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私は正気です。
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ご苦労様です。刑事さん。これから取調ですか?
ええ、ええ。分かっていますとも。弁護士が付く付かないはどうでも良いことです。
他人に弁護される筋合いはありませんから。
言葉は魔物なんです。僕の言葉や想いを誰とも知れぬ他人から、好き勝手に捻じ曲げられたくはないんですよ。
ましてや減刑するために屁理屈をこねて、あることないことを好き勝手にさえずって先生なんて呼ばれて飯食ってるような人達には。
僕は多くの人を殺した。殺し過ぎた。裁判になれば僕は間違いなく死刑になるでしょうね。
死にたいわけじゃあないけれど、だからと言って、事実や僕自身を捻じ曲げて、間違った解釈をされてまで減刑されたいなんて思えません。到底。
ああ、精神鑑定とかは不要ですよ。僕は正常だ。心身喪失だったとかで責任能力が無いとかって勝手に僕を変えられるのはごめんだ。
僕という存在の在り方を勝手に捻じ曲げられるのだけはごめんなんですよ。本当に。
だからね刑事さん。
僕は嘘を吐かないし、黙秘もしない。聞かれたことは全て正直に答える腹積もりですよ。
だからどうぞ好きなだけ聞いてください。どんなことでも供述しますから。
氏名と生年月日? 意外とお役所的なんですね。
そんなに睨まないでくださいよ。逮捕されるのも取り調べを受けるのも初めてのことなんですから。
相倉太。1999年7月10日生まれ。31歳。
2029年11月3日の引助田権殺しから続く無差別連続猟奇殺人事件の犯人です。
間違いなく本人ですよ。
さて、まずは何から話しましょうか?
引助田権とその妻、日向、田才分親、村二愛、字葉伽陀、凪吾寅、九多賀炎と娘の杏、飯小戸輝、神蛇郁、井古拳、飯田綾、伊鷹幾太、内野迫と鶴の親子。上釜定、林悟、宇渡揮絵、考中徹、尾朝騎士、片野斗真、城戸久利須、皐月梓、比佐咲良、大神久士と愛人の蘇草夏に、大神の子の蘇草聡子と透子、久良岐碧、手科礼、黒須吠邦、三島瑠佳、高須由愛、後留五郎、大創博丈、江頭̪詩亜、字富浩三、朱戸芽流、布暮周、郡成久、河津勉、椎泥玲、奈良俊彰、三吉慶一嘉神拐、屋城兵部、田須翼、馬佐弾、懐田蓮、山崎真紀、菅琉冨久代、前暮来無、黒木美衣、烏鷺光、中村一、茂木安里、鳥栖全一、東郷健、手越走介、道内瑠璃、総勢60名。確かに殺しました。
僕が殺しました。
僕自身の正気と意志をもってこの手で殺したのです。
ここ最近で似たような事件が多発するようになりましたね。
けれど、僕が殺したのはこの60人だけだ。僕が1人で殺しました。共犯者はいません。1人だけです。
だから僕に影響を受けて現れた模倣犯たちの証言は嘘です。嘘を吐いているのです。
それか刑事さんのお仲間が、事件を早く終わらせたくて偽りの証言をさせたのでしょう。
大神久士、九多賀炎、河津勉、内野迫、懐田蓮、鳥栖全一の加害者が僕では無く、偶々近くで殺人を犯した無関係の犯罪者だと報道された時はとても悔しく、悲しく、それにどうしようもない怒りを覚えたものです。
愛の果てに正気と命を奪ったのに、横から出てきた恥知らずに僕たちの間に産まれた愛と絆を奪い取られたような、そんな言い知れない脱力感もありましたね。
連続殺人鬼が愛だとか絆なんて言葉を使うのが、そんなに変ですか?
刑事さんは少しテレビの見過ぎですね。
無差別連続猟奇殺人事件なんて言い出したのも言い続けたのもマスコミだ。
さっきは世間に合わせて僕も無差別連続猟奇殺人事件の犯人ですと言いましたけど、それは本質じゃあありません。
そもそも無差別ではありません。こう見えても僕は殺す相手を選んでいました。
ええ。仰る通り同じ職場の字葉伽陀以外に、僕と彼等の間に面識はありませんでした。
矢張り、日本の警察は優秀だ。確かに面識は無かったのです。
けれど、僕たちには確かな絆があった。特に大神久士とは。
彼だけではありません。警察の言い方に合わせるなら他の被害者達もです。
愛や絆、執着が無くては殺す意味も、殺す価値もない。ただの徒労だ。
大神久士は所謂、同類という奴でしてね。一目で分かりましたよ。彼は僕と同じで飽いていると。
ええ、飽きです。これが一番最初の動機です。
ええ、最初の。
愛だの絆だの言いましたが、退屈していたのです、僕は。
人を知り、愛を交わし、絆を結んでいく内に変化していきました。
人の心も、考え方も、価値観も、常に一定では無く不変ではありませんから。
今まで正しいと思っていたことが間違っていることに気付く。
それまで素晴らしいと思っていたものが突如として下らなくなってしまう。
他人には理解できない理由であっても人は、些細な切っ掛けが一つだけでも、己の道理を以って変わるのです。
でなければ60人もの人間に愛や絆、執着心など生まれやしません。
だから一番最初の動機です。一番最初の動機は飽きなのです。
まだあの時の僕は、自分が一体、何に苛まれているのかが分からなかった。
今なら別の言葉で言い表すことが出来る。
けれど、一番最初の動機は人生に対する飽きです。
ねぇ、刑事さん。昔、コビッド19って流行ったでしょう? あの時のこと覚えてます?
その前の豪雨は?
大型台風で建物が吹き飛んでいくのは?
東日本大震災は?
僕が生まれる前には阪神淡路大震災や脱線事故、地下鉄サリン事件なんてのもありましたね。
あの時、世の中がどうだったかって覚えてます?
なんなら三年前の災害でも構いませんが。
まあ、覚えてないですよね。
当事者ですら過去の出来事扱いだから当然ですよ。
特に強烈な不幸を味わっているとかでなければ、当事者の凄惨な記憶だって、次から次に訪れる明日の出来事に、頭の片隅に、心の奥底に追いやられていくのが普通です。
そして、記憶を紛失してしまう。
どれだけ熱くても喉元過ぎれば熱さを忘れる。当たり前のことです。
人は過去から反省しないなんて馬鹿にした風な口を利く人もいますけど、今と明日を生きている人間なら忘れる方が正常なんですよ。
時間とはヤスリと同じですから。
過去に囚われ続けたところで時間が過去を摩耗させて、やがて粉々になって風と共に消えていく。
囚われているという事実だけが残り、やがて自分が何に囚われているのかも分からなくなる。
だから事実どころか自分の心さえも捏造して、目の前に見えている物さえも見たいように認識も捻じ曲げていく。
今を生きていない奴の特徴です。
あまりにも哀れでどうしようもない。
どうしようもなく滑稽で、何より不幸な存在だと言っても良い。
となれば、そんな人間にはなりたくないと思うのが当然でしょう?
今と前。そして、先。
それだけを見据えて生きていくのが、哀れな人間にならない秘訣だと、そう思って生きて来ました。
ただ、それも暫くしてから絶対的な正解ではないということを知りました。自覚しました。
飽きてしまったんです。
理由はありません。
急に何もかもが面白くなくなって時間だけが無為に過ぎていくようになっていました。
焦りはありませんでした。
でも、疑問はありました。
僕も人間ですから1日くらい何もしたくない日があったとしても不思議じゃない。
それでも2日、3日。更に長い日数、明らかに不良なコンディションが続けば脳内を占める疑問の大きさも増していく。
無自覚な悩みがあるのかも知れないと思い、やる気の出ない頭で自己診断の真似事もしてみました。
仕事は順調でした。
刑事さんも既に調べているでしょうけど、大企業の出世頭で収入に不満も無く、借金も無い。
顧客も厳選しましたから仕事でストレスを抱えることは無い。
家族や親戚、恋人や友人との関係も良好。
怪我らしい怪我も無ければ、持病も抱えておらず、金、人間関係、健康、将来、何の不安もない。
それなのに、急に何もかもが下らなくなった。
下らないだけなら別に良いのです。
外面を良くするのは社会人、いえ、人間関係の必須スキルですから。
その程度、誰だって息をするように出来る。ストレスには決してなり得ない。
ただ苦痛だったのが何をして良いかが分からなくなってしまったこと。
ただ、それだけです。
だってそうでしょう?
アレは下らない。コレもつまらない。ソレも時間の無駄だ。
何もかもが無意味で無価値なら、僕は何をすれば良い?
僕は何をやれば満足する?
僕は何をして満足していた?
何なら楽しめる?
何を楽しんでいた?
何がしたい?
何がしたかった?
長期休暇に入る直前、職場の人達が『あれが楽しみだ』『これが楽しみだ』と、夏休み前の子供達のように目を輝かせて休暇を心待ちにしている中、僕だけが何も無かった。
良い歳をした大人が駄々を捏ねる子どものようで嫌だ、やりたくないを繰り返すばかりで何もしない、やろうともしない。
あの時は自分の心があまりにも無様な状態だと理解していました。
そして幸いにも、そのままではいけないと立ち上がるだけの若さを備えていた。
現代社会にとっては不幸な話ですが。
ええ、そうなんです。
何もかもがつまらない。
自分の将来すら投げやりになっていく。
本当にどうでも良いというのなら何処まで自分を投げ捨てられるか試してみよう、そう思いました。
人を殺してみよう、と。
人を殺すにあたって誰を殺すかですが……
自分語りが多くてすみませんね。
一番最初の犯行、引助田権殺し。
世間では強烈な怨恨による強盗殺人事件として取り上げられていましたが違います。
先程、散々、愛だの絆だの言っておきながらですが、ただの衝動的な殺人です。
金目の物を盗んだのは、あの日、偶々財布を忘れていたからです。
彼を殺し終えてから帰路についたのですが、途中で財布を自宅に置き忘れたことに気付きました。
仕方がないから犯行現場に戻って彼の財布を拝借したのです。
歩いて帰るのは面倒どころではない距離でしたから。
それを若い妻を持つ金持ちに対する逆恨み的な僻みだと言っていた専門家を自称するコメンテーターには呆れたものです。
動機ですか?
ですから衝動です。
彼の名前を知ったのも財布の中に入っていた免許証を見てからです。
何の関わりも無い、ただの他人です。
しかし……そうですね。あの時、彼と目が合った瞬間に感じた気持ちを敢えて名付けるなら……
一目惚れでしょうね。
彼は何処にでもいる中年男性だ。見た目だけなら。
彼が一財を成した大人物だと知ったのは後の方。
あの時の僕は彼の社会的価値を知らなかった。
それを知った今でも、彼の社会的価値は、彼の本質的な価値に何ら装飾できる程のものではないと僕は確信している。それ程の大人物だ。
目が合った瞬間、激しく心を揺さぶられたのです。
もしも運命というものがあるのだとしたら信じても良いほどです。
どうすれば、あの感動と衝動を伝えられるのか。
良いですか、刑事さん。
僕はどうしようもなく飽きていた。
飢えていた。
新しい刺激が無くてはならなかった。
何をすればいい?
どうすればいい?
分からない。何も分からない。
そうだ、いっそのこと人を殺してみるのはどうだろうか?
いやいや、待て待て、正気か?
今まで真面目に真剣に生きて来て、貧困層や中流層くらいからは羨まれる程度には成功を積み重ねてきた。
それを一時の気の迷いで、今まで積み重ねてきたもの全てを捨てるというのか?
基本的に殺人には執行猶予は付かない。
初犯なら死刑、無期懲役ってことは無いにしても、まず間違いなく懲役10年の実刑判決を受けることになる。
ちょっとした憂鬱な気分を晴らす為に、これまでの成功と、これからの10年を捨てるというのか?
檻の中で10年も犯罪者と共同生活をしなくてはならないのか?
そんなのは絶対に無理だ。
意外でしたか?
