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マリオネット
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ひたすらに、ただひたすらにサラは走っていた。辺りは暗い。星も見えている。十分な灯りもないのに、走る。
走る。走る。走る。裸足のまま、足が痛むのも、石で切れるのも、構わない。転んでも、立ち上がって。早く。できるだけ遠くへ。そうしなければ、駄目なのだ。
『はぁっ、はあっ……』
息が切れても、辛くても。その足を止めることはない。早く、ここから逃げなければ──。
ちらりと後ろを振り返るその顔は、恐怖と不安で歪んでいた。
* * *
息が苦しい。激しい動悸、息切れに見舞われる。ショックでまばたきさえも忘れてしまう。汗が止まらない。身体中が湿って気持ちが悪い。
一瞬で分かった。もう見慣れた、下着のような白くて薄いキャミソールワンピース。あれは、記憶を失う直前の記憶だ。
記憶を失ってからの記憶──最初に気がついた時も、彼女は走っていたのだ。そこまで必死に、自分は、逃げていた。切迫した様子で、なるべく遠くへと。
──どうして?
サラには分からなかった。頭を抱えて、歯を食い縛った。
──私は、何から逃げていたの?
思い出そうとしても、靄が広がったように脳内を支配するだけだ。
──自分から、こうなることを望んだの?
醜い、ストリートチルドレンのような生活。こんな生活楽しくもないのに。帰るべき場所があったとして、サラは自分からそれを捨てたのだ。
「大丈夫?」
「……大、丈夫」
だんだん落ち着いてきた。ゆっくりと深呼吸をして、トウワタに向き直った。
「君、これからどうするの?」
不意に、トウワタに尋ねられる。サラはビクリ、と肩を震わせた。『これから』が、あるんだろうか。サラは下唇をぎゅっと噛んだ。
「……わからない」
「わからない! じゃあ、どうしたいの?」
「……どうしたい? ……私は」
『記憶を取り戻したい』。言いかけて、言葉をつまらせた。取り戻して、どうするのだろう。どうすればいいのだろう──。
服の裾を握りしめていると、トウワタが小さく笑った。その笑いは、自嘲ぎみに響いた。
「君はさ、今の僕みたいだね。急に糸を切られてさ、動くことも出来ずに、ただ、ただ、宙ぶらりん──」
あぁ。本当だ。本当に、私は。
「何をしている!」
急に張り上げられた大声に、サラは飛び上がった。声のした方を見てみると、ボロボロの服に身を包んだ、しわくちゃの老人が立っていた。
「ヘリじいさんだ」
「えっ……」
飄々と言うトウワタに、サラは狼狽える。彼は、明らかに腹をたててサラを睨んでいる。
「ワシのもんを盗むつもりか!」
「いえ、違、」
「ここにあるもんは、みんなワシのもんだ! やらん、一つたりともやらんぞ!」
ゴミ収集の帰りなのだろう。ヘリコニアは、錆びた鉄パイプのようなものや、黒い袋を手に下げていた。
サラの話を聞こうともしてくれない。黒い袋を地面において、両手に鉄パイプを握りしめた。
──まずい。
そう思うのに、足がすくんで動かない。ヘリコニアは、悪臭と共にこちらに寄ってくる。鉄パイプを振り上げる──。
「逃げて、サラ」
トウワタの声がした。
「……っ!」
反射的に右によける。カァン! という音が響いて、ゴミの山が少し崩れた。このままじゃ危ない。サラは咄嗟に駆け出した。振り返ることも忘れて、駆ける。まるでいつかの光景。
ワシのもんだ、やらん、と繰り返し叫ぶ声がサラの耳に焼き付いた。トウワタは、この深く絡み付くような独占欲からは、きっと逃れられない。それを思うと──涙が溢れた。
* * *
翌日になって、トウワタにきちんとお礼を言えていないことを思い出した。お別れも言えていない。
でも、次こそは何をされるか分からない。もうあそこには近づけない、とため息をついた。トボトボと歩いていると、前からスーツを着た集団が歩いてくるのが見えて、サラは木陰に隠れた。
「困ったもんだよ、ガラクタじいさんには」
「これで注意しにいくの、何度目でしょうか」
「何度言っても変わらんよ。狂ってるんだ、あそこのじいさんは」
その会話で、ヘリコニアのもとへ向かう役所の職員だと分かった。サラは職員たちが通りすぎるのをじっと待った。
「強制的に撤去出来ないんですか?」
「まぁ……そうなるのは時間の問題かもなぁ」
「上の決定次第だな」
「あのじいさんがくたばるのと、上が重い腰を上げるの、どっちが先だろうな」
「賭けますか?」
「馬鹿らしい、やらんよ」
「ったく、嫌になるよ、あんなガラクタ集めて何になるんだか。文句を言われるのも、注意しにいくのも俺らだってのに」
「しょうがない、それが公務員の定めだよ」
だんだん声が遠くなっていく。ヘリコニアが死んでしまっても、強制的に撤去されてしまっても──トウワタの運命は変わらない。縛られ続けて、あのまま。
──もしかして、私も?
