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闇夜の晩 2006/2/27
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あれ、ここは?
ああ、そうだった。真っ直ぐに歩くのだった。出口は、着けば判るからって。
後ろを振り向いちゃいけないって。
真っ直ぐ、歩いて行きなさいって。
「あー…後ろ、振り向きたくなってきちゃった」
冗談めかして、わざと声に出して言う。
そうでもしなければ、不安に押しつぶされそうだった。ここで座り込んでしまうか、振り向いてしまうか。
ただでさえ、随分長いと思える時間を、この暗闇を歩いているのだ。前も後ろもないような暗闇を、多分前だろうと思う方向に向かって。
ここに連れてきた男と出会ったのは、自室だった。
紅子は、寝台に横たわって医療器具につながれたまま、何度目か判らない生死の境を彷徨っていた。詰めているはずの医師たちは、紅子が意識を取り戻し、男の姿を認めたときは、どこにもなかった。
男から話を聞いて、即座に、先日読んだばかりの物語を思い浮かべた。
驚くほどに病弱な体で外出もままならない紅子にとって、読書は最大の時間の消化の仕方だった。もっともそれも、長時間は困難という制約がついていたが。
「つまり、あなたがメフィストフェレスで、私がファウスト博士というわけね?」
「…まあ、そんなところだな」
「あら、あなたもあの話を知っているの? 悪魔も、本って読むのね」
長い沈黙の後に、渋々といった態で返された言葉に、紅子は目を見張って言った。先程よりも長い沈黙の後には、溜息だけが聞こえた。
そうして、約束をしてこの暗闇に連れてこられた。契約を交わすのは、この後だ。
「それにしても、悪魔って親切よね」
「…そんなことは、はじめて言われた」
「そうなの?」
「何故」
「だって、報酬は後払いでしょう。ずる賢いと聞いたから、詐欺紛いで命だけ掠め盗られたら話は別だけど。先に願いを叶えてくれるのだから、親切よ」
「…そういう、ものか…?」
「ええ。だって、報酬先払いだったら、自分の願いが叶うところを見届けられないでしょう? 私はね、あの人たちが舌打ちするところを、しっかりと見届けたいの」
「…親族を殺すのが、お前の願いか?」
「まさか。そんなにすぐに、楽になってもらっては困るわ。あの人たちは、私がいて、ぬかりなく財産を見張っているだけで迷惑なのだもの。それなら、散々迷惑をかけて、私自身は生活を楽しむの。私が非の打ち所がないくらいに健康で、誰にも邪魔をされずに、厭になるまで私自身が楽しく生きることが望みよ。もちろん、羽山成の当主になって、散々親戚一同に迷惑をかけてね」
そうして、契約のために出された条件が、この暗闇から戻ること。禁止されたのは、後ろを振り向くこと。
もしその禁止を破れば、どうなるかは知らないと言われた。
「だけど、駄目よね。禁止事項って、まるで破らせるためにあるみたいなんだもの。機を織る鶴の姿を覗き見してしまった人の気持ちが分かるわ」
やはり声に出して言って、紅子は足を早めた。
一切光のない暗闇のせいで、時間感覚など、疾うに麻痺している。それでなくても、自分の足で歩く機会すら少ないのだ。
はじめこそ、歩いても歩いても息切れもせず、倒れることもない体に喜んだが、ここまで来ると不安が勝る。少し、飽きたこともあった。
「駄目よね、駄目よ。それに、後ろを見たってどうせ、何にもないんだから。ああだけど…」
ぴたりと足が止まったのは、もう十回ほども、そんなことを一人で呟き続けた後だった。
止まって、ゆっくりと、恐々と首を動かす。三度ほど躊躇った後、思い切って体ごと振り向く。
「…あら」
一瞬、鏡があるのかと思った。しかしすぐに、違うと判る。手が伸びてきて、首に触れたのだ。殺されると、そう、思った。
咄嗟に、後ろに倒れ込む。思い切り打ち付けたお尻が痛いが、それに顔をしかめるよりも、向かいに立つ「自分」に目を見張っていた。
「ええと、離魂病? ゲーテ尽くしなのね…なんて、言ってる場合じゃないみたいだけど…」