実は引助田権と出会うまでは殺しに対する興味と社会的制裁の恐怖に揺れていました。
揺れていると言うよりも、退屈だから殺してみたいという、中二病じみた子供の妄想で自分を慰めていたと言った方が正確でしょうか。
リスクに激しい恐怖を覚え、まだ本当に殺す気はありませんでした。
ですが、そんな中途半端な状態から僕を動かしてくれたのが引助田権なんですよ。
彼と目が合った瞬間に、今まで眠っていた娯楽や快楽への欲求、挑戦心や意欲、熱意のある人間だけが多く持つ、素質の全てが開放された。
名前も知らず、顔を見たのも初めて。
そんな男と目が合った瞬間に僕は思った。
確信した。
決定した。
何が何でも、この男を殺さなくてはならない。
さもなくば、僕はずっと後悔を抱いて死んだように生きるしかなくなる。
原因不明の無気力状態から、いきなりこれです。
これを一目惚れと言わずして何と言うのか。
驚愕と興奮で頭の中は滅茶苦茶で思考もよく定まらない。
ただ何かをしたかった。殺したかった。ここで止まってはいけない。
ここで止まったら、今度こそ僕の心が餓死する。ただその一心でした。
気付いた時には引助田権は死んでいた。
凄まじい達成感に頭がどうにかなりそうでした。
けれど、だからこそ惜しかった。
何がって?
言ったでしょう。気付いた時には引助田権は死んでいたって。
僕が殺したことは間違いない。
放心状態になっている内に、他の誰かが表れて引助田権を殺したなんて事実はありません。
ただひたすら夢中だったんです。
夢中になって引助田権を殺そうとした。
ただ、その衝動があまりにも強過ぎて殺したと言うよりは、気付いたら死んでいたと言った方が適切なのです。
とは言え、決して違えることなく僕が殺したのです。
楽しかった。凄かった。
なのに、あんな一目惚れのような出会いだったのに雑に殺してしまった。
いい加減に、雑に彼を失ってしまった。
それが心残りになりました。
心残りはあったけど、殺人の忌避や罪悪感は微塵もありませんでした。
あの日の僕は、久しぶりに食欲旺盛になって、酒もよく呑んだ。
腹いっぱい美味い食事をして、気持ちよく酔っぱらって、久しぶりにシャワーではなく風呂に入って、気持ちよく眠ることが出来ました。
長期休暇前日の夜としては最高のスタートを切ったと言って良いでしょう。
けれど日本の警察は優秀だ。
早かれ遅かれ引助田権を殺した犯人が僕だと分かるに違いない。
証拠の隠滅だってしていなかったし、僕に繋がる痕跡は沢山出て来るはずだ。
でも、あの達成感を味わった後なら、その後の制裁も耐えられるだろう。そう思ったんです。
目を覚まして暫くして、頭が働き出したせいか、違う。そうじゃないと考えを変えました。
あの殺人は衝動的過ぎて満足いくものではなかった。
警察が僕を逮捕するのは明日か? 今日か? 何時間後だ?
納得のいく殺しでは無かったという未練もありましたが、もっと殺してみたいという欲求もありました。
ですが、誰彼構わず殺せば良いというものではない。
引助田権と出会い、殺したことで僕は贅沢になっていたんです。
目が合っただけで僕という人間を構成する全てが沸き立ち正気を失わせる。
そんな衝撃的な人間でなければ殺す意味がない。
朝の商店街で、昼の電車で、夜の繁華街で、警察は現れませんでしたが恋のような甘く、熱く、激しい衝動をもたらしてくれる人間も現れず、僕は焦りました。
信じられますか?
人を殺すまで原因不明の無気力状態に陥っていた僕が、焦燥感に駆り立てられていたんですよ。
こんな形で逮捕されるのは嫌だ。
拘束されるのは嫌だ。
もっと納得のいく、満足できる殺しをするまで捕まるわけにはいかないと。
ただ焦燥感も続かないもので、焦り続けていると流石に冷静にもなる。
冷静になった頭で引助田権の家に行きました。
彼の年齢、身なりや家の広さからして独身ということはあり得ない。
彼と結婚できるような女なら僕に感動を与えてくれるような女性に違いないと思って。
短絡的ですか?
短絡的ですね。
ええ、短絡的だ。
けれど、僕の期待は裏切られなかった。
彼の家に戻って警察が僕を捕まえに来なかった理由が分かりました。
彼女は、引助日向は夫の亡骸にしがみ付き、自分の身体が血に濡れるのもお構いなしに泣いていた。
遺体を発見した彼女は通報もせずにただ泣き続けていたのです。
引助日向は余程長い時間泣き続けていたようです。
喉は潰れて、服に付いた血は乾燥してて、髪も赤黒い粉を被ったみたいになっていましたから。
親子ほど歳が離れていると、大衆は金目当て、遺産目当ての結婚だなんて下衆の勘繰りをしますが、引助日向は引助田権を心から愛していた。
彼女の愛は引助田権が僕に与えた衝動に勝るとも劣らないほど美しかった。
けれど少しだけ複雑な気分でしたよ。
僕が一目惚れした引助田権が素晴らしい男であることを彼女は自らの愛で証明した。
誇らしい気分ではあったけれど、冷静でいられないほど羨ましいと思った。
嫉妬の感情が無いと言えば嘘になります。
どちらにって?
何を言っているんですか、刑事さん。
引助夫妻にですよ。あの二人のどちらにも嫉妬していたんですよ、僕は。
あなた方が結婚した相手は最高の相手ですよ!
僕の心がそれを証明します!
僕も誇らしい気分です!
けれど、二人にとっては僕はただの傍観者でしかない。
僕はあの二人に選ばれる以前の存在でしかないのです。
だって引助日向は僕が家に押し入ったことに気付いていたのに、僕には一切目もくれなかったんですから。
同じ空間にいる人間同士なのに、僕の存在を彼女は認識しようとすらしてくれなかった。
彼女に視界には引助田権が映っていたのだから、ある意味当然ですけどね。
それでも僕は寂しくなったんですよ。
だから、あの二人の綺麗な何かを、物質的でも良いから、どうしても欲しくて彼女を食い殺すことにしました。
まず最初に、綺麗な涙を浮かべる両目を食べました。
綺麗な心や感情を向けてもらえずとも、綺麗な肉を取り込めば溢れんばかりの嫉妬心を満たせるに違いないと思って。
それなのに彼女は引助田権から離れず、彼の遺体を抱き締め、撫で続けていました。
あの時の引助日向の世界は引助田権の二人だけで完結していたように思えます。
もしかしたら、あの時だけでは無く、ずっと昔から二人だけで完結していたのかも知れない。
僕に一切の視線も、意識も、言葉も向けずに、だけどどこまでも雄弁でした。
僕が入り込む余地など無いと。
追い詰められた人間は想像を絶する程無様なはずなのに、嘲笑うことなんて出来ませんでした。
寧ろ、僕の無様さを見せ付けられ、嘲笑われていた気さえします。
彼女が羨ましかった。
彼が羨ましかった。
僕も彼女の両手で抱き締められたかった。
無理だから、無理だと分かっているから食べました。
引助日向の両腕を食べ終えた時、彼女は引助田権に口づけをしたまま死んでいました。
彼女の両手を食べることに夢中になっている間に、そんなことになっていたなんて僕は知らなかった。
そこに至って尚、僕の存在は蚊帳の外だったのです。
彼女達の上唇を食べましたが、あの時は少し虚しかった。
それでも、あの二人の愛の一端に触れることは出来たと思いたいですけどね。
しかしながら、この時点で僕にはスリルが欲しくて窃盗に手を染める少年のような思慮の無さは消えていました。
愛や絆、或いはそれに類する綺麗な心が欲しくて、次の標的を探しました。
そんな折でしたね。田才分親と出会ったのは。
あの男は以前の僕ならまず間違いなく関わろうともしなければ、価値を見出そうともせずにいたでしょう。
暴走族なんて時代錯誤的で迷惑な生き物なんてねぇ?
僕が小さい頃は珍走団なんて、侮辱的な名前を付けてカッコ悪いという印象付けをしていたようですが、それにも関わらず、絶滅することなく未だに生息している。
まるでゴキブリのような連中だ。
そんな底辺連中に僕から正気を奪い取り、殺人衝動を植え付けることの出来る人間なんているはずがない。
それは最初に殺した引助田権の社会的地位が高かったから起きた勘違いでした。
仕方のないことです。
拳一つで七つの暴走族をまとめ上げただなんて、昭和のヤンキー漫画の登場人物みたいで間抜けじゃないですか。
けれど、それもただの思い込み。
僕の視野は自分で思っていた以上に狭く、そして頭も固い。
殺人に救いを見出す異常者のくせに、それまでに培ってきたものが堅牢過ぎて常識の壁を打ち崩せない。
しかしまあ、人殺しをしておいて言うのもなんですが、僕は暴力というものに縁がありませんでしたから、愚かな行為であると見做していました。
殺しをした後に触れた暴力に魅せられた?
いえいえ、そんなまさか。
殺人の後では、あんな物は子供のお遊戯だ。
彼らは暴力的な手段を用いているという自覚があるのに、今いる位置で足踏みをするだけなのだから。
可愛らしいものでしょう。殺すのが怖い。殺されるのも怖い。
けれど、臆病者だとは思われたくない。
拳を振るうことこそが男らしさの証だ。
彼等は度胸試しを口にしながら身の安全が保障されたところでしか叫ばないし、叫べない。
引助夫妻の愛と比べて、何と可愛らしい自己愛か。
確かに殺しに手を染める前の僕なら愚かな奴らだと嘲っていたかも知れない。
けれど、僕は変わった。
彼等の無力と臆病さがとても可愛らしい。
愛おしくてたまらない。
犬や猫の動画で心を和ませる人達の気持ちが分かった気すらしました。
ええ、一生懸命に歩く小さな子供を応援する父親と母親のような気分でした。
引助夫妻を食ったことで宿る筈のない綺麗なものが僕に宿ったのでしょう。
田才分親は暴力で力を誇示する一方で、暴力で支配下に置いたはずの舎弟達から、求められる姿を、望まれる振る舞いを、理想と言う名の強要を押し付けられていた。
見た目とは裏腹に可哀想で可愛らしい男でした。
殺してみたいと思うよりも、彼の憂鬱を解き放ってあげたいと思った。
粗野で粗暴な皮を一枚剥ぐと憂いを帯びた繊細な心があった。
その憂いを取り払えば、彼は引助夫妻にも劣らぬ輝きを放つに違いないという確信があった。
お恥ずかしい話ではありますが、彼の憂鬱が無くなれば、田才分親は、引助日向が引助田権に向けていたような、完結した世界を持つ者だけが備える完全な愛を、僕にも向けてもらえるんじゃないかという期待と欲望から始まったのです。
田才分親の舎弟を殺した? 僕が?
一体何を言っているんですか。僕が殺したのは60人。それ以外の人間には傷一つ付けていませんよ。
あまりこういうことを言いたくありませんけど、刑事さん……あなたは人を理解しようとしなさ過ぎる。
正直、モテないでしょう?
確かに田才分親は舎弟たちからの賞賛に酔っていた。
それは内心でも同じだ。
内心で疎ましく思ったり、重荷に感じていても明確な自覚はない。
遥か心の奥底でさえ常識や建て前に埋もれていたのですから。
仮に僕が彼の舎弟を皆殺しにして『君の憂いは全て、この僕が断った。これで君は何にも苛まれずに済む』なんて言って、彼が喜ぶわけがない。
敵対ですよ。圧倒的なまでに絶対的な敵対。
大切な舎弟を殺されたのですから、義侠心を振るわなくてはならない場面です。
本質的には建て前と言えども、彼はそれが本心だと信じ切っている。
彼と彼の舎弟が生み出した仮初めの理想によって田才分親は自らを確立しているのです。
僕はね、彼の愛が欲しかったんです。
憎悪は欲していない。
憎しみを向けられるよりも、無気力だった僕に活力を取り戻してくれた娯楽を共有した方が良い。ずっと良い。
殴り合いの喧嘩は男の花道だなんて言いながら彼は常に恐れていた。
殴り返されることを。
負けてしまうことを。
舎弟からの尊敬や興味が失われてしまうことを。
やりすぎて殺してしまうことを。
怖い怖い怖い。
けれども気心の知れた相手は舎弟だけ。
そんな情けない所は見せられない。聞かせられない。
そう。だから無関係な僕に付け入る隙があった。
簡単ではありませんでした。
今抱えている無自覚な重荷から解放されたければ、人を殺しなさいといったところで、彼らの言う殺すは喧嘩で勝つという意味でしかありませんから。
相手が降参したり、気絶したからと言って、手を止めていては殺人にはならないでしょう?