あんなに必死に逃げて、逃げて。それでも何も変わってないんだとしたら? そんな考えが頭をよぎって、首をブンブンと降る。もう、どうすればいいのか分からなかった。
『君はさ、今の僕みたいだね。急に糸を切られてさ、動くことも出来ずに、ただ、ただ、宙ぶらりん──』
トウワタの声が頭を過って、胸がズキズキと痛んだ。
──私は、今、何をしているんだろう。
しばらくは動くことも出来ず、サラはぼんやりと宙を眺めていた。
走る。走る。走る。裸足のまま、足が痛むのも、石で切れるのも、構わない。転んでも、立ち上がって。早く。できるだけ遠くへ。そうしなければ、駄目なのだ。
『はぁっ、はあっ……』
息が切れても、辛くても。その足を止めることはない。早く、ここから逃げなければ──。
ちらりと後ろを振り返るその顔は、恐怖と不安で歪んでいた。
* * *
息が苦しい。激しい動悸、息切れに見舞われる。ショックでまばたきさえも忘れてしまう。汗が止まらない。身体中が湿って気持ちが悪い。
一瞬で分かった。もう見慣れた、下着のような白くて薄いキャミソールワンピース。あれは、記憶を失う直前の記憶だ。
記憶を失ってからの記憶──最初に気がついた時も、彼女は走っていたのだ。そこまで必死に、自分は、逃げていた。切迫した様子で、なるべく遠くへと。
──どうして?
サラには分からなかった。頭を抱えて、歯を食い縛った。
──私は、何から逃げていたの?
思い出そうとしても、靄が広がったように脳内を支配するだけだ。
──自分から、こうなることを望んだの?
醜い、ストリートチルドレンのような生活。こんな生活楽しくもないのに。帰るべき場所があったとして、サラは自分からそれを捨てたのだ。
「大丈夫?」
「……大、丈夫」
だんだん落ち着いてきた。ゆっくりと深呼吸をして、トウワタに向き直った。
「君、これからどうするの?」
不意に、トウワタに尋ねられる。サラはビクリ、と肩を震わせた。『これから』が、あるんだろうか。サラは下唇をぎゅっと噛んだ。
「……わからない」
「わからない! じゃあ、どうしたいの?」
「……どうしたい? ……私は」
『記憶を取り戻したい』。言いかけて、言葉をつまらせた。取り戻して、どうするのだろう。どうすればいいのだろう──。
服の裾を握りしめていると、トウワタが小さく笑った。その笑いは、自嘲ぎみに響いた。
「君はさ、今の僕みたいだね。急に糸を切られてさ、動くことも出来ずに、ただ、ただ、宙ぶらりん──」
あぁ。本当だ。本当に、私は。
「何をしている!」
急に張り上げられた大声に、サラは飛び上がった。声のした方を見てみると、ボロボロの服に身を包んだ、しわくちゃの老人が立っていた。
「ヘリじいさんだ」
「えっ……」
飄々と言うトウワタに、サラは狼狽える。彼は、明らかに腹をたててサラを睨んでいる。
「ワシのもんを盗むつもりか!」
「いえ、違、」
「ここにあるもんは、みんなワシのもんだ! やらん、一つたりともやらんぞ!」
ゴミ収集の帰りなのだろう。ヘリコニアは、錆びた鉄パイプのようなものや、黒い袋を手に下げていた。
サラの話を聞こうともしてくれない。黒い袋を地面において、両手に鉄パイプを握りしめた。
──まずい。
そう思うのに、足がすくんで動かない。ヘリコニアは、悪臭と共にこちらに寄ってくる。鉄パイプを振り上げる──。
「逃げて、サラ」
トウワタの声がした。
「……っ!」
反射的に右によける。カァン! という音が響いて、ゴミの山が少し崩れた。このままじゃ危ない。サラは咄嗟に駆け出した。振り返ることも忘れて、駆ける。まるでいつかの光景。
ワシのもんだ、やらん、と繰り返し叫ぶ声がサラの耳に焼き付いた。トウワタは、この深く絡み付くような独占欲からは、きっと逃れられない。それを思うと──涙が溢れた。
* * *
翌日になって、トウワタにきちんとお礼を言えていないことを思い出した。お別れも言えていない。
でも、次こそは何をされるか分からない。もうあそこには近づけない、とため息をついた。トボトボと歩いていると、前からスーツを着た集団が歩いてくるのが見えて、サラは木陰に隠れた。
「困ったもんだよ、ガラクタじいさんには」
「これで注意しにいくの、何度目でしょうか」
「何度言っても変わらんよ。狂ってるんだ、あそこのじいさんは」
その会話で、ヘリコニアのもとへ向かう役所の職員だと分かった。サラは職員たちが通りすぎるのをじっと待った。
「強制的に撤去出来ないんですか?」
「まぁ……そうなるのは時間の問題かもなぁ」
「上の決定次第だな」
「あのじいさんがくたばるのと、上が重い腰を上げるの、どっちが先だろうな」
「賭けますか?」
「馬鹿らしい、やらんよ」
「ったく、嫌になるよ、あんなガラクタ集めて何になるんだか。文句を言われるのも、注意しにいくのも俺らだってのに」
「しょうがない、それが公務員の定めだよ」
だんだん声が遠くなっていく。ヘリコニアが死んでしまっても、強制的に撤去されてしまっても──トウワタの運命は変わらない。縛られ続けて、あのまま。
──もしかして、私も?
あんなに必死に逃げて、逃げて。それでも何も変わってないんだとしたら? そんな考えが頭をよぎって、首をブンブンと降る。もう、どうすればいいのか分からなかった。
『君はさ、今の僕みたいだね。急に糸を切られてさ、動くことも出来ずに、ただ、ただ、宙ぶらりん──』
トウワタの声が頭を過って、胸がズキズキと痛んだ。
──私は、今、何をしているんだろう。
しばらくは動くことも出来ず、サラはぼんやりと宙を眺めていた。
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