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2005/12/29
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図書室に本を借りに来た行柾は、例によって人の少ないテーブル席に、黒い物体が置かれていることに首を傾げた。
「布…?」
近付いて、持ち上げてみる。驚くほどに軽い布だが、他にカバンがあるでも筆箱が置かれているでもなく、落としものだろうか、それとも暗幕…にしては小さいなと、いよいよもって疑問が膨らむ。
広げてみようかとしたとき、あっ、と、声がした。
「ごめん、それ僕の!」
「えーっと、五組の壱原?」
行柾が記憶を発掘している間に、眼鏡をかけた線の細い同級生は、駆け込むように近付いて、黒い布を取り上げた。
むっとする。
「勝手に触ったのは悪かったかもしれないけど、大事ならこんなところに置いとくなよ」
「あ。ごめん、そうじゃなくて…」
「何だよ」
「その…。いや、いいよ。態度悪くてごめん、見つけてくれてありがとう」
言いかけてやめるなと、友人であれば襟首を掴んでいるところだ。しかし壱原は、選択授業で一緒になるから、どうにか顔と名前が一致するくらいで、喋るのは今日が初めてに近い。行柾は、肩をすくめると、背を向けた。
用事があるのは、閲覧室ではなく書架だ。
壱原が、申し訳なさそうに見つめているのは気付いていたが、そのまま無視をした。
そんなことがあった、数日後の放課後だった。
試験休みで部活もなく、行柾は、まだ明るいうちに家路をたどっていた。早く帰ったところで勉強をするとは思えないのだが、かといって、遊びに出掛けようとも思わない。
家まで五分とかからない児童公園で足を止めたのは、何かを見たような気がしたからだった。それが何だったのか判らず、行きすぎた体を戻して覗き込むと、カラフルに塗りたくられたベンチに、老人と壱原が座っていた。
「…何やってんだ?」
思わず呟きが漏れたのは、壱原が、あのときの黒布を纏っていたからだった。まるでマントのように、オペラ座の怪人や、怪傑ゾロのように。少年は、こちらには気付いていないようだった。
よく見ると、眼鏡をかけていない。それに、いつもはうっとうしげにかかっている前髪を、整髪料ででも固めているのか、額を出すように分けられている。それだけでがらりと印象は変わり、よく一瞬で判ったなと、行柾は、己に妙な感心をした。
壱原は、老人に微笑みかけると、ふわりと布を持ち上げ、抱くようにして覆った。
「ドラキュラかよ。おい、壱原」
何やってんだ、と続けようとした言葉が、艶然とみつめられ、喉に引っかかる。待てあれは男だろう、と、自分の一端が悲鳴を上げる。
しかしそれも一瞬で、壱原は、青ざめるようにして表情を強張らせた。そうすると、いくらかは線が細いが、ただの同級生だ。
はっとしたように、老人がいるだろう場所を見つめ、黒布を振り上げ、ひとまとめにしてそれを抱えて走り出した。
「え」
呆然とそれを見送ってしまい、反対側の入り口から逃げられる。
しばらくして、我に返ってから公園に踏み入ると、ベンチの老人は、幸福そうに目を閉じている。小春日和であれば、昼下がりの居眠りで、ほほえましい情景だ。だが今日は、薄明るくはあるが曇り空で、風は冷たい。
「おい、じいさん。こんなとこで寝てたら風邪ひくそ。じいさん?」
壱原が何をしていたのか聞きたいということもあるが、やはり体調が心配になり、声をかけても反応のない老人を多少強く揺さぶるが、全く起きる気配が無い。どうしたものかと更に揺さぶると、そのまま横にこけてしまった。
腕を掴んでいたからいくらかは緩和したが、それでも衝撃があったはずなのに、ぴくりともしない。
恐る恐る脈をみてみるが、そもそもうまく取れたためしがないため、反応はないのだが、よくわからない。そこで思いついて胸に耳をあてると、何の音もしなかった。
「壱原」
うっとうしく長い前髪をたらした少年は、びくりと怯えたように、眼鏡の向こうから視線を寄越した。
他のクラスメイトたちは、朝の始業前とあって、特に注目するでもない。行柾は、壱原の細い腕を取ると、教室から連れ出した。
「昨日のあれ、説明してもらうからな」
少年から、応えはなかった。だが、抵抗するでもなくついてくる。
そして二人は、屋上前の踊り場にやってきた。屋上には、残念ながら、鍵がかかっていて出られない。