すると彼は逆上しましてね。
いいえ、まだ殺していませんよ。
だって彼の遺体の傍には中学三年生の少年二人の遺体があったでしょう?
僕はまだ、その中学生の話をしていないじゃないですか。
ええ、ええ。分かりました。
逆上する田才分親を拘束して、彼らのアジトへ連れて行きました。
そして、彼の携帯から中学生の少年二人を呼び出しました。
別に彼等である必要はありませんでした。
田才分親のアジトに偶々誰も来ていなかったものですから、アドレス帳にあった彼の仲間を適当に呼び出したのです。
ヘッドに誘われたのが余程嬉しかったらしく、無邪気な顔してアジトに飛んできました。
入ってきた彼等を拘束し、田才分親の前に転がしました。
さあ殺してごらんと言ったところでヘッドという建前がある以上、出来るはずがありません。
だから彼を拘束したまま、彼の腕にナイフを巻き付け、刺させました。ほんの3センチ程。
そして語りました。
田才分親という男が如何に可哀想で可愛らしい男であるかを。
はい、そうです。
先ほど申し上げた通り、拳一つで他のアウトローたちと戦い、勝ち続けて7つのチームを吸収し、多くの舎弟を得たことに誇りを感じていると同時に重荷に感じていること。
本当は痛いのも負けるのも怖いが、後戻りが出来なくなっていること。
負けたら終わりだと死に物狂いで喧嘩をする一方で、勢い余って相手を殺害してしまうことを恐れていること。
田才分親に本当はその程度の人間だと、理解するまで何度も何度も聞かせてやりました。
と言ってもほんの3時間程度ですが。
僕の両手は既に彼から離れていたけれど、田才分親は拘束されたまま自分の腕に固定されたナイフをしっかりと自分の体重をかけて、舎弟の身体を深々と突き刺していました。
拘束を解いてやったら僕に言われるまでも無く、もう一人の方も殺そうとしていました。
余程気分が良かったのでしょうね。
いいえ、まだ殺していませんよ。
そんなことをしたら可哀想じゃないですか。
折角、本当にやりたいことを見つけて、これから満喫しようという時に。
殺人という素晴らしい行いを共有するのが本当の願いですが、僕を殺そうとするなら仕方がない。
殺すしかありませんが、田才分親が殺したいのは僕じゃない。
強さや男らしさを強要した舎弟たちだ。
自分で言って寂しくなる話ではありますが、殺人の快と悦を知り、本当の憂いを自覚した田才分親にとって僕の存在など空気でしかない。
僕のことなんて眼中になかったんですよ。
ま、腹を立てるようなことでもありませんし、三日ほど彼のアジトで待つ事にしました。
寂しくなかったのかって?
刑事さん、超能力って信じます?
だからそんな気の毒そうな顔をしないでくださいよ。僕は正常です。
引助夫妻の肉を食ったからか、それとも田才分親の心を暴いたからか。
理由は定かではありませんが、僕には超能力と言っても過言ではない特殊な力が宿ったのです。
それは田才分親が考えていることを理解できる、テレパシーのような力です。
とは言え、彼の心が一方的に流れ込んでくるだけです。
フィクションに登場する超能力ほど万能ではありません。
まあ、脳内に直接放送するテレビみたいなものでしょうか。
中々の見物でしたよ。
彼の望みはチームとメンバーの肉体を解体することだけ。
一人殺し、二人殺し、殺せば殺すほど身も心も軽くなっていく。それに何よりも楽しい。
苦楽を共にした仲間たちの悲鳴や絶叫を聞きながら、彼は後悔と快楽を同時に味わっていました。
自分の全てだと思っていたチームを自分自身の手で解体する自傷の背徳感に酔いしれていた。
しかし、若者の意欲と向上心は凄まじい。
瞬く間に僕じゃ足元に及ばないほどの人数を殺して、強烈な興奮を味わっていながら、既に気もそぞろになっていたんですよ。
田才分親は自分の心を暴いた男のことが、僕のことが気になって仕方がなくなっていた。
殺せば殺す程、殺人の先輩である僕のことで頭がいっぱいになっていった。
けれど、彼は一度決めたことを曲げられない男でしてね。
物事を中途半端にしてしまうのは男らしくない。そういう考えです。
だから、彼が僕に対してどんな感情や欲望を抱いたとしても、それが強烈なものであっても、まずは何がなんでも舎弟たちを一人残らず殺さなくてはならない。
田才分親の行動理念とは見栄とハッタリ、そして男らしさですから。
可愛いものですよ。
お気に入りのおもちゃと、新しいおもちゃを同時に見せられて迷っているこどものようで。
まあ、刑事さんも調べたでしょうからご存知の通り、彼が支配していた暴走族は全員が死んだわけじゃない。
半分ほど殺したところで我慢が出来なくなってしまったんです。
僕に会いたい。会って殺したい。
自分自身の軸とも言うべき舎弟たちを殺せば殺すほど、自分が何か違うモノへと変わっていくことへの興味と興奮が、殺人鬼を殺す関心へと変わっていった。
自分でも制御出来ないほどの強烈な感情だ。
彼の頭の中は僕を殺すことの興味。
舎弟たちを殺してしまった罪悪感。
そして、舎弟たちを皆殺しにすることなく、中途半端な状態で僕を追う後悔でいっぱいでした。
心の中は散り散りバラバラ。
舎弟たちの返り血と全身から噴き出る汗で喉を潤し、彼は僕を探し続けた。
中々僕を見つけられず、随分と心は焦れていたようですが、それすらも可愛らしかった。
いいえ、刑事さん。僕は隠れてなんていませんよ。
彼からも、貴方達からもね。
ずっと田才分親のチームのアジトに僕はいた。そこでずっと彼を待っていたんです。
彼は草の根分けてでも、僕を探し出すつもりだった。地球の反対側に、ブラジルにいようとも関係が無い。
断固とした非常に強い意思を感じました。
けれど、彼は僕を探し出すことができなかった。
何故なら彼は舎弟を殺した場所に、舎弟の遺体が残っている場所には何が何でも近付きたくなかったからだ。
一番最初に彼が殺した二人の中学生の遺体もアジトに残っていたから、彼は一番最初に探すべき場所を避けた。
いつまでも、あの男がアジトに残っている筈がない。
そう言い訳をして近付こうともしない。
舎弟の遺体を見るのが怖い。
取り返しのつかないことをしたと突き付けられるのが怖い。
けれど、あの男を殺したい。
ふふふ。彼は迷ってばかりだ。
自分を慕う者達を殺すことで心のタガが外れ、彼の心から迷いや恐れは無くなったかのように思えましたが、僕は学んでしまいました。
人間は人を殺した程度では狂わないし、何も変わらない。
文明社会において特殊で異質な経験をしただけ。
殺人なんて行為は、たったその程度のものなんです。
人間の精神を変異させるほど特別なことではないのです。
殺人が狂った行いなんてものは、人間を知らず、理解していない人間が決め付けた思い込みでしかありません。
ああ、流石は刑事さん。その通りです。
結局、彼はアジトに戻ってきましたよ。
迷い、悩み、恐れの果てに田才分親は自分の欲望を優先することにしたのです。
彼は僕がアジトにいることを初めから直感的に理解していた。
その上で、敢えてアジトを避けた。
恐怖と罪悪感、後悔に耐えられなかったから。
それ以上に僕を殺せないことが耐えられなかった。
既に義侠心は消え失せ、頭のイカレたクソ野郎をぶっ殺してやろうなんて気持ちだって微塵も残っていない。
欲望が恐怖を遥かに凌駕したとき、田才分親は愛欲と劣情にも似た意識を僕に向けた。
僕の思惑通りにだ。
僕らの間に言葉はありませんでした。
我慢していたのは僕も同じことでしたので。
理性で欲望を抑え続けるのも限界だったのです。
あれほど人から強く求められたことは一度もありませんでしたから。
彼の皮膚をかき分け、胸骨を開き、心の臓を啜り、咀嚼して嚥下する。
もしも獣と獣が子を成すためでは無く、人間のように、ただ快楽のためにだけに、交尾を、セックスをしたとしたら、ああなるんじゃないですかね。
気持ちは分かりますけど、僕は異性愛者ですよ。
その証拠に次の犯行では女性を狙いました。
そう、村二愛の殺害です。
あの素晴らしき人達を手にかけ、愛を感じました。
強烈な恋愛感情を。美化された初恋の思い出や恋人の顔や名前さえも忘れてしまう程に。
重ねて言いますが、僕は異性愛者です。
産まれた感情がどれほど強烈であっても同性相手では、悦びを感じていることに複雑な気分になってしまうんですよ。色々と。
意外と普通だなって……再び重ねますが、僕は普通の人間ですよ。刑事さんと同じです。
正気を持った普通の人間が60人の人間を衝動的に殺した。
僕が行った犯罪とは、有りたいに言えば、たったそれだけのことなんですよ。
何はともあれ、田才分親を殺した直後の僕は強烈な殺人欲と性欲が同居している状態で、頭の中は滅茶苦茶でした。
殺したくなるほど魅力的で、犯したくなるほど蠱惑的な女性で無くては満たされないのですから。
今までの標的選びとは訳が違う。
事実、村二愛と出会うまでに数日を要しました。
彼女に出会うまで、殺すか犯すか、どちらかで妥協しようとする弱い心が誘惑してきて、それに折れそうになりかけていました。
満を持して村二愛と出会うことになりましたが、あの時の僕は、恋愛に不慣れな思春期の少年と変わらないくらい不器用で、今になって思えば、もっと器用な立ち振る舞いが出来たんじゃないかと、後悔の念が浮かび上がる程、無様なものでした。
ああ、言われると思いましたよ。
彼女と夜を共にしたのは三日ですが、これだけは誓って言えます。
あの三日間、彼女は間違いなく僕の恋人でした。
最初はレイプしたあとに殺してやるつもりでいました。
けど、その……何と言うか、心底惚れてしまったと言うか……ええ、まあ、そういう感じです。
ただ、増長を恐れずに言うのであれば、彼女も同じような感情を僕に抱いていました。
そうですね。彼女は決して派手な女性ではありません。
見た目通り地味で控え目な人で、僕の不器用な衝動を面白がるようなタイプでも無ければ、一晩だけ遊んでやろうと恋に慣れた感じでもない。
けれど、僕と彼女の間には理屈や道理を超越した、原始的な繋がりが無自覚の内に強く結びついていたのです。
殺したのが不思議ですか?
本当にそうでしょうか?
僕たちはお互いに唯一無二の存在になりたかった。
僕は彼女の恋人の存在が、彼女は僕の恋人の存在がどうしようもなく疎ましくなっていた。
そうだとしても殺すわけにはいかない。
殺すわけにはいかないんですよ。
僕にとって殺人とは嘘偽りのない愛情表現でもあるのですから。
だから邪魔であっても排除するわけにはいかない。
どうすることも出来ないまま、陰鬱な気持ちと強烈な愛欲と殺人衝動とが僕と彼女をぶつけ合わせた。それしかなかった。
そうして三日目のことです。
僕はセックスの最中に彼女の身体を真っ二つに引き裂いていた。
子宮には人間のものとは思えない胎児がいた。
十を超える真っ赤な目が一斉に僕の方に向いた。
恐ろしいだとか不気味なんて感情は全くありませんでした。
奇形と言うにしてもあまりにも異質だけれど一目で分かった。
あれは僕と彼女の子供だ。
彼女の恋人の胤で産まれた子供では無い。
子宮の中から掌に乗るくらいの大きさの胎児が沢山出て来て、その一人一人が僕の目を真っ直ぐに見つめて、僕を父親だと認識していたから間違いありません。
誰に似たのか食いしん坊な子もいて、僕の姿を確認し終えると子供達は彼女の子宮を食べ始めました。
本当は僕も食べたかったのですが、父親になってしまったので我慢しました。
彼女も母乳を与えられる状態ではありませんでしたし。
胎児ですか?
