地球と地球儀の距離

来条恵夢

文字の大きさ
上 下
44 / 95

後ろの正面 2004/3/28

しおりを挟む
 あれ、ここは?
 ああ、そうだった。ぐに歩くのだった。出口は、着けば判るからって。
 後ろを振り向いちゃいけないって。
 真っ直ぐ、歩いて行きなさいって。


「あー…後ろ、振り向きたくなってきちゃった」

 冗談めかして、わざと声に出して言う。
 そうでもしなければ、不安に押しつぶされそうだった。ここで座り込んでしまうか、振り向いてしまうか。
 ただでさえ、随分長いと思える時間を、この暗闇を歩いているのだ。前も後ろもないような暗闇を、多分前だろうと思う方向に向かって。

 ここに連れてきた男と出会ったのは、自室だった。紅子ベニコは、寝台に横たわり、何度目か判らないままに生死のさかい彷徨さまよっていた。
 男から話を聞いて、即座に、先日手に入れたばかりの物語を思い浮かべた。
 驚くほどに病弱な体で外出もままならない紅子にとって、読書は最大の時間の消化の仕方だった。もっともそれも、長時間は困難という制約がついていた。

「つまり、あなたがメフィストフェレスで、私がファウスト博士というわけね?」
「…まあ、そんなところだな」
「あら、あなたもあの話を知っているの? 悪魔も、本って読むのね」

 長い沈黙の後に、渋々といったていで返された言葉に、紅子は目を見張って言った。先程よりも長い沈黙の後には、溜息だけが聞こえた。
 そうして、約束をしてこの暗闇に連れてこられた。契約を交わすのは、この後だ。

「それにしても、悪魔って親切よね」
「…そんなことは、はじめて言われた」
「そうなの」
「何故」
「だって、報酬は後払いでしょう。ずる賢いと聞いたから、詐欺まがいで命だけかすめ盗られたら話は別だけど。先に願いを叶えてくれるのだから、親切よ」  
「…そういう、ものか…?」
「ええ。だって、報酬先払いで、散々厭な目に遭って、万が一でも悟りきったりしてご覧なさいな。復讐や野望の入る隙がないわ。そうなったら、願い事が叶えられないじゃないの。私はね、あの人たちを絶対に赦さないと決めているの。悟ってしまっては困るのよ」
「…親族を殺すのが、お前の願いか?」
「まさか。そんなにすぐに、楽になってもらっては困るわ。あの人たちは、私がいて、ぬかりなく財産を見張っているだけで迷惑なのだもの。それなら、散々迷惑をかけて、私自身は生活を楽しむの。私が非の打ち所がないくらいに健康で、厭になるまで私自身が楽しく生きることが望みよ。もちろん、羽山成ハヤマナリの当主になって、散々親戚一同に迷惑をかけてね」

 そうして、契約のために出された条件が、この暗闇から戻ること。禁止されたのは、後ろを振り向くこと。
 もしその禁止を破れば、どうなるかは知らないと言われた。

「だけど、駄目よね。禁止事項って、まるで破らせるためにあるみたいなんだもの。ウグイスのを開けてしまった人の気持ちが分かるわ」

 やはり声に出して言って、紅子は足を早めた。
 一切光のない暗闇のせいで、時間感覚など、うに麻痺している。それでなくても、自分の足で歩く機会すら少ないのだ。
 はじめの頃こそ、歩いても歩いても息切れもせず、倒れることもない体に喜んだが、ここまで来ると不安がまさる。少し、飽きたこともあった。

「駄目よね、駄目よ。それに、後ろを見たってどうせ、何にもないんだから。ああだけど……」

 ぴたりと足が止まったのは、もう十回ほども、そんなことを一人で呟き続けた後だった。
 止まって、ゆっくりと、恐々こわごwと首を動かす。三度ほど躊躇ためらった後、思い切って体ごと振り向く。

「…あら」

 一瞬、鏡があるのかと思った。しかしすぐに、違うと判る。手が伸びてきて、首を絞めたのだ。
 咄嗟に、後ろに倒れ込む。思い切り打ち付けたお尻が痛いが、それに顔をしかめるよりも、向かいに立つ「自分」に目を見張っていた。

「ええと、離魂病? ゲーテ尽くしなのね…なんて、言ってる場合じゃないみたいだけど…」

 更に手が伸びてきて、逃げたいのだが、しっかりと腰を下ろしてしまっているため、動けない。そもそも、体を動かすことに慣れていないのだ。

「どうなるか知らないって、こういうことなの。自分で自分に直接殺されるなんて、ちょっとできない体験よね。離魂病でさえ、直接じゃなかったはずよ」

 気が動転して、一層口数が増える。それでも紅子は、無表情に見下ろす「自分」を、じっと見ていた。   

「あら?」

 喉にからみつく手にろくに抵抗もせず、紅子は、その眼を覗き込んだ。

「あなたの眼。悪魔さんに似てるわ」

 手が、力を込める寸前で消えた。手だけでなく、もう一人の自分そのものがいなくなった。

「え? 何?」

 いで、闇が消える。慌てて見回すと、そこは自室で、寝台の上に座っていた。急に頭を動かしたものだから、既に馴染みの、きつい眩暈めまいがおきた。

「契約には、血を使う」
「え? あの、悪魔さん?」

 暗闇に入る前に、幾つか会話を交わした男が寝台の横に立ち、感情のないような表情をしていた。
 暗闇に入る前の状況なのだと、気付くのに少しかかった。

「何だ」
「私、どうして帰ってこられたのかしら。後ろを振り返ってしまったのよ。自分に殺されるところだったのに。そういえばあの私は、あなたに随分と似てたわ」
「お前は、条件を満たした。だから契約を…」
「待ってよ。だから、満たしてないわ。出口を見つけてないし、後ろも振り返ったのよ」

 困惑したまま、紅子はか細い声で反論した。男は、溜息をついた。

「あれが条件だったんだ」
「…嘘、ついたのね?」
「悪魔はずる賢いものなのだろう?」
「騙された…?」

 呟いて、溜息をつく。そうして一度、深呼吸をした。

「まあいいわ。契約を」
「ああ」

 静かな夜の、出来事だった。 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語

六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。

処理中です...