだけど。俺を恐れる母親も、値踏みする父親も、敵意剥き出しの兄弟だの親戚だのも、くだらないなー、って、思ってたんだ」
素直に話すと思ってはいなかったが、思っていた以上に予想外の話が始まった。立ち上がって海を向き、胸よりやや下の程度の高さの手すりに体重を預ける。つられるように、雪季も椅子から立ち上がっていた。
並んで、横顔を見上げるのも妙な気がして、青く晴れ渡った水平線に目をやる。
「世の中ってこんなに詰まらないのかと思ってたら、君を見つけたんだよ、雪季」
「…俺?」
「そう。錐かな。いや、アイスピックだったのか?」
何の話をしているのかが、わかった。小ぶりのアイスピックは、雪季が初めての仕事で使った得物だった。
「見えたのはたまたま。位置が良かったんだろうな、少しずれてたら見えなかっただろう。軽くぶつかるように当たっただけに見えたのに、離れるときに赤い色が見えた。なんだろうと思って追いかけたら、人のいない路地裏で今にも泣き出しそうな顔で俯く君がいた。声をかけようか迷ううちに人が倒れたって声が上がって、ついそっちを見たらもう消えてた。夏休み明けに教室で見つけて、吃驚した」
「どうして…何も言わなかった」
「色々と訊きたかったよ。どうして殺したのかとか、どんな気分なのかとか、具体的に何をどうしたのかとか。でも、普通に授業受けてるし、同じクラスだからって何の接点も、それこそ名前を呼んでもらえないほどに関係がなかったし。変に目立って、せっかく上手く行ったのに君が捕まるようなことになっても面白くない。気付いてないだろうけど、君のことは色々と調べたんだよ」
すぐに忘れられる存在だろうと思っていた。わざとの部分もあるが、そもそも雪季は、両親が健在だったころですら人目を惹くような子どもではなかった。
施設で暮らしていたことも、途中で遠縁ということにした両親の仇でこの仕事の師である男に引き取られたことも、高校を卒業した後はアルバイトを渡り歩きながら殺人業をしていたことも、知っていたのだという。
「まあ、再会が俺の殺人を請け負ってっていうのは予想外だったけど。おかげで依頼主も早く判って押さえられたから、むしろラッキーだった」
しくじったのは、ずっと前だった。目撃され、この男の注意を惹いてしまったという、十年近くも前のことだった。不意に足元が抜けたような、妙な心地に襲われる。
きっと、と、雪季は思った。
この男が少し道を違えていれば、こちらに来ていれば、随分と優秀な殺し屋になっただろう。
そして、確信する。
金魚売は、海に捨てられたのだろう。止めを刺したのかどうかまでは、わからないけれど。
「だから俺は、君と友達になりたかったんだ」
「――――は?」
「俺とは違う世界を見て、生きて、どうなっていくのかが知りたかった」
思わず、まじまじと英の顔を見てしまう。いつの間にか、体は海に向きながら、お互いに顔を見合わせていた。
笑っていない英は、やはり妙な迫力があり、しかしまるで子どものようだった。無邪気に残酷な、正邪も善悪も関係なく呑み込んでしまう、子ども。
悪意がないことは判った。
きっと、ただ純粋に、興味なのだろう。
が、しかし。
「余計たちが悪い」
唸ってしゃがみこんだ雪季は、背に人の気配を感じた。むしろ、今までの話の最中によく誰も通りかからなかったものだと思いながら、とりあえずその気配が去るまでは黙っていようかと思う。
英も、人がいることくらいは判るだろうしそこでこんな物騒な話をしようとはしないだろう。それでも、一応注意はしておいた方がいいかと顔を上げる。
細い手が、海を眺める英の背を押していた。
「っ!」
咄嗟に、立ち上がる時間も惜しんで、手すりに延びる鉄柵ごと英の足を抱き抱える。
結果、英は体を二つ折りにして干された布団のような恰好で留まることになった。腹をしたたかに打ったようだが、万が一でも手すりを越えて、結構な高さの下の甲板や勢い余って海に落ちることに比べれば大分ましだろう。雪季も、肩と腕とを強く打った。
いきなりのことで硬直した雪季は、だが僅かの間で我に返ると、押した手の主を探し――見つけられず、視線をさまよわせた。
「雪、季、大丈夫、だから、もう、離して」
「あ。ああ」
強張っているような気がする指と腕をゆっくりと開いて、甲板にぺたりと尻を突く。疲れた。
「うわー、びっくりした」
「どっちが」
「今の明らかに俺狙って押しただろ。全然見てなかった、どんな奴だった?」
「…お前、金魚売どうした」
「そいつじゃないよ」
きっぱりとした断言に、やはりと確信を深める。しかしそれは、聞くまでもなく判っていたことだった。
「手だけ。女だと思う。…お前、遺産絡みだけじゃないだろ。絶対、他にも個人的な恨み買ってるだろ。女に背中から刺されるようなやつ。でなければ、プライドを粉みじんにしたようなやつ。素人が衝動的にって感じだったぞ」