思いもよらぬ形で子宮の外に出てしまいましたから、みんな丸呑みにしましたよ。
僕の身体で彼女の子宮の代わりが務まるか少し心配でした。
とは言え、そんな悠長に不安がっている場合ではありませんでしたから、父親として全力を尽くしました。
きっといつか、僕の身体を突き破って生まれて来ることでしょう。
日本は死刑の執行が驚く程遅い。
死ぬ前にあの子達の顔を見ることが出来そうだけど、誰が面倒を見てくれるのか、そこだけが心配ですね。
他に殺害した女性ですか? あー、あの、いえ、いや、その、ですね。僕も、その、男だし……村二愛を心から愛しているのは誓って事実です。本当に事実なんです。僕は彼女ことが大好きです。その気持ちに嘘偽りは一切ありません。僕たちはお互いに、唯一無二になりたかったし、ならなくてはならなかった。そしてなれた。ただし、彼女は肉を失い、僕には肉がある。肉欲からは逃れ得ぬ宿命が男にはある。それは刑事さんもご存知でしょう? こんなものは正気とか狂ってるとか普通とか異常なんて関係ないのですから。男の宿業です。運命です。回避不可能なんです。え、いや、いやだなぁ……やめましょうよ。浮気とか……何だか、僕が悪いことをしたみたいじゃないですか。これ殺人事件の取調ですよね? なんで浮気調査をする探偵みたいな態度なんですか。やめてくださいよ。やめましょうよ。
次です。次。字葉伽陀の殺害についてお話します。
村二愛を殺害し、彼女の子供達を飲み込んで僕の心は満たされていました。
しかし、人間の欲とは満ちることを知らない。
何より、連休を終え、また仕事が始まるとなれば憂鬱な気分にもなろうというものです。
僕はもっと満たされたかったし、更に言えば会社に行くのが嫌で嫌で仕方が無かった。
けれど、殺人衝動の赴くままに殺しをして、心を満たそうにも金銭を得なくてはならない。
まあ、苦肉の策ではありますが。
そう言えば、この頃には警察が僕を捕まえにくるであろうことを警戒する気持ちは無くなっていました。
犯罪である自覚はあっても悪いことをしているという意識が無くなっていたからでしょうね。
僕が日常にいることは何もおかしなことではない。
だから労働もするし、殺人もする。
勤労と趣味は両立できるし、両立させるのが大人というものでしょう?
結果的に、その考えは正しかった。
そうです。字葉伽陀は同じ職場の人間でしたから。
驚くほど気付けなかった。僕は村二愛のお陰、と言うよりは子供達のお陰で視野が広がった。
親になったという自覚が、新たな感覚と価値観を会得したと言い換えても良い。
だから、字葉伽陀と対峙した時、僕はこれまで彼に抱いていた物とは大きく異なる印象を抱いた。
彼は前会長の孫で、権力を笠に着るきらいがありました。
それでも基本的には善良で、裕福な生まれとは裏腹に小市民的な男でした。
現会長や社長に比べて親しみやすく、与しやすいという感想を持たれ、いつも多くの取り巻きに囲まれている。
もしも、大衆に利用される官僚がいるとすれば彼のような人だろうと誰もが思うことでしょう。
実際、僕もそうでしたから。
でも、それは彼の本質ではない。
少し傲慢だが、善良なお人好しで、世間知らずなお坊ちゃまというのは、彼が社会に向けて発信した仮面です。
仮面を一枚外せば猟奇殺人鬼の顔が現れる。
ええ、彼も殺人鬼です。
字葉家が巧妙に隠してはいるものの、字葉の一族は殺人を快悦とする遺伝子が組み込まれているのです。
同類とは、少し違いますね。
田才分親、大神久士、九多賀炎、河津勉、内野迫、懐田蓮、鳥栖全一。
彼等は完全に同好の士だ。
殺人以外に愛と執着の発現手段を持たない人好き達。字葉伽陀の殺しとは違う。
僕らの殺しは愛ですが、彼の殺しは悪質な遊びだ。
そう悪質なのです。
サイコパスにも通ずる悪意を感じた。
彼は取り巻きや使用人を字葉本家の地下、螺旋階段を下りた先にある回廊へ連れて行き、お坊ちゃまの仮面を外す。
殺人鬼としての階梯は僕よりも遥か高みにあるとは言え、其処には愛も、絆も無い。
あるのは他者への悪意と嘲笑。
人が持ち得る悪虐の全てを煮詰めたような本性があるだけ。
本性と終末を見せ付けることで、薄気味悪い充足を得ているに過ぎません。
殺人鬼が殺人を咎めるのは余人からしてみれば矛盾を孕んでいるように思えるかも知れませんが、そこに矛盾が入り込む余地はありません。
もう少し分かりやすく例えるなら……そうだ。バイキングで料理を取るだけ取って、結局食べずに店を出る客を目にした時の不快感。
ええ、そうです。
罰金を払うのが嫌でげっそりした表情で嫌々食べている客が隣の席にいる時とか、金を払ったんだからどうこう言われる筋合いは無いだとか、売れ残ったら結局廃棄するだとか、嫌な言い訳をする無様な客がいるでしょう?
刑事さんもすぐに想像出来たように、あの手の客は視界の中にいるだけで不愉快になる。
作った人間の気持ちだとか食材になった動植物の命を何だと思っているんだって。
そんな浅ましい客を目の当たりにした時に感じる不快感を、僕は字葉伽陀から感じました。
けれど親になったからでしょうか。
彼を完全に拒絶したくなるほどの嫌悪はありませんでした。
寧ろ、躾けてやろう。
そんな気持ちと、彼を完食したい。
二つの気待ちが綯い交ぜになって、僕はどうして良いか分からなかった。
ああ、屠畜される牛や豚が病に犯されていたり、奇形だったのを知ってしまった。
そんな気分だったのかも知れませんね。
僕は人間を屠殺することに何の不快感も感じませんが、その人の振る舞いを見て、食べるのが嫌になることがあるのは確かです。
精神の屠殺……成る程、言い得て妙ですね。
そう、僕は彼のサイコパス的な行いを知り、精神の屠殺に、快と悦とは正反対の感情を抱いた。
けれども、屠畜に嫌悪感を示す一方で、肉や魚を好んで喰らう人間がいるのと同じように僕も彼を殺したいと思った。
ええ、そういった意味合いでも僕は普通の人間なんです。
僕は引助田権殺しを切欠に、今日に至るまでに60人の人間を殺しました。
そして、殺した人間の顔と、声と、名前と、血と肉の味、その全てを覚えている。
これから先の未来も、死刑になって命が断たれても、死後の世界に至り、永遠と無限の時を迎えることになったとしても、僕は決して忘れることはないでしょう。
僕にとって殺人とは、それほどまでに特別な儀式なのです。
彼のように暴食に満ちた殺人を許容するわけにはいかない。
アレは命に対する冒涜だ。
殺人というものに理解の出来ない人からすれば、同じ穴の狢でしょうね。
殺人なんてやってる時点で命の冒涜者であることに変わりはないのかも知れない。
だが、僕から言わせてもらえば、僕ほど命の尊さというものを真面目に考えている人間は、そう滅多にいないと思っているくらいですがね。
彼を殺した手段ですか?
すいませんね。刑事さんのことを殺したいという気持ちは全くないのですが、不思議と話易いものですから。
こう見えて、結構口下手で人見知りをするタイプなんです、僕。
だから少し不思議な気分です。
引助田権を殺して以来、僕にとって好意と殺意は比例する物へと変異しました。
それなのに、刑事さんに殺意が全く湧いてこない。
それどころか、もっと語りたい。語り合い続けていたい。そんな気分になるんです。
ははは、そうでしょう? 男同士なのに全然嫌な気がしない。
けれど、僕らは異性愛者だから嫌な気分がしないことが却って複雑になる。
そりゃあ、村二愛みたいな女性を探したくもなるってものですよ。
彼女と出会えた時、愛しさと殺意が同居していたことに安心しました。
そうでなくては、そうでなければ、僕がこれまでの人生で培ってきた常識を根底から疑わなくてはならなくなる。
話を戻しましょうか。
今の僕は取調を受けている身ですし、取調室で犯罪者と警察が趣味趣向の話で盛り上がるのもあまり良くはないでしょうから。
字葉伽陀を殺した動機は様々ですが比重で言えば、義侠心が一番でしょうね。
田才分親ではありませんが。
語り合い、彼が僕の言葉や考えに一定の理解を示すのであれば同好の士となり、手を取り合うことも出来たのかも知れません。
実際に返って来たのは嘲笑で、僕にあったのは字葉伽陀という理解不能の化け物への恐怖と嫌悪でした。
あれほど、殺人行為に快と悦を感じていた僕でしたが、あの時ばかりは不快感しかありませんでした。
そうです。愛のない殺人。
言ってしまえば、ただの暴力です。
ついカッとなって手を上げてしまった。
それと全く同じことです。
彼の考えが僕には理解できなかった。
彼の言葉に耳を塞ぎたかった。
訳の分からない物を遮断して自分自身を守る為の暴力です。
僕は彼を殴った。
人を殺せるほどの威力ではなかった。
でも、彼は足を滑らせて螺旋階段から転がり落ち、落下の勢いが止まる頃には肉団子と化していた。
殺人事件と言うよりは死亡事故と言いたいところですが、事故の引き金を引いたのは僕ですからね。
正義の味方のようにぶつかり合って、敵を改心させて和解する。
理想的な展開ですが、現実ではそれが難しい。
そして、殺人であると認める以上は字葉伽陀も僕の永遠の中に招かなくてはならない。
そうであるなら役得というものがあって然るべきでしょう?
彼の人間性は唾棄するものですが完食したいという欲望自体は本心です。
都合の良い事に食べやすそうな肉団子が落ちていたことですし、ね?
おや? 刑事さん、どうしたんですか?
まだ全然語り終えていませんよ?
まだほんの5人だ。あと55人残っていますよ。
僕が彼等とどのようにして出会って、どういう交流があって、そして、どうやって殺したか。
急いで全てを語る必要が無いと言えば、それはその通りなのですが……
どうでも良いって……善良な市民を守るおまわりさんにあるまじき発言だ。
あの、今のは皮肉なのですが、そんな思春期を迎えた少年少女が罹患する病みたいな反応をされては僕も戸惑わざるを得ません。
刑事さんはもっと真面目な人間だと思っていたのですが、まさか職務をおざなりにできる快楽主義者だったとは。
自分自身に宿る欲望の声、真なる欲が聞こえたのですね。
そうだと言うのなら仕方がありません。
どうかその衝動を大切にしてください。
刑事さん……ではなくなってしまいましたね。
同好の士よ、お名前を聞いても?
倉久惇、ですか。
では、惇、またいつか会いましょう。
君がこの場からいなくなったところで別の刑事が僕の取調をする。
何せ60人だ。
60人も殺してしまった以上、決して死刑を免れることは無いだろう。
そして、惇、君も同じだ。
僕たちのような人間は、人を殺してみたいと思えるような人間は、何かしら特別で、特殊な存在だ。神と言っても良いだろう。
価値のある殺人を楽しむと良い。
そして、妥協はしちゃいけないよ。
無価値な殺人は悪虐だ。
それは君の魂の価値を乏しめることになる。
どんなに見つからなくても焦らないで欲しい。
きっといるはずだ。
僕に特別な殺しを味わわせてくれた人たちがいたように。
君にも特別な殺しを味わわせてくれる人達と出会うことになるだろう。
その時、君は殺すだろう。
君の殺人衝動に誘われて殺されようとする人、殺そうとしてくる人もいるだろう。
けれど、君はその特別な人達を一人残さず殺すに違いない。
だからその時が来たら、どうかその特別な人達のことを忘れないでいて欲しい。
その人達の顔を、名前を、どんな仮面を被っていたのか、どんな本性を抱えていたのか、どのような愛の持ち主だったか。
それから君が殺すに相応しいと確信を得た衝動に、何より君が彼等を愛していることを必ず自覚しなくてはならない。
それではさようなら。
君も役目を果たした時、この国の、この時代の、この社会の法と正義によって命を絶たれることになるだろう。
そうだとしても寂しいなんて思わなくて良い。
惇のために僕は先に逝こう。
一足先に超未来で待っているよ。
僕の退屈から産まれた毒性を受け継いだ君のことを。
皆と一緒にね。
ええ、ええ。分かっていますとも。弁護士が付く付かないはどうでも良いことです。
他人に弁護される筋合いはありませんから。
言葉は魔物なんです。僕の言葉や想いを誰とも知れぬ他人から、好き勝手に捻じ曲げられたくはないんですよ。
ましてや減刑するために屁理屈をこねて、あることないことを好き勝手にさえずって先生なんて呼ばれて飯食ってるような人達には。
僕は多くの人を殺した。殺し過ぎた。裁判になれば僕は間違いなく死刑になるでしょうね。
死にたいわけじゃあないけれど、だからと言って、事実や僕自身を捻じ曲げて、間違った解釈をされてまで減刑されたいなんて思えません。到底。
ああ、精神鑑定とかは不要ですよ。僕は正常だ。心身喪失だったとかで責任能力が無いとかって勝手に僕を変えられるのはごめんだ。
僕という存在の在り方を勝手に捻じ曲げられるのだけはごめんなんですよ。本当に。
だからね刑事さん。
僕は嘘を吐かないし、黙秘もしない。聞かれたことは全て正直に答える腹積もりですよ。
だからどうぞ好きなだけ聞いてください。どんなことでも供述しますから。
氏名と生年月日? 意外とお役所的なんですね。
そんなに睨まないでくださいよ。逮捕されるのも取り調べを受けるのも初めてのことなんですから。
相倉太。1999年7月10日生まれ。31歳。
2029年11月3日の引助田権殺しから続く無差別連続猟奇殺人事件の犯人です。
間違いなく本人ですよ。
さて、まずは何から話しましょうか?