更に手が伸びてきて、逃げたいのだが、しっかりと腰を下ろしてしまっているため、動けない。そもそも、体を動かすことに慣れていないのだ。
「どうなるか知らないって、こういうことなの。自分で自分に直接殺されるなんて、ちょっとできない体験よね。離魂病でさえ、直接じゃなかったはずよ」
気が動転して、一層口数が増える。それでも紅子は、無表情に見下ろす「自分」を、じっと見ていた。
死はあまりに近すぎて、そのものに忌避は薄い。ただ――それが唐突なものと知ってはいても――わけが判らずに終わるのは、好みではない。
「あら?」
喉にからみつく手にろくに抵抗もせず、紅子は、その眼を覗き込んだ。
「あなたの眼。悪魔さんに似てるわ」
手が、力を込める寸前で消えた。手だけでなく、もう一人の自分そのものがいなくなった。
「え? 何?」
次いで、闇が消える。慌てて見回すと、そこは自室で、寝台に寝ていた。急に頭を動かしたものだから、既に馴染みの、きつい眩暈がおきた。
「契約には、血を使う」
「え? あの、悪魔さん?」
暗闇に入る前に、幾つか会話を交わした男が寝台の横に立ち、感情のないような表情をしていた。
暗闇に入る前の状況なのだと、気付くのに少しかかった。
「何だ」
「私、どうして帰ってこられたのかしら。後ろを振り返ってしまったのよ。自分に殺されるところだったのに。そういえばあの私は、あなたに随分と似てたわ」
「お前は、条件を満たした。だから契約を…」
「待ってよ。だから、満たしてないわ。出口を見つけてないし、後ろも振り返ったのよ」
困惑したまま、紅子はか細い声で反論した。男は、溜息をついた。
「あれが条件だったんだ」
「どういうことよ」
「あそこから、帰ること。条件は問わない」
では、もう一人の自分がこの男だと、見抜いたから戻れたのだろうか。気付かなければ、ずっと歩き続けたか、そのまま殺されたか。そんなところだったのだろうか。
「…嘘、ついたのね?」
「悪魔はずる賢いものなのだろう?」
「騙された…?」
呟いて、溜息をつく。そうして一度、深呼吸をした。
「まあいいわ。契約を」
「ああ」
静かな夜の、出来事だった。
ああ、そうだった。真っ直ぐに歩くのだった。出口は、着けば判るからって。
後ろを振り向いちゃいけないって。
真っ直ぐ、歩いて行きなさいって。
「あー…後ろ、振り向きたくなってきちゃった」
冗談めかして、わざと声に出して言う。
そうでもしなければ、不安に押しつぶされそうだった。ここで座り込んでしまうか、振り向いてしまうか。
ただでさえ、随分長いと思える時間を、この暗闇を歩いているのだ。前も後ろもないような暗闇を、多分前だろうと思う方向に向かって。
ここに連れてきた男と出会ったのは、自室だった。
紅子は、寝台に横たわって医療器具につながれたまま、何度目か判らない生死の境を彷徨っていた。詰めているはずの医師たちは、紅子が意識を取り戻し、男の姿を認めたときは、どこにもなかった。
男から話を聞いて、即座に、先日読んだばかりの物語を思い浮かべた。
驚くほどに病弱な体で外出もままならない紅子にとって、読書は最大の時間の消化の仕方だった。もっともそれも、長時間は困難という制約がついていたが。
「つまり、あなたがメフィストフェレスで、私がファウスト博士というわけね?」
「…まあ、そんなところだな」
「あら、あなたもあの話を知っているの? 悪魔も、本って読むのね」
長い沈黙の後に、渋々といった態で返された言葉に、紅子は目を見張って言った。先程よりも長い沈黙の後には、溜息だけが聞こえた。
そうして、約束をしてこの暗闇に連れてこられた。契約を交わすのは、この後だ。
「それにしても、悪魔って親切よね」
「…そんなことは、はじめて言われた」
「そうなの?」
「何故」
「だって、報酬は後払いでしょう。ずる賢いと聞いたから、詐欺紛いで命だけ掠め盗られたら話は別だけど。先に願いを叶えてくれるのだから、親切よ」
「…そういう、ものか…?」
「ええ。だって、報酬先払いだったら、自分の願いが叶うところを見届けられないでしょう? 私はね、あの人たちが舌打ちするところを、しっかりと見届けたいの」