「あー…?」
わかったようなわからないようなかおをする。
つまりこいつは無敵の暴君なのだろうと、雪季は思うことにした。半ば無自覚に、半ばは意識して権力をふるうような、一面、無垢な暴君。物凄く面倒くさいやつ。
深々と、雪季はため息をついた。
「護衛仕事、達成条件は?」
「え?」
不思議そうにこちらを見遣った英は、ややあって、にっと笑った。
「とりあえず、金魚売の件でこの間言った分は払う。旅の終わりまででプラス。あとは、秘書兼護衛っていうのは?」
「…秘書?」
「自分のスケジュールは自分で決められるから、どっちかと言うと相談役か。何故か、すぐに辞めて行くんだ」
「ああ…なるほど」
こんな面倒くさい男、仕事とはいえ長々と付き合うには骨が折れるだろう。雪季は、この先を思って早くも後悔しそうになる。
打って変わって、英は楽しそうに笑う。
「いやあ、良かった。ちょっと小細工したから、このまま殺し屋を続けるって言われたら問題が発生するかと思ってたところで」
「…あ゛?」
「ほら、依頼が無効になったっていう連絡。あれ、仲介屋? 元締め? とかそういうのじゃなくて、ウチの調査部」
「……あ゛あ゛ん゛?」
「だからなんでそう男子高校生みたいな…怒ってる? いや、ごめん。でもほら、辞めるんだしちょうど良かっただろ? 依頼主を俺が押さえたのは本当だし」
一度、深く目をつぶり。雪季は、握りしめたこぶしを英の腹に叩き込んだ。
海は穏やかで、空も遠くまで広く晴れ渡っていた。旅路は続く。
「…美味いなこれ」
二日ほどを上海観光で過ごし、これからまた二日かけて香港へと向かう。雪季がつまむのは、上海で購入した本来は台湾産だというパイナップルケーキだ。
この二日、何度も来ているからと慣れている英をガイドにあちこち見て回り、これまで食べたこともないような料理を食べたりした。
まるっきり豪華客船を満喫する旅行者で、雪季自身、何をやっているのかよくわからない。
「東京にも店はあるんだけど、来るとつい買ってしまう。お土産に手ごろだし評判もいいし」
「へえ」
こんな世間話をしている場合だろうか。
金魚売は、船にはスタッフとして乗り込み、上海で行方をくらませたという扱いになっているようだった。生死のほどは、雪季も知らない。英が言いくるめたのか、海にでも落としたか。
何にしても、あの夜、しばらくして戻った英は何事もなかったかのように再び眠りに就き、上海では楽しそうに雪季を引っ張り回していた。今このデッキにある椅子の上でも、香港ではどこに行きたいかと訊いて来る。
「なんのつもりだ」
パイナップルケーキの最後のかけらを呑み込むと、待ちかねていたかのように言葉がこぼれ落ちた。あの夜と同じ、冷ややかな眼が見つめてくる。
「何がしたいんだ、お前は」
「夏休み。俺、とうとう母親に捨てられてさ。これからは父親の世話になれって放り出されて。まあ別に、どこでも良かったし、むしろ結果的にはプラスになったものの方が多いし、それはいいんだけど。俺を恐れる母親も、値踏みする父親も、敵意剥き出しの兄弟だの親戚だのも、くだらないなー、って、思ってたんだ」
素直に話すと思ってはいなかったが、思っていた以上に予想外の話が始まった。立ち上がって海を向き、胸よりやや下の程度の高さの手すりに体重を預ける。つられるように、雪季も椅子から立ち上がっていた。
並んで、横顔を見上げるのも妙な気がして、青く晴れ渡った水平線に目をやる。
「世の中ってこんなに詰まらないのかと思ってたら、君を見つけたんだよ、雪季」
「…俺?」
「そう。錐かな。いや、アイスピックだったのか?」
何の話をしているのかが、わかった。小ぶりのアイスピックは、雪季が初めての仕事で使った得物だった。
「見えたのはたまたま。位置が良かったんだろうな、少しずれてたら見えなかっただろう。軽くぶつかるように当たっただけに見えたのに、離れるときに赤い色が見えた。なんだろうと思って追いかけたら、人のいない路地裏で今にも泣き出しそうな顔で俯く君がいた。声をかけようか迷ううちに人が倒れたって声が上がって、ついそっちを見たらもう消えてた。夏休み明けに教室で見つけて、吃驚した」
「どうして…何も言わなかった」
「色々と訊きたかったよ。どうして殺したのかとか、どんな気分なのかとか、具体的に何をどうしたのかとか。でも、普通に授業受けてるし、同じクラスだからって何の接点も、それこそ名前を呼んでもらえないほどに関係がなかったし。変に目立って、せっかく上手く行ったのに君が捕まるようなことになっても面白くない。気付いてないだろうけど、君のことは色々と調べたんだよ」