引助田権とその妻、日向、田才分親、村二愛、字葉伽陀、凪吾寅、九多賀炎と娘の杏、飯小戸輝、神蛇郁、井古拳、飯田綾、伊鷹幾太、内野迫と鶴の親子。上釜定、林悟、宇渡揮絵、考中徹、尾朝騎士、片野斗真、城戸久利須、皐月梓、比佐咲良、大神久士と愛人の蘇草夏に、大神の子の蘇草聡子と透子、久良岐碧、手科礼、黒須吠邦、三島瑠佳、高須由愛、後留五郎、大創博丈、江頭̪詩亜、字富浩三、朱戸芽流、布暮周、郡成久、河津勉、椎泥玲、奈良俊彰、三吉慶一嘉神拐、屋城兵部、田須翼、馬佐弾、懐田蓮、山崎真紀、菅琉冨久代、前暮来無、黒木美衣、烏鷺光、中村一、茂木安里、鳥栖全一、東郷健、手越走介、道内瑠璃、総勢60名。確かに殺しました。
僕が殺しました。
僕自身の正気と意志をもってこの手で殺したのです。
ここ最近で似たような事件が多発するようになりましたね。
けれど、僕が殺したのはこの60人だけだ。僕が1人で殺しました。共犯者はいません。1人だけです。
だから僕に影響を受けて現れた模倣犯たちの証言は嘘です。嘘を吐いているのです。
それか刑事さんのお仲間が、事件を早く終わらせたくて偽りの証言をさせたのでしょう。
大神久士、九多賀炎、河津勉、内野迫、懐田蓮、鳥栖全一の加害者が僕では無く、偶々近くで殺人を犯した無関係の犯罪者だと報道された時はとても悔しく、悲しく、それにどうしようもない怒りを覚えたものです。
愛の果てに正気と命を奪ったのに、横から出てきた恥知らずに僕たちの間に産まれた愛と絆を奪い取られたような、そんな言い知れない脱力感もありましたね。
連続殺人鬼が愛だとか絆なんて言葉を使うのが、そんなに変ですか?
刑事さんは少しテレビの見過ぎですね。
無差別連続猟奇殺人事件なんて言い出したのも言い続けたのもマスコミだ。
さっきは世間に合わせて僕も無差別連続猟奇殺人事件の犯人ですと言いましたけど、それは本質じゃあありません。
そもそも無差別ではありません。こう見えても僕は殺す相手を選んでいました。
ええ。仰る通り同じ職場の字葉伽陀以外に、僕と彼等の間に面識はありませんでした。
矢張り、日本の警察は優秀だ。確かに面識は無かったのです。
けれど、僕たちには確かな絆があった。特に大神久士とは。
彼だけではありません。警察の言い方に合わせるなら他の被害者達もです。
愛や絆、執着が無くては殺す意味も、殺す価値もない。ただの徒労だ。
大神久士は所謂、同類という奴でしてね。一目で分かりましたよ。彼は僕と同じで飽いていると。
ええ、飽きです。これが一番最初の動機です。
ええ、最初の。
愛だの絆だの言いましたが、退屈していたのです、僕は。
人を知り、愛を交わし、絆を結んでいく内に変化していきました。
人の心も、考え方も、価値観も、常に一定では無く不変ではありませんから。
今まで正しいと思っていたことが間違っていることに気付く。
それまで素晴らしいと思っていたものが突如として下らなくなってしまう。
他人には理解できない理由であっても人は、些細な切っ掛けが一つだけでも、己の道理を以って変わるのです。
でなければ60人もの人間に愛や絆、執着心など生まれやしません。
だから一番最初の動機です。一番最初の動機は飽きなのです。
まだあの時の僕は、自分が一体、何に苛まれているのかが分からなかった。
今なら別の言葉で言い表すことが出来る。
けれど、一番最初の動機は人生に対する飽きです。
ねぇ、刑事さん。昔、コビッド19って流行ったでしょう? あの時のこと覚えてます?
その前の豪雨は?
大型台風で建物が吹き飛んでいくのは?
東日本大震災は?
僕が生まれる前には阪神淡路大震災や脱線事故、地下鉄サリン事件なんてのもありましたね。
あの時、世の中がどうだったかって覚えてます?
なんなら三年前の災害でも構いませんが。
まあ、覚えてないですよね。
当事者ですら過去の出来事扱いだから当然ですよ。
特に強烈な不幸を味わっているとかでなければ、当事者の凄惨な記憶だって、次から次に訪れる明日の出来事に、頭の片隅に、心の奥底に追いやられていくのが普通です。
そして、記憶を紛失してしまう。
どれだけ熱くても喉元過ぎれば熱さを忘れる。当たり前のことです。
人は過去から反省しないなんて馬鹿にした風な口を利く人もいますけど、今と明日を生きている人間なら忘れる方が正常なんですよ。
時間とはヤスリと同じですから。
過去に囚われ続けたところで時間が過去を摩耗させて、やがて粉々になって風と共に消えていく。
囚われているという事実だけが残り、やがて自分が何に囚われているのかも分からなくなる。
だから事実どころか自分の心さえも捏造して、目の前に見えている物さえも見たいように認識も捻じ曲げていく。
今を生きていない奴の特徴です。
あまりにも哀れでどうしようもない。
どうしようもなく滑稽で、何より不幸な存在だと言っても良い。
となれば、そんな人間にはなりたくないと思うのが当然でしょう?
今と前。そして、先。
それだけを見据えて生きていくのが、哀れな人間にならない秘訣だと、そう思って生きて来ました。
ただ、それも暫くしてから絶対的な正解ではないということを知りました。自覚しました。
飽きてしまったんです。
理由はありません。
急に何もかもが面白くなくなって時間だけが無為に過ぎていくようになっていました。
焦りはありませんでした。
でも、疑問はありました。
僕も人間ですから1日くらい何もしたくない日があったとしても不思議じゃない。
それでも2日、3日。更に長い日数、明らかに不良なコンディションが続けば脳内を占める疑問の大きさも増していく。
無自覚な悩みがあるのかも知れないと思い、やる気の出ない頭で自己診断の真似事もしてみました。
仕事は順調でした。
刑事さんも既に調べているでしょうけど、大企業の出世頭で収入に不満も無く、借金も無い。
顧客も厳選しましたから仕事でストレスを抱えることは無い。
家族や親戚、恋人や友人との関係も良好。
怪我らしい怪我も無ければ、持病も抱えておらず、金、人間関係、健康、将来、何の不安もない。
それなのに、急に何もかもが下らなくなった。
下らないだけなら別に良いのです。
外面を良くするのは社会人、いえ、人間関係の必須スキルですから。
その程度、誰だって息をするように出来る。ストレスには決してなり得ない。
ただ苦痛だったのが何をして良いかが分からなくなってしまったこと。
ただ、それだけです。
だってそうでしょう?
アレは下らない。コレもつまらない。ソレも時間の無駄だ。
何もかもが無意味で無価値なら、僕は何をすれば良い?
僕は何をやれば満足する?
僕は何をして満足していた?
何なら楽しめる?
何を楽しんでいた?
何がしたい?
何がしたかった?
長期休暇に入る直前、職場の人達が『あれが楽しみだ』『これが楽しみだ』と、夏休み前の子供達のように目を輝かせて休暇を心待ちにしている中、僕だけが何も無かった。
良い歳をした大人が駄々を捏ねる子どものようで嫌だ、やりたくないを繰り返すばかりで何もしない、やろうともしない。
あの時は自分の心があまりにも無様な状態だと理解していました。
そして幸いにも、そのままではいけないと立ち上がるだけの若さを備えていた。
現代社会にとっては不幸な話ですが。
ええ、そうなんです。
何もかもがつまらない。
自分の将来すら投げやりになっていく。
本当にどうでも良いというのなら何処まで自分を投げ捨てられるか試してみよう、そう思いました。
人を殺してみよう、と。
人を殺すにあたって誰を殺すかですが……
自分語りが多くてすみませんね。
一番最初の犯行、引助田権殺し。
世間では強烈な怨恨による強盗殺人事件として取り上げられていましたが違います。
先程、散々、愛だの絆だの言っておきながらですが、ただの衝動的な殺人です。
金目の物を盗んだのは、あの日、偶々財布を忘れていたからです。
彼を殺し終えてから帰路についたのですが、途中で財布を自宅に置き忘れたことに気付きました。
仕方がないから犯行現場に戻って彼の財布を拝借したのです。
歩いて帰るのは面倒どころではない距離でしたから。
それを若い妻を持つ金持ちに対する逆恨み的な僻みだと言っていた専門家を自称するコメンテーターには呆れたものです。
動機ですか?
ですから衝動です。
彼の名前を知ったのも財布の中に入っていた免許証を見てからです。
何の関わりも無い、ただの他人です。
しかし……そうですね。あの時、彼と目が合った瞬間に感じた気持ちを敢えて名付けるなら……
一目惚れでしょうね。
彼は何処にでもいる中年男性だ。見た目だけなら。
彼が一財を成した大人物だと知ったのは後の方。
あの時の僕は彼の社会的価値を知らなかった。
それを知った今でも、彼の社会的価値は、彼の本質的な価値に何ら装飾できる程のものではないと僕は確信している。それ程の大人物だ。
目が合った瞬間、激しく心を揺さぶられたのです。
もしも運命というものがあるのだとしたら信じても良いほどです。
どうすれば、あの感動と衝動を伝えられるのか。
良いですか、刑事さん。
僕はどうしようもなく飽きていた。
飢えていた。
新しい刺激が無くてはならなかった。
何をすればいい?
どうすればいい?
分からない。何も分からない。
そうだ、いっそのこと人を殺してみるのはどうだろうか?
いやいや、待て待て、正気か?
今まで真面目に真剣に生きて来て、貧困層や中流層くらいからは羨まれる程度には成功を積み重ねてきた。
それを一時の気の迷いで、今まで積み重ねてきたもの全てを捨てるというのか?
基本的に殺人には執行猶予は付かない。
初犯なら死刑、無期懲役ってことは無いにしても、まず間違いなく懲役10年の実刑判決を受けることになる。
ちょっとした憂鬱な気分を晴らす為に、これまでの成功と、これからの10年を捨てるというのか?
檻の中で10年も犯罪者と共同生活をしなくてはならないのか?
そんなのは絶対に無理だ。
意外でしたか?