「…親族を殺すのが、お前の願いか?」
「まさか。そんなにすぐに、楽になってもらっては困るわ。あの人たちは、私がいて、ぬかりなく財産を見張っているだけで迷惑なのだもの。それなら、散々迷惑をかけて、私自身は生活を楽しむの。私が非の打ち所がないくらいに健康で、誰にも邪魔をされずに、厭になるまで私自身が楽しく生きることが望みよ。もちろん、羽山成の当主になって、散々親戚一同に迷惑をかけてね」
そうして、契約のために出された条件が、この暗闇から戻ること。禁止されたのは、後ろを振り向くこと。
もしその禁止を破れば、どうなるかは知らないと言われた。
「だけど、駄目よね。禁止事項って、まるで破らせるためにあるみたいなんだもの。機を織る鶴の姿を覗き見してしまった人の気持ちが分かるわ」
やはり声に出して言って、紅子は足を早めた。
一切光のない暗闇のせいで、時間感覚など、疾うに麻痺している。それでなくても、自分の足で歩く機会すら少ないのだ。
はじめこそ、歩いても歩いても息切れもせず、倒れることもない体に喜んだが、ここまで来ると不安が勝る。少し、飽きたこともあった。
「駄目よね、駄目よ。それに、後ろを見たってどうせ、何にもないんだから。ああだけど…」
ぴたりと足が止まったのは、もう十回ほども、そんなことを一人で呟き続けた後だった。
止まって、ゆっくりと、恐々と首を動かす。三度ほど躊躇った後、思い切って体ごと振り向く。
「…あら」
一瞬、鏡があるのかと思った。しかしすぐに、違うと判る。手が伸びてきて、首に触れたのだ。殺されると、そう、思った。
咄嗟に、後ろに倒れ込む。思い切り打ち付けたお尻が痛いが、それに顔をしかめるよりも、向かいに立つ「自分」に目を見張っていた。
「ええと、離魂病? ゲーテ尽くしなのね…なんて、言ってる場合じゃないみたいだけど…」
更に手が伸びてきて、逃げたいのだが、しっかりと腰を下ろしてしまっているため、動けない。そもそも、体を動かすことに慣れていないのだ。
「どうなるか知らないって、こういうことなの。自分で自分に直接殺されるなんて、ちょっとできない体験よね。離魂病でさえ、直接じゃなかったはずよ」
気が動転して、一層口数が増える。それでも紅子は、無表情に見下ろす「自分」を、じっと見ていた。
死はあまりに近すぎて、そのものに忌避は薄い。ただ――それが唐突なものと知ってはいても――わけが判らずに終わるのは、好みではない。
「あら?」
喉にからみつく手にろくに抵抗もせず、紅子は、その眼を覗き込んだ。
「あなたの眼。悪魔さんに似てるわ」
手が、力を込める寸前で消えた。手だけでなく、もう一人の自分そのものがいなくなった。
「え? 何?」
次いで、闇が消える。慌てて見回すと、そこは自室で、寝台に寝ていた。急に頭を動かしたものだから、既に馴染みの、きつい眩暈がおきた。
「契約には、血を使う」
「え? あの、悪魔さん?」
暗闇に入る前に、幾つか会話を交わした男が寝台の横に立ち、感情のないような表情をしていた。
暗闇に入る前の状況なのだと、気付くのに少しかかった。
「何だ」
「私、どうして帰ってこられたのかしら。後ろを振り返ってしまったのよ。自分に殺されるところだったのに。そういえばあの私は、あなたに随分と似てたわ」
「お前は、条件を満たした。だから契約を…」
「待ってよ。だから、満たしてないわ。出口を見つけてないし、後ろも振り返ったのよ」
困惑したまま、紅子はか細い声で反論した。男は、溜息をついた。
「あれが条件だったんだ」
「どういうことよ」
「あそこから、帰ること。条件は問わない」
では、もう一人の自分がこの男だと、見抜いたから戻れたのだろうか。気付かなければ、ずっと歩き続けたか、そのまま殺されたか。そんなところだったのだろうか。
「…嘘、ついたのね?」
「悪魔はずる賢いものなのだろう?」
「騙された…?」
呟いて、溜息をつく。そうして一度、深呼吸をした。
「まあいいわ。契約を」
「ああ」
静かな夜の、出来事だった。
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