地球と地球儀の距離

来条恵夢

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春呼び 2005/1/12

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「わっ、つっ、ちょ、待っ…!」

 くるくると風に翻弄されながら、少年は、空を舞う花弁はなびらを追った。
 薄く色付いたそれは、冬の花には珍しく、かすかではあるが色がついている。この花が咲くと、春も近い、と、人々は思うのだった。
 この花が咲き、散り始めるころになると、いよいよもって、春の到来だ。そのため、「春呼び」とも呼ばれる。

「待って待って待って!」

 一生懸命に、精一杯に真剣ながらも、見る者に微笑を誘う。こんな情景も、春が近いと実感させるうちの一つだ。

 ひとりでに散った春呼びの花弁を、落とすことなくつかめたら、一つ願い事が叶う。そんな、言い伝えがある。
 主に子供たちが、遊び半分に花弁を追いかける。

 それは、意外に難しかった。小さく薄い花弁は、かすかな風にも流され、掴もうと伸ばした腕の動きにさえ、ひらりと向きを変える。
 叶えてくれるのは、小さな願い。
 だから、もしも大きなことを願うのなら、何度も何度も、捕まえなければならない。それでも足りなければ、願いは叶わない。
 人々は、たわむれ半分に花弁を追う。

「…った!」

 うまく掴めたらしい少年が、喜びに顔をほころばせる。外で遊んで、農作業でかれて、黒くなった元気そうな少年は、よくいる子供だ。
 少年は、喜びもつか、掴んだ花弁をそっと上着の内ポケットに忍ばせると、また、花弁を追いかけ始めた。

「っ…!」

 小さく叫びながら、一生懸命に、宙を舞う花弁に手を伸ばす。

 夕方。
 少年は、まだ夜のとばりが早く、真っ暗になった中で、じっと春呼びの木を見上げた。もう、野良仕事をしていた人たちも見掛けない。夜闇は、家の中でしのぐのであって、外に出るものではない。
 じっと、睨み付けるように。少年は、春呼びの、白くほのかな花の咲き乱れた木を見上げた。太い幹には、触れようともしない。
 上着の胸の部分を押さえて、声を張り上げる。

「春呼び! かあちゃん、病気なんだよ! しぬのは…わかってる。冬はこせないって、医者がいってた」

 泣きそうに、声が震える。それでも少年は、涙はこぼさなかった。

「だけど…ここまできたんだ。春は、ちかいんだ。なあ…春呼び。はやく、春を呼んでくれよ。せめて、春まで。花がいっぱいさいてて、動物だってたくさんいて、かあちゃんのすきな春を、はやく呼んでくれよ。せめてさいごに、春を。みせて、やってよ…」

 幹に頭を押しつけて、目を閉じる。静かに、涙が流れた。
 冷たい風が吹いて、春呼びの花を散らす。静かな音を立てながら、闇色に染まった白い花弁が、ふわりと舞い降りた。
 少年は、それを見上げることもなく、春呼びの幹に寄りかかっている。
 しばらく、そうしていた。姿を見せた月に、少年は、背を向けていた。

「なあ。たのむよ。…いっぱい、あつめたんだ。はなびら。来年には、おれは、ここにいない。都にいくんだ。弟子いりして、ひとりでいきていく。もう、誰もいないから。…さいごに。たのむよ。おなじ村でそだったよしみで、さ」

 ゆっくりと、少年は体を起こして、春呼びを見上げた。
 うすい、闇色に染まった、白っぽい花弁。
 少年は、過ぎった風に舞った花びらを、鼻先にとめた。そっと、手で押さえるようにしてつまむ。
 薄い、ちっぽけな花弁。

「たのむよ」

 呟くように言って、少年は、くるりと身をひるがえした。
 帰ろう、母の元へ。今では、眠る時間の多くなった母の元へ。共に過ごせる時は、あと、わずかだから。

 ――春は、もうそこまで来ていた。 
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