実は引助田権と出会うまでは殺しに対する興味と社会的制裁の恐怖に揺れていました。
揺れていると言うよりも、退屈だから殺してみたいという、中二病じみた子供の妄想で自分を慰めていたと言った方が正確でしょうか。
リスクに激しい恐怖を覚え、まだ本当に殺す気はありませんでした。
ですが、そんな中途半端な状態から僕を動かしてくれたのが引助田権なんですよ。
彼と目が合った瞬間に、今まで眠っていた娯楽や快楽への欲求、挑戦心や意欲、熱意のある人間だけが多く持つ、素質の全てが開放された。
名前も知らず、顔を見たのも初めて。
そんな男と目が合った瞬間に僕は思った。
確信した。
決定した。
何が何でも、この男を殺さなくてはならない。
さもなくば、僕はずっと後悔を抱いて死んだように生きるしかなくなる。
原因不明の無気力状態から、いきなりこれです。
これを一目惚れと言わずして何と言うのか。
驚愕と興奮で頭の中は滅茶苦茶で思考もよく定まらない。
ただ何かをしたかった。殺したかった。ここで止まってはいけない。
ここで止まったら、今度こそ僕の心が餓死する。ただその一心でした。
気付いた時には引助田権は死んでいた。
凄まじい達成感に頭がどうにかなりそうでした。
けれど、だからこそ惜しかった。
何がって?
言ったでしょう。気付いた時には引助田権は死んでいたって。
僕が殺したことは間違いない。
放心状態になっている内に、他の誰かが表れて引助田権を殺したなんて事実はありません。
ただひたすら夢中だったんです。
夢中になって引助田権を殺そうとした。
ただ、その衝動があまりにも強過ぎて殺したと言うよりは、気付いたら死んでいたと言った方が適切なのです。
とは言え、決して違えることなく僕が殺したのです。
楽しかった。凄かった。
なのに、あんな一目惚れのような出会いだったのに雑に殺してしまった。
いい加減に、雑に彼を失ってしまった。
それが心残りになりました。
心残りはあったけど、殺人の忌避や罪悪感は微塵もありませんでした。
あの日の僕は、久しぶりに食欲旺盛になって、酒もよく呑んだ。
腹いっぱい美味い食事をして、気持ちよく酔っぱらって、久しぶりにシャワーではなく風呂に入って、気持ちよく眠ることが出来ました。
長期休暇前日の夜としては最高のスタートを切ったと言って良いでしょう。
けれど日本の警察は優秀だ。
早かれ遅かれ引助田権を殺した犯人が僕だと分かるに違いない。
証拠の隠滅だってしていなかったし、僕に繋がる痕跡は沢山出て来るはずだ。
でも、あの達成感を味わった後なら、その後の制裁も耐えられるだろう。そう思ったんです。
目を覚まして暫くして、頭が働き出したせいか、違う。そうじゃないと考えを変えました。
あの殺人は衝動的過ぎて満足いくものではなかった。
警察が僕を逮捕するのは明日か? 今日か? 何時間後だ?
納得のいく殺しでは無かったという未練もありましたが、もっと殺してみたいという欲求もありました。
ですが、誰彼構わず殺せば良いというものではない。
引助田権と出会い、殺したことで僕は贅沢になっていたんです。
目が合っただけで僕という人間を構成する全てが沸き立ち正気を失わせる。
そんな衝撃的な人間でなければ殺す意味がない。
朝の商店街で、昼の電車で、夜の繁華街で、警察は現れませんでしたが恋のような甘く、熱く、激しい衝動をもたらしてくれる人間も現れず、僕は焦りました。
信じられますか?
人を殺すまで原因不明の無気力状態に陥っていた僕が、焦燥感に駆り立てられていたんですよ。
こんな形で逮捕されるのは嫌だ。
拘束されるのは嫌だ。
もっと納得のいく、満足できる殺しをするまで捕まるわけにはいかないと。
ただ焦燥感も続かないもので、焦り続けていると流石に冷静にもなる。
冷静になった頭で引助田権の家に行きました。
彼の年齢、身なりや家の広さからして独身ということはあり得ない。
彼と結婚できるような女なら僕に感動を与えてくれるような女性に違いないと思って。
短絡的ですか?
短絡的ですね。
ええ、短絡的だ。
けれど、僕の期待は裏切られなかった。
彼の家に戻って警察が僕を捕まえに来なかった理由が分かりました。
彼女は、引助日向は夫の亡骸にしがみ付き、自分の身体が血に濡れるのもお構いなしに泣いていた。
遺体を発見した彼女は通報もせずにただ泣き続けていたのです。
引助日向は余程長い時間泣き続けていたようです。
喉は潰れて、服に付いた血は乾燥してて、髪も赤黒い粉を被ったみたいになっていましたから。
親子ほど歳が離れていると、大衆は金目当て、遺産目当ての結婚だなんて下衆の勘繰りをしますが、引助日向は引助田権を心から愛していた。
彼女の愛は引助田権が僕に与えた衝動に勝るとも劣らないほど美しかった。
けれど少しだけ複雑な気分でしたよ。
僕が一目惚れした引助田権が素晴らしい男であることを彼女は自らの愛で証明した。
誇らしい気分ではあったけれど、冷静でいられないほど羨ましいと思った。
嫉妬の感情が無いと言えば嘘になります。
どちらにって?
何を言っているんですか、刑事さん。
引助夫妻にですよ。あの二人のどちらにも嫉妬していたんですよ、僕は。
あなた方が結婚した相手は最高の相手ですよ!
僕の心がそれを証明します!
僕も誇らしい気分です!
けれど、二人にとっては僕はただの傍観者でしかない。
僕はあの二人に選ばれる以前の存在でしかないのです。
だって引助日向は僕が家に押し入ったことに気付いていたのに、僕には一切目もくれなかったんですから。
同じ空間にいる人間同士なのに、僕の存在を彼女は認識しようとすらしてくれなかった。
彼女に視界には引助田権が映っていたのだから、ある意味当然ですけどね。
それでも僕は寂しくなったんですよ。
だから、あの二人の綺麗な何かを、物質的でも良いから、どうしても欲しくて彼女を食い殺すことにしました。
まず最初に、綺麗な涙を浮かべる両目を食べました。
綺麗な心や感情を向けてもらえずとも、綺麗な肉を取り込めば溢れんばかりの嫉妬心を満たせるに違いないと思って。
それなのに彼女は引助田権から離れず、彼の遺体を抱き締め、撫で続けていました。
あの時の引助日向の世界は引助田権の二人だけで完結していたように思えます。
もしかしたら、あの時だけでは無く、ずっと昔から二人だけで完結していたのかも知れない。
僕に一切の視線も、意識も、言葉も向けずに、だけどどこまでも雄弁でした。
僕が入り込む余地など無いと。
追い詰められた人間は想像を絶する程無様なはずなのに、嘲笑うことなんて出来ませんでした。
寧ろ、僕の無様さを見せ付けられ、嘲笑われていた気さえします。
彼女が羨ましかった。
彼が羨ましかった。
僕も彼女の両手で抱き締められたかった。
無理だから、無理だと分かっているから食べました。
引助日向の両腕を食べ終えた時、彼女は引助田権に口づけをしたまま死んでいました。
彼女の両手を食べることに夢中になっている間に、そんなことになっていたなんて僕は知らなかった。
そこに至って尚、僕の存在は蚊帳の外だったのです。
彼女達の上唇を食べましたが、あの時は少し虚しかった。
それでも、あの二人の愛の一端に触れることは出来たと思いたいですけどね。
しかしながら、この時点で僕にはスリルが欲しくて窃盗に手を染める少年のような思慮の無さは消えていました。
愛や絆、或いはそれに類する綺麗な心が欲しくて、次の標的を探しました。
そんな折でしたね。田才分親と出会ったのは。
あの男は以前の僕ならまず間違いなく関わろうともしなければ、価値を見出そうともせずにいたでしょう。
暴走族なんて時代錯誤的で迷惑な生き物なんてねぇ?
僕が小さい頃は珍走団なんて、侮辱的な名前を付けてカッコ悪いという印象付けをしていたようですが、それにも関わらず、絶滅することなく未だに生息している。
まるでゴキブリのような連中だ。
そんな底辺連中に僕から正気を奪い取り、殺人衝動を植え付けることの出来る人間なんているはずがない。
それは最初に殺した引助田権の社会的地位が高かったから起きた勘違いでした。
仕方のないことです。
拳一つで七つの暴走族をまとめ上げただなんて、昭和のヤンキー漫画の登場人物みたいで間抜けじゃないですか。
けれど、それもただの思い込み。
僕の視野は自分で思っていた以上に狭く、そして頭も固い。
殺人に救いを見出す異常者のくせに、それまでに培ってきたものが堅牢過ぎて常識の壁を打ち崩せない。
しかしまあ、人殺しをしておいて言うのもなんですが、僕は暴力というものに縁がありませんでしたから、愚かな行為であると見做していました。
殺しをした後に触れた暴力に魅せられた?
いえいえ、そんなまさか。
殺人の後では、あんな物は子供のお遊戯だ。
彼らは暴力的な手段を用いているという自覚があるのに、今いる位置で足踏みをするだけなのだから。
可愛らしいものでしょう。殺すのが怖い。殺されるのも怖い。
けれど、臆病者だとは思われたくない。
拳を振るうことこそが男らしさの証だ。
彼等は度胸試しを口にしながら身の安全が保障されたところでしか叫ばないし、叫べない。
引助夫妻の愛と比べて、何と可愛らしい自己愛か。
確かに殺しに手を染める前の僕なら愚かな奴らだと嘲っていたかも知れない。
けれど、僕は変わった。
彼等の無力と臆病さがとても可愛らしい。
愛おしくてたまらない。
犬や猫の動画で心を和ませる人達の気持ちが分かった気すらしました。
ええ、一生懸命に歩く小さな子供を応援する父親と母親のような気分でした。
引助夫妻を食ったことで宿る筈のない綺麗なものが僕に宿ったのでしょう。
田才分親は暴力で力を誇示する一方で、暴力で支配下に置いたはずの舎弟達から、求められる姿を、望まれる振る舞いを、理想と言う名の強要を押し付けられていた。
見た目とは裏腹に可哀想で可愛らしい男でした。
殺してみたいと思うよりも、彼の憂鬱を解き放ってあげたいと思った。
粗野で粗暴な皮を一枚剥ぐと憂いを帯びた繊細な心があった。
その憂いを取り払えば、彼は引助夫妻にも劣らぬ輝きを放つに違いないという確信があった。
お恥ずかしい話ではありますが、彼の憂鬱が無くなれば、田才分親は、引助日向が引助田権に向けていたような、完結した世界を持つ者だけが備える完全な愛を、僕にも向けてもらえるんじゃないかという期待と欲望から始まったのです。
田才分親の舎弟を殺した? 僕が?
一体何を言っているんですか。僕が殺したのは60人。それ以外の人間には傷一つ付けていませんよ。
あまりこういうことを言いたくありませんけど、刑事さん……あなたは人を理解しようとしなさ過ぎる。
正直、モテないでしょう?
確かに田才分親は舎弟たちからの賞賛に酔っていた。
それは内心でも同じだ。
内心で疎ましく思ったり、重荷に感じていても明確な自覚はない。
遥か心の奥底でさえ常識や建て前に埋もれていたのですから。
仮に僕が彼の舎弟を皆殺しにして『君の憂いは全て、この僕が断った。これで君は何にも苛まれずに済む』なんて言って、彼が喜ぶわけがない。
敵対ですよ。圧倒的なまでに絶対的な敵対。
大切な舎弟を殺されたのですから、義侠心を振るわなくてはならない場面です。
本質的には建て前と言えども、彼はそれが本心だと信じ切っている。
彼と彼の舎弟が生み出した仮初めの理想によって田才分親は自らを確立しているのです。
僕はね、彼の愛が欲しかったんです。
憎悪は欲していない。
憎しみを向けられるよりも、無気力だった僕に活力を取り戻してくれた娯楽を共有した方が良い。ずっと良い。
殴り合いの喧嘩は男の花道だなんて言いながら彼は常に恐れていた。
殴り返されることを。
負けてしまうことを。
舎弟からの尊敬や興味が失われてしまうことを。
やりすぎて殺してしまうことを。
怖い怖い怖い。
けれども気心の知れた相手は舎弟だけ。
そんな情けない所は見せられない。聞かせられない。
そう。だから無関係な僕に付け入る隙があった。
簡単ではありませんでした。
今抱えている無自覚な重荷から解放されたければ、人を殺しなさいといったところで、彼らの言う殺すは喧嘩で勝つという意味でしかありませんから。
相手が降参したり、気絶したからと言って、手を止めていては殺人にはならないでしょう?