すぐに忘れられる存在だろうと思っていた。わざとの部分もあるが、そもそも雪季は、両親が健在だったころですら人目を惹くような子どもではなかった。
施設で暮らしていたことも、途中で遠縁ということにした両親の仇でこの仕事の師である男に引き取られたことも、高校を卒業した後はアルバイトを渡り歩きながら殺人業をしていたことも、知っていたのだという。
「まあ、再会が俺の殺人を請け負ってっていうのは予想外だったけど。おかげで依頼主も早く判って押さえられたから、むしろラッキーだった」
しくじったのは、ずっと前だった。目撃され、この男の注意を惹いてしまったという、十年近くも前のことだった。不意に足元が抜けたような、妙な心地に襲われる。
きっと、と、雪季は思った。
この男が少し道を違えていれば、こちらに来ていれば、随分と優秀な殺し屋になっただろう。
そして、確信する。
金魚売は、海に捨てられたのだろう。止めを刺したのかどうかまでは、わからないけれど。
「だから俺は、君と友達になりたかったんだ」
「――――は?」
「俺とは違う世界を見て、生きて、どうなっていくのかが知りたかった」
思わず、まじまじと英の顔を見てしまう。いつの間にか、体は海に向きながら、お互いに顔を見合わせていた。
笑っていない英は、やはり妙な迫力があり、しかしまるで子どものようだった。無邪気に残酷な、正邪も善悪も関係なく呑み込んでしまう、子ども。
悪意がないことは判った。
きっと、ただ純粋に、興味なのだろう。
が、しかし。
「余計たちが悪い」
唸ってしゃがみこんだ雪季は、背に人の気配を感じた。むしろ、今までの話の最中によく誰も通りかからなかったものだと思いながら、とりあえずその気配が去るまでは黙っていようかと思う。
英も、人がいることくらいは判るだろうしそこでこんな物騒な話をしようとはしないだろう。それでも、一応注意はしておいた方がいいかと顔を上げる。
細い手が、海を眺める英の背を押していた。
「っ!」
咄嗟に、立ち上がる時間も惜しんで、手すりに延びる鉄柵ごと英の足を抱き抱える。
結果、英は体を二つ折りにして干された布団のような恰好で留まることになった。腹をしたたかに打ったようだが、万が一でも手すりを越えて、結構な高さの下の甲板や勢い余って海に落ちることに比べれば大分ましだろう。雪季も、肩と腕とを強く打った。
いきなりのことで硬直した雪季は、だが僅かの間で我に返ると、押した手の主を探し――見つけられず、視線をさまよわせた。
「雪、季、大丈夫、だから、もう、離して」
「あ。ああ」
強張っているような気がする指と腕をゆっくりと開いて、甲板にぺたりと尻を突く。疲れた。
「うわー、びっくりした」
「どっちが」
「今の明らかに俺狙って押しただろ。全然見てなかった、どんな奴だった?」
「…お前、金魚売どうした」
「そいつじゃないよ」
きっぱりとした断言に、やはりと確信を深める。しかしそれは、聞くまでもなく判っていたことだった。
「手だけ。女だと思う。…お前、遺産絡みだけじゃないだろ。絶対、他にも個人的な恨み買ってるだろ。女に背中から刺されるようなやつ。でなければ、プライドを粉みじんにしたようなやつ。素人が衝動的にって感じだったぞ」
「あー…?」
わかったようなわからないようなかおをする。
つまりこいつは無敵の暴君なのだろうと、雪季は思うことにした。半ば無自覚に、半ばは意識して権力をふるうような、一面、無垢な暴君。物凄く面倒くさいやつ。
深々と、雪季はため息をついた。
「護衛仕事、達成条件は?」
「え?」
不思議そうにこちらを見遣った英は、ややあって、にっと笑った。
「とりあえず、金魚売の件でこの間言った分は払う。旅の終わりまででプラス。あとは、秘書兼護衛っていうのは?」
「…秘書?」
「自分のスケジュールは自分で決められるから、どっちかと言うと相談役か。何故か、すぐに辞めて行くんだ」
「ああ…なるほど」
こんな面倒くさい男、仕事とはいえ長々と付き合うには骨が折れるだろう。雪季は、この先を思って早くも後悔しそうになる。
打って変わって、英は楽しそうに笑う。
「いやあ、良かった。ちょっと小細工したから、このまま殺し屋を続けるって言われたら問題が発生するかと思ってたところで」
「…あ゛?」
「ほら、依頼が無効になったっていう連絡。あれ、仲介屋? 元締め? とかそういうのじゃなくて、ウチの調査部」
「……あ゛あ゛ん゛?」
「だからなんでそう男子高校生みたいな…怒ってる? いや、ごめん。でもほら、辞めるんだしちょうど良かっただろ? 依頼主を俺が押さえたのは本当だし」
一度、深く目をつぶり。雪季は、握りしめたこぶしを英の腹に叩き込んだ。
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