ヒトガタの命

天乃 彗

文字の大きさ
上 下
3 / 27
名前のない人形

02

しおりを挟む
「……あなたね? 泣いていたのは」
「そうよ……。ずっと怖かったの。すごく、すごく……」

 その人形は、にこやかな見た目とは対照的に啜り泣いている。声は十歳くらいの少女のようだった。

「あなた、名前は?」

 サラは優しく尋ねた。
 が──人形の少女は、さっきよりも悲しそうに泣くのだった。サラはなぜ少女が自分の発言で泣いたのか分からず、固まってしまう。

「何故泣くの? 私、変なことを聞いた?」

 人形の少女のにっこりと笑う顔は変わらない。しかし、声はますます不安げに響くのだった。

「ち、がうの。あたし、捨てられちゃったから──名前が、ないの」
「え……どういうこと?」

 捨てられたから、名前がない? サラは人形の言葉が理解できず首を傾げた。

「あたしたち人形の名は、誰かに呼ばれるからこそ必要。だけど、あたしは捨てられた。だから、名前も必要なくなるの……」

 人形は哀しげに、ポツリポツリと言った。哀しげに泣きながら話す人形の声は、サラの胸を締め付けた。
 自分も、確かにあったはずの記憶をなくした身。人形の言葉が、他人事には聞こえなかった。
 あの老紳士の人形が話し掛けてくれなかったら、私はどうなっていたのだろう──そんなことが頭をよぎった。

「名前もなくなって、楽しかったことも、思い出せなくなるの。全部全部、消えてしまうの。こうして話しているあたしの魂も……」

 サラはその時やっと悟った。人形の少女の涙の理由を。

「き……消えてしまうの?」
「捨てられた人形は、消える運命なの。必要とされなければ、あたしたちに価値はないわ」

──……ッ! 

 ズキンッ。
 呼吸が止まりそうになった。人形の言葉が、胸に突き刺さる。

 ズキン、ズキン、ズキン。
 頭がおかしくなりそうなくらい痛む。

──捨てられた人形は。

 脳が、必死で何かを探している。

──消える運命なの。

 まるで世界から拒絶されたかのように。

──必要とされなければ。

 ただ一人