すると彼は逆上しましてね。
いいえ、まだ殺していませんよ。
だって彼の遺体の傍には中学三年生の少年二人の遺体があったでしょう?
僕はまだ、その中学生の話をしていないじゃないですか。
ええ、ええ。分かりました。
逆上する田才分親を拘束して、彼らのアジトへ連れて行きました。
そして、彼の携帯から中学生の少年二人を呼び出しました。
別に彼等である必要はありませんでした。
田才分親のアジトに偶々誰も来ていなかったものですから、アドレス帳にあった彼の仲間を適当に呼び出したのです。
ヘッドに誘われたのが余程嬉しかったらしく、無邪気な顔してアジトに飛んできました。
入ってきた彼等を拘束し、田才分親の前に転がしました。
さあ殺してごらんと言ったところでヘッドという建前がある以上、出来るはずがありません。
だから彼を拘束したまま、彼の腕にナイフを巻き付け、刺させました。ほんの3センチ程。
そして語りました。
田才分親という男が如何に可哀想で可愛らしい男であるかを。
はい、そうです。
先ほど申し上げた通り、拳一つで他のアウトローたちと戦い、勝ち続けて7つのチームを吸収し、多くの舎弟を得たことに誇りを感じていると同時に重荷に感じていること。
本当は痛いのも負けるのも怖いが、後戻りが出来なくなっていること。
負けたら終わりだと死に物狂いで喧嘩をする一方で、勢い余って相手を殺害してしまうことを恐れていること。
田才分親に本当はその程度の人間だと、理解するまで何度も何度も聞かせてやりました。
と言ってもほんの3時間程度ですが。
僕の両手は既に彼から離れていたけれど、田才分親は拘束されたまま自分の腕に固定されたナイフをしっかりと自分の体重をかけて、舎弟の身体を深々と突き刺していました。
拘束を解いてやったら僕に言われるまでも無く、もう一人の方も殺そうとしていました。
余程気分が良かったのでしょうね。
いいえ、まだ殺していませんよ。
そんなことをしたら可哀想じゃないですか。
折角、本当にやりたいことを見つけて、これから満喫しようという時に。
殺人という素晴らしい行いを共有するのが本当の願いですが、僕を殺そうとするなら仕方がない。
殺すしかありませんが、田才分親が殺したいのは僕じゃない。
強さや男らしさを強要した舎弟たちだ。
自分で言って寂しくなる話ではありますが、殺人の快と悦を知り、本当の憂いを自覚した田才分親にとって僕の存在など空気でしかない。
僕のことなんて眼中になかったんですよ。
ま、腹を立てるようなことでもありませんし、三日ほど彼のアジトで待つ事にしました。
寂しくなかったのかって?
刑事さん、超能力って信じます?
だからそんな気の毒そうな顔をしないでくださいよ。僕は正常です。
引助夫妻の肉を食ったからか、それとも田才分親の心を暴いたからか。
理由は定かではありませんが、僕には超能力と言っても過言ではない特殊な力が宿ったのです。
それは田才分親が考えていることを理解できる、テレパシーのような力です。
とは言え、彼の心が一方的に流れ込んでくるだけです。
フィクションに登場する超能力ほど万能ではありません。
まあ、脳内に直接放送するテレビみたいなものでしょうか。
中々の見物でしたよ。
彼の望みはチームとメンバーの肉体を解体することだけ。
一人殺し、二人殺し、殺せば殺すほど身も心も軽くなっていく。それに何よりも楽しい。
苦楽を共にした仲間たちの悲鳴や絶叫を聞きながら、彼は後悔と快楽を同時に味わっていました。
自分の全てだと思っていたチームを自分自身の手で解体する自傷の背徳感に酔いしれていた。
しかし、若者の意欲と向上心は凄まじい。
瞬く間に僕じゃ足元に及ばないほどの人数を殺して、強烈な興奮を味わっていながら、既に気もそぞろになっていたんですよ。
田才分親は自分の心を暴いた男のことが、僕のことが気になって仕方がなくなっていた。
殺せば殺す程、殺人の先輩である僕のことで頭がいっぱいになっていった。
けれど、彼は一度決めたことを曲げられない男でしてね。
物事を中途半端にしてしまうのは男らしくない。そういう考えです。
だから、彼が僕に対してどんな感情や欲望を抱いたとしても、それが強烈なものであっても、まずは何がなんでも舎弟たちを一人残らず殺さなくてはならない。
田才分親の行動理念とは見栄とハッタリ、そして男らしさですから。
可愛いものですよ。
お気に入りのおもちゃと、新しいおもちゃを同時に見せられて迷っているこどものようで。
まあ、刑事さんも調べたでしょうからご存知の通り、彼が支配していた暴走族は全員が死んだわけじゃない。
半分ほど殺したところで我慢が出来なくなってしまったんです。
僕に会いたい。会って殺したい。
自分自身の軸とも言うべき舎弟たちを殺せば殺すほど、自分が何か違うモノへと変わっていくことへの興味と興奮が、殺人鬼を殺す関心へと変わっていった。
自分でも制御出来ないほどの強烈な感情だ。
彼の頭の中は僕を殺すことの興味。
舎弟たちを殺してしまった罪悪感。
そして、舎弟たちを皆殺しにすることなく、中途半端な状態で僕を追う後悔でいっぱいでした。
心の中は散り散りバラバラ。
舎弟たちの返り血と全身から噴き出る汗で喉を潤し、彼は僕を探し続けた。
中々僕を見つけられず、随分と心は焦れていたようですが、それすらも可愛らしかった。
いいえ、刑事さん。僕は隠れてなんていませんよ。
彼からも、貴方達からもね。
ずっと田才分親のチームのアジトに僕はいた。そこでずっと彼を待っていたんです。
彼は草の根分けてでも、僕を探し出すつもりだった。地球の反対側に、ブラジルにいようとも関係が無い。
断固とした非常に強い意思を感じました。
けれど、彼は僕を探し出すことができなかった。
何故なら彼は舎弟を殺した場所に、舎弟の遺体が残っている場所には何が何でも近付きたくなかったからだ。
一番最初に彼が殺した二人の中学生の遺体もアジトに残っていたから、彼は一番最初に探すべき場所を避けた。
いつまでも、あの男がアジトに残っている筈がない。
そう言い訳をして近付こうともしない。
舎弟の遺体を見るのが怖い。
取り返しのつかないことをしたと突き付けられるのが怖い。
けれど、あの男を殺したい。
ふふふ。彼は迷ってばかりだ。
自分を慕う者達を殺すことで心のタガが外れ、彼の心から迷いや恐れは無くなったかのように思えましたが、僕は学んでしまいました。
人間は人を殺した程度では狂わないし、何も変わらない。
文明社会において特殊で異質な経験をしただけ。
殺人なんて行為は、たったその程度のものなんです。
人間の精神を変異させるほど特別なことではないのです。
殺人が狂った行いなんてものは、人間を知らず、理解していない人間が決め付けた思い込みでしかありません。
ああ、流石は刑事さん。その通りです。
結局、彼はアジトに戻ってきましたよ。
迷い、悩み、恐れの果てに田才分親は自分の欲望を優先することにしたのです。
彼は僕がアジトにいることを初めから直感的に理解していた。
その上で、敢えてアジトを避けた。
恐怖と罪悪感、後悔に耐えられなかったから。
それ以上に僕を殺せないことが耐えられなかった。
既に義侠心は消え失せ、頭のイカレたクソ野郎をぶっ殺してやろうなんて気持ちだって微塵も残っていない。
欲望が恐怖を遥かに凌駕したとき、田才分親は愛欲と劣情にも似た意識を僕に向けた。
僕の思惑通りにだ。
僕らの間に言葉はありませんでした。
我慢していたのは僕も同じことでしたので。
理性で欲望を抑え続けるのも限界だったのです。
あれほど人から強く求められたことは一度もありませんでしたから。
彼の皮膚をかき分け、胸骨を開き、心の臓を啜り、咀嚼して嚥下する。
もしも獣と獣が子を成すためでは無く、人間のように、ただ快楽のためにだけに、交尾を、セックスをしたとしたら、ああなるんじゃないですかね。
気持ちは分かりますけど、僕は異性愛者ですよ。
その証拠に次の犯行では女性を狙いました。
そう、村二愛の殺害です。
あの素晴らしき人達を手にかけ、愛を感じました。
強烈な恋愛感情を。美化された初恋の思い出や恋人の顔や名前さえも忘れてしまう程に。
重ねて言いますが、僕は異性愛者です。
産まれた感情がどれほど強烈であっても同性相手では、悦びを感じていることに複雑な気分になってしまうんですよ。色々と。
意外と普通だなって……再び重ねますが、僕は普通の人間ですよ。刑事さんと同じです。
正気を持った普通の人間が60人の人間を衝動的に殺した。
僕が行った犯罪とは、有りたいに言えば、たったそれだけのことなんですよ。
何はともあれ、田才分親を殺した直後の僕は強烈な殺人欲と性欲が同居している状態で、頭の中は滅茶苦茶でした。
殺したくなるほど魅力的で、犯したくなるほど蠱惑的な女性で無くては満たされないのですから。
今までの標的選びとは訳が違う。
事実、村二愛と出会うまでに数日を要しました。
彼女に出会うまで、殺すか犯すか、どちらかで妥協しようとする弱い心が誘惑してきて、それに折れそうになりかけていました。
満を持して村二愛と出会うことになりましたが、あの時の僕は、恋愛に不慣れな思春期の少年と変わらないくらい不器用で、今になって思えば、もっと器用な立ち振る舞いが出来たんじゃないかと、後悔の念が浮かび上がる程、無様なものでした。
ああ、言われると思いましたよ。
彼女と夜を共にしたのは三日ですが、これだけは誓って言えます。
あの三日間、彼女は間違いなく僕の恋人でした。
最初はレイプしたあとに殺してやるつもりでいました。
けど、その……何と言うか、心底惚れてしまったと言うか……ええ、まあ、そういう感じです。
ただ、増長を恐れずに言うのであれば、彼女も同じような感情を僕に抱いていました。
そうですね。彼女は決して派手な女性ではありません。
見た目通り地味で控え目な人で、僕の不器用な衝動を面白がるようなタイプでも無ければ、一晩だけ遊んでやろうと恋に慣れた感じでもない。
けれど、僕と彼女の間には理屈や道理を超越した、原始的な繋がりが無自覚の内に強く結びついていたのです。
殺したのが不思議ですか?
本当にそうでしょうか?
僕たちはお互いに唯一無二の存在になりたかった。
僕は彼女の恋人の存在が、彼女は僕の恋人の存在がどうしようもなく疎ましくなっていた。
そうだとしても殺すわけにはいかない。
殺すわけにはいかないんですよ。
僕にとって殺人とは嘘偽りのない愛情表現でもあるのですから。
だから邪魔であっても排除するわけにはいかない。
どうすることも出来ないまま、陰鬱な気持ちと強烈な愛欲と殺人衝動とが僕と彼女をぶつけ合わせた。それしかなかった。
そうして三日目のことです。
僕はセックスの最中に彼女の身体を真っ二つに引き裂いていた。
子宮には人間のものとは思えない胎児がいた。
十を超える真っ赤な目が一斉に僕の方に向いた。
恐ろしいだとか不気味なんて感情は全くありませんでした。
奇形と言うにしてもあまりにも異質だけれど一目で分かった。
あれは僕と彼女の子供だ。
彼女の恋人の胤で産まれた子供では無い。
子宮の中から掌に乗るくらいの大きさの胎児が沢山出て来て、その一人一人が僕の目を真っ直ぐに見つめて、僕を父親だと認識していたから間違いありません。
誰に似たのか食いしん坊な子もいて、僕の姿を確認し終えると子供達は彼女の子宮を食べ始めました。
本当は僕も食べたかったのですが、父親になってしまったので我慢しました。
彼女も母乳を与えられる状態ではありませんでしたし。
胎児ですか?