「で」
逃げられないように、壱原を屋上に出る扉に背を向けて座らせ、その上、腕も掴んだままだ。
少年は、うつむいたまま顔を上げようとはしない。
「…信じてもらえないと思うよ」
ようやく放たれた声は意外にはっきりとしていて、行柾は、おやと思った。
「そんなもん、聞いてからの話だ。とにかく、話せよ。お前のおかげで俺は昨日、警察に話聞かれたんだからな」
「だけど…自然死、だったでしょう?」
「なんで知ってんだよ」
やはり知っていたのかと、根拠もなく思い、行柾は少年をにらみつけた。
壱原は、溜息をつくと、顔を上げた。次いで、学ランの胸ポケットから、するりと黒い布を取り出した。結構な大きさのはずだが、学ランの胸が膨らんでいた様子もなかった。
「夜のマント、っていう児童書を知ってる?」
「夜のマント?」
壱原は、取り出した布を羽織るようにすると、口元に、どこか皮肉めいた微笑を浮かべた。
「黒いマントの出てくる話だよ。それは、本来眠りを持たない神々にさえ眠りをもたらし、人の子には、深い眠りか永久の眠りを与える。それを盗み出してしまった子供の冒険を描いたのが、『夜のマント』だよ」
「ああ、それなら読んだような。最後には、ぐっすり眠れるって勘違いした少年が、居眠りしていた長老にマントをかけるんだったっけ?」
「そう。『そうして長老は、二度と目覚めることはありませんでした。しかし少年は、そんなことも知らずに、長老が起きて、彼の冒険を聞いてくれるのを心待ちにしていたのでした』」
長老が目を覚まさなかったのは、残りの命の少ないものは、そのまま永久の眠りについてしまうという、マントのせいだった。
凄い終わり方だなと思ってから、壱原の纏う布に目を止めた。
何故、この話を持ち出した。
「そう。これが、夜のマント。今では変質して、自ら眠りを求めるようになってしまったけれど。君は、危なかったよ。これを被っていたら、目覚めないところだった」
「何故――」
「眠りを集めて、戻さなくてはならないんだよ。僕の先祖が、これを盗み出してしまったのだから」
やはり微笑んで、壱原は、壁に手をつくと、ひらりと行柾を飛び越えた。予鈴の鐘が、聞こえた。
「信じるも信じないも、君次第だ。ただ、他の人に言ったところで、信じてもらえるとは思わないよ」
行柾は、それを呆然と見送ってしまい、うっかりと授業に遅刻してしまった。
「布…?」
近付いて、持ち上げてみる。驚くほどに軽い布だが、他にカバンがあるでも筆箱が置かれているでもなく、落としものだろうか、それとも暗幕…にしては小さいなと、いよいよもって疑問が膨らむ。
広げてみようかとしたとき、あっ、と、声がした。
「ごめん、それ僕の!」
「えーっと、五組の壱原?」
行柾が記憶を発掘している間に、眼鏡をかけた線の細い同級生は、駆け込むように近付いて、黒い布を取り上げた。
むっとする。
「勝手に触ったのは悪かったかもしれないけど、大事ならこんなところに置いとくなよ」
「あ。ごめん、そうじゃなくて…」
「何だよ」
「その…。いや、いいよ。態度悪くてごめん、見つけてくれてありがとう」
言いかけてやめるなと、友人であれば襟首を掴んでいるところだ。しかし壱原は、選択授業で一緒になるから、どうにか顔と名前が一致するくらいで、喋るのは今日が初めてに近い。行柾は、肩をすくめると、背を向けた。
用事があるのは、閲覧室ではなく書架だ。
壱原が、申し訳なさそうに見つめているのは気付いていたが、そのまま無視をした。
そんなことがあった、数日後の放課後だった。
試験休みで部活もなく、行柾は、まだ明るいうちに家路をたどっていた。早く帰ったところで勉強をするとは思えないのだが、かといって、遊びに出掛けようとも思わない。
家まで五分とかからない児童公園で足を止めたのは、何かを見たような気がしたからだった。それが何だったのか判らず、行きすぎた体を戻して覗き込むと、カラフルに塗りたくられたベンチに、老人と壱原が座っていた。
「…何やってんだ?」
思わず呟きが漏れたのは、壱原が、あのときの黒布を纏っていたからだった。まるでマントのように、オペラ座の怪人や、怪傑ゾロのように。少年は、こちらには気付いていないようだった。
よく見ると、眼鏡をかけていない。それに、いつもはうっとうしげにかかっている前髪を、整髪料ででも固めているのか、額を出すように分けられている。それだけでがらりと印象は変わり、よく一瞬で判ったなと、行柾は、己に妙な感心をした。