思いもよらぬ形で子宮の外に出てしまいましたから、みんな丸呑みにしましたよ。
僕の身体で彼女の子宮の代わりが務まるか少し心配でした。
とは言え、そんな悠長に不安がっている場合ではありませんでしたから、父親として全力を尽くしました。
きっといつか、僕の身体を突き破って生まれて来ることでしょう。
日本は死刑の執行が驚く程遅い。
死ぬ前にあの子達の顔を見ることが出来そうだけど、誰が面倒を見てくれるのか、そこだけが心配ですね。
他に殺害した女性ですか? あー、あの、いえ、いや、その、ですね。僕も、その、男だし……村二愛を心から愛しているのは誓って事実です。本当に事実なんです。僕は彼女ことが大好きです。その気持ちに嘘偽りは一切ありません。僕たちはお互いに、唯一無二になりたかったし、ならなくてはならなかった。そしてなれた。ただし、彼女は肉を失い、僕には肉がある。肉欲からは逃れ得ぬ宿命が男にはある。それは刑事さんもご存知でしょう? こんなものは正気とか狂ってるとか普通とか異常なんて関係ないのですから。男の宿業です。運命です。回避不可能なんです。え、いや、いやだなぁ……やめましょうよ。浮気とか……何だか、僕が悪いことをしたみたいじゃないですか。これ殺人事件の取調ですよね? なんで浮気調査をする探偵みたいな態度なんですか。やめてくださいよ。やめましょうよ。
次です。次。字葉伽陀の殺害についてお話します。
村二愛を殺害し、彼女の子供達を飲み込んで僕の心は満たされていました。
しかし、人間の欲とは満ちることを知らない。
何より、連休を終え、また仕事が始まるとなれば憂鬱な気分にもなろうというものです。
僕はもっと満たされたかったし、更に言えば会社に行くのが嫌で嫌で仕方が無かった。
けれど、殺人衝動の赴くままに殺しをして、心を満たそうにも金銭を得なくてはならない。
まあ、苦肉の策ではありますが。
そう言えば、この頃には警察が僕を捕まえにくるであろうことを警戒する気持ちは無くなっていました。
犯罪である自覚はあっても悪いことをしているという意識が無くなっていたからでしょうね。
僕が日常にいることは何もおかしなことではない。
だから労働もするし、殺人もする。
勤労と趣味は両立できるし、両立させるのが大人というものでしょう?
結果的に、その考えは正しかった。
そうです。字葉伽陀は同じ職場の人間でしたから。
驚くほど気付けなかった。僕は村二愛のお陰、と言うよりは子供達のお陰で視野が広がった。
親になったという自覚が、新たな感覚と価値観を会得したと言い換えても良い。
だから、字葉伽陀と対峙した時、僕はこれまで彼に抱いていた物とは大きく異なる印象を抱いた。
彼は前会長の孫で、権力を笠に着るきらいがありました。
それでも基本的には善良で、裕福な生まれとは裏腹に小市民的な男でした。
現会長や社長に比べて親しみやすく、与しやすいという感想を持たれ、いつも多くの取り巻きに囲まれている。
もしも、大衆に利用される官僚がいるとすれば彼のような人だろうと誰もが思うことでしょう。
実際、僕もそうでしたから。
でも、それは彼の本質ではない。
少し傲慢だが、善良なお人好しで、世間知らずなお坊ちゃまというのは、彼が社会に向けて発信した仮面です。
仮面を一枚外せば猟奇殺人鬼の顔が現れる。
ええ、彼も殺人鬼です。
字葉家が巧妙に隠してはいるものの、字葉の一族は殺人を快悦とする遺伝子が組み込まれているのです。
同類とは、少し違いますね。
田才分親、大神久士、九多賀炎、河津勉、内野迫、懐田蓮、鳥栖全一。
彼等は完全に同好の士だ。
殺人以外に愛と執着の発現手段を持たない人好き達。字葉伽陀の殺しとは違う。
僕らの殺しは愛ですが、彼の殺しは悪質な遊びだ。
そう悪質なのです。
サイコパスにも通ずる悪意を感じた。
彼は取り巻きや使用人を字葉本家の地下、螺旋階段を下りた先にある回廊へ連れて行き、お坊ちゃまの仮面を外す。
殺人鬼としての階梯は僕よりも遥か高みにあるとは言え、其処には愛も、絆も無い。
あるのは他者への悪意と嘲笑。
人が持ち得る悪虐の全てを煮詰めたような本性があるだけ。
本性と終末を見せ付けることで、薄気味悪い充足を得ているに過ぎません。
殺人鬼が殺人を咎めるのは余人からしてみれば矛盾を孕んでいるように思えるかも知れませんが、そこに矛盾が入り込む余地はありません。
もう少し分かりやすく例えるなら……そうだ。バイキングで料理を取るだけ取って、結局食べずに店を出る客を目にした時の不快感。
ええ、そうです。
罰金を払うのが嫌でげっそりした表情で嫌々食べている客が隣の席にいる時とか、金を払ったんだからどうこう言われる筋合いは無いだとか、売れ残ったら結局廃棄するだとか、嫌な言い訳をする無様な客がいるでしょう?
刑事さんもすぐに想像出来たように、あの手の客は視界の中にいるだけで不愉快になる。
作った人間の気持ちだとか食材になった動植物の命を何だと思っているんだって。
そんな浅ましい客を目の当たりにした時に感じる不快感を、僕は字葉伽陀から感じました。
けれど親になったからでしょうか。
彼を完全に拒絶したくなるほどの嫌悪はありませんでした。
寧ろ、躾けてやろう。
そんな気持ちと、彼を完食したい。
二つの気待ちが綯い交ぜになって、僕はどうして良いか分からなかった。
ああ、屠畜される牛や豚が病に犯されていたり、奇形だったのを知ってしまった。
そんな気分だったのかも知れませんね。
僕は人間を屠殺することに何の不快感も感じませんが、その人の振る舞いを見て、食べるのが嫌になることがあるのは確かです。
精神の屠殺……成る程、言い得て妙ですね。
そう、僕は彼のサイコパス的な行いを知り、精神の屠殺に、快と悦とは正反対の感情を抱いた。
けれども、屠畜に嫌悪感を示す一方で、肉や魚を好んで喰らう人間がいるのと同じように僕も彼を殺したいと思った。
ええ、そういった意味合いでも僕は普通の人間なんです。
僕は引助田権殺しを切欠に、今日に至るまでに60人の人間を殺しました。
そして、殺した人間の顔と、声と、名前と、血と肉の味、その全てを覚えている。
これから先の未来も、死刑になって命が断たれても、死後の世界に至り、永遠と無限の時を迎えることになったとしても、僕は決して忘れることはないでしょう。
僕にとって殺人とは、それほどまでに特別な儀式なのです。
彼のように暴食に満ちた殺人を許容するわけにはいかない。
アレは命に対する冒涜だ。
殺人というものに理解の出来ない人からすれば、同じ穴の狢でしょうね。
殺人なんてやってる時点で命の冒涜者であることに変わりはないのかも知れない。
だが、僕から言わせてもらえば、僕ほど命の尊さというものを真面目に考えている人間は、そう滅多にいないと思っているくらいですがね。
彼を殺した手段ですか?
すいませんね。刑事さんのことを殺したいという気持ちは全くないのですが、不思議と話易いものですから。
こう見えて、結構口下手で人見知りをするタイプなんです、僕。
だから少し不思議な気分です。
引助田権を殺して以来、僕にとって好意と殺意は比例する物へと変異しました。
それなのに、刑事さんに殺意が全く湧いてこない。
それどころか、もっと語りたい。語り合い続けていたい。そんな気分になるんです。
ははは、そうでしょう? 男同士なのに全然嫌な気がしない。
けれど、僕らは異性愛者だから嫌な気分がしないことが却って複雑になる。
そりゃあ、村二愛みたいな女性を探したくもなるってものですよ。
彼女と出会えた時、愛しさと殺意が同居していたことに安心しました。
そうでなくては、そうでなければ、僕がこれまでの人生で培ってきた常識を根底から疑わなくてはならなくなる。
話を戻しましょうか。
今の僕は取調を受けている身ですし、取調室で犯罪者と警察が趣味趣向の話で盛り上がるのもあまり良くはないでしょうから。
字葉伽陀を殺した動機は様々ですが比重で言えば、義侠心が一番でしょうね。
田才分親ではありませんが。
語り合い、彼が僕の言葉や考えに一定の理解を示すのであれば同好の士となり、手を取り合うことも出来たのかも知れません。
実際に返って来たのは嘲笑で、僕にあったのは字葉伽陀という理解不能の化け物への恐怖と嫌悪でした。
あれほど、殺人行為に快と悦を感じていた僕でしたが、あの時ばかりは不快感しかありませんでした。
そうです。愛のない殺人。
言ってしまえば、ただの暴力です。
ついカッとなって手を上げてしまった。
それと全く同じことです。
彼の考えが僕には理解できなかった。
彼の言葉に耳を塞ぎたかった。
訳の分からない物を遮断して自分自身を守る為の暴力です。
僕は彼を殴った。
人を殺せるほどの威力ではなかった。
でも、彼は足を滑らせて螺旋階段から転がり落ち、落下の勢いが止まる頃には肉団子と化していた。
殺人事件と言うよりは死亡事故と言いたいところですが、事故の引き金を引いたのは僕ですからね。
正義の味方のようにぶつかり合って、敵を改心させて和解する。
理想的な展開ですが、現実ではそれが難しい。
そして、殺人であると認める以上は字葉伽陀も僕の永遠の中に招かなくてはならない。
そうであるなら役得というものがあって然るべきでしょう?
彼の人間性は唾棄するものですが完食したいという欲望自体は本心です。
都合の良い事に食べやすそうな肉団子が落ちていたことですし、ね?
おや? 刑事さん、どうしたんですか?
まだ全然語り終えていませんよ?
まだほんの5人だ。あと55人残っていますよ。
僕が彼等とどのようにして出会って、どういう交流があって、そして、どうやって殺したか。
急いで全てを語る必要が無いと言えば、それはその通りなのですが……
どうでも良いって……善良な市民を守るおまわりさんにあるまじき発言だ。
あの、今のは皮肉なのですが、そんな思春期を迎えた少年少女が罹患する病みたいな反応をされては僕も戸惑わざるを得ません。
刑事さんはもっと真面目な人間だと思っていたのですが、まさか職務をおざなりにできる快楽主義者だったとは。
自分自身に宿る欲望の声、真なる欲が聞こえたのですね。
そうだと言うのなら仕方がありません。
どうかその衝動を大切にしてください。
刑事さん……ではなくなってしまいましたね。
同好の士よ、お名前を聞いても?
倉久惇、ですか。
では、惇、またいつか会いましょう。
君がこの場からいなくなったところで別の刑事が僕の取調をする。
何せ60人だ。
60人も殺してしまった以上、決して死刑を免れることは無いだろう。
そして、惇、君も同じだ。
僕たちのような人間は、人を殺してみたいと思えるような人間は、何かしら特別で、特殊な存在だ。神と言っても良いだろう。
価値のある殺人を楽しむと良い。
そして、妥協はしちゃいけないよ。
無価値な殺人は悪虐だ。
それは君の魂の価値を乏しめることになる。
どんなに見つからなくても焦らないで欲しい。
きっといるはずだ。
僕に特別な殺しを味わわせてくれた人たちがいたように。
君にも特別な殺しを味わわせてくれる人達と出会うことになるだろう。
その時、君は殺すだろう。
君の殺人衝動に誘われて殺されようとする人、殺そうとしてくる人もいるだろう。
けれど、君はその特別な人達を一人残さず殺すに違いない。
だからその時が来たら、どうかその特別な人達のことを忘れないでいて欲しい。
その人達の顔を、名前を、どんな仮面を被っていたのか、どんな本性を抱えていたのか、どのような愛の持ち主だったか。
それから君が殺すに相応しいと確信を得た衝動に、何より君が彼等を愛していることを必ず自覚しなくてはならない。
それではさようなら。
君も役目を果たした時、この国の、この時代の、この社会の法と正義によって命を絶たれることになるだろう。
そうだとしても寂しいなんて思わなくて良い。
惇のために僕は先に逝こう。
一足先に超未来で待っているよ。
僕の退屈から産まれた毒性を受け継いだ君のことを。
皆と一緒にね。
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