壱原は、老人に微笑みかけると、ふわりと布を持ち上げ、抱くようにして覆った。
「ドラキュラかよ。おい、壱原」
何やってんだ、と続けようとした言葉が、艶然とみつめられ、喉に引っかかる。待てあれは男だろう、と、自分の一端が悲鳴を上げる。
しかしそれも一瞬で、壱原は、青ざめるようにして表情を強張らせた。そうすると、いくらかは線が細いが、ただの同級生だ。
はっとしたように、老人がいるだろう場所を見つめ、黒布を振り上げ、ひとまとめにしてそれを抱えて走り出した。
「え」
呆然とそれを見送ってしまい、反対側の入り口から逃げられる。
しばらくして、我に返ってから公園に踏み入ると、ベンチの老人は、幸福そうに目を閉じている。小春日和であれば、昼下がりの居眠りで、ほほえましい情景だ。だが今日は、薄明るくはあるが曇り空で、風は冷たい。
「おい、じいさん。こんなとこで寝てたら風邪ひくそ。じいさん?」
壱原が何をしていたのか聞きたいということもあるが、やはり体調が心配になり、声をかけても反応のない老人を多少強く揺さぶるが、全く起きる気配が無い。どうしたものかと更に揺さぶると、そのまま横にこけてしまった。
腕を掴んでいたからいくらかは緩和したが、それでも衝撃があったはずなのに、ぴくりともしない。
恐る恐る脈をみてみるが、そもそもうまく取れたためしがないため、反応はないのだが、よくわからない。そこで思いついて胸に耳をあてると、何の音もしなかった。
「壱原」
うっとうしく長い前髪をたらした少年は、びくりと怯えたように、眼鏡の向こうから視線を寄越した。
他のクラスメイトたちは、朝の始業前とあって、特に注目するでもない。行柾は、壱原の細い腕を取ると、教室から連れ出した。
「昨日のあれ、説明してもらうからな」
少年から、応えはなかった。だが、抵抗するでもなくついてくる。
そして二人は、屋上前の踊り場にやってきた。屋上には、残念ながら、鍵がかかっていて出られない。
「で」
逃げられないように、壱原を屋上に出る扉に背を向けて座らせ、その上、腕も掴んだままだ。
少年は、うつむいたまま顔を上げようとはしない。
「…信じてもらえないと思うよ」
ようやく放たれた声は意外にはっきりとしていて、行柾は、おやと思った。
「そんなもん、聞いてからの話だ。とにかく、話せよ。お前のおかげで俺は昨日、警察に話聞かれたんだからな」
「だけど…自然死、だったでしょう?」
「なんで知ってんだよ」
やはり知っていたのかと、根拠もなく思い、行柾は少年をにらみつけた。
壱原は、溜息をつくと、顔を上げた。次いで、学ランの胸ポケットから、するりと黒い布を取り出した。結構な大きさのはずだが、学ランの胸が膨らんでいた様子もなかった。
「夜のマント、っていう児童書を知ってる?」
「夜のマント?」
壱原は、取り出した布を羽織るようにすると、口元に、どこか皮肉めいた微笑を浮かべた。
「黒いマントの出てくる話だよ。それは、本来眠りを持たない神々にさえ眠りをもたらし、人の子には、深い眠りか永久の眠りを与える。それを盗み出してしまった子供の冒険を描いたのが、『夜のマント』だよ」
「ああ、それなら読んだような。最後には、ぐっすり眠れるって勘違いした少年が、居眠りしていた長老にマントをかけるんだったっけ?」
「そう。『そうして長老は、二度と目覚めることはありませんでした。しかし少年は、そんなことも知らずに、長老が起きて、彼の冒険を聞いてくれるのを心待ちにしていたのでした』」
長老が目を覚まさなかったのは、残りの命の少ないものは、そのまま永久の眠りについてしまうという、マントのせいだった。
凄い終わり方だなと思ってから、壱原の纏う布に目を止めた。
何故、この話を持ち出した。
「そう。これが、夜のマント。今では変質して、自ら眠りを求めるようになってしまったけれど。君は、危なかったよ。これを被っていたら、目覚めないところだった」
「何故――」
「眠りを集めて、戻さなくてはならないんだよ。僕の先祖が、これを盗み出してしまったのだから」
やはり微笑んで、壱原は、壁に手をつくと、ひらりと行柾を飛び越えた。予鈴の鐘が、聞こえた。
「信じるも信じないも、君次第だ。ただ、他の人に言ったところで、信じてもらえるとは思わないよ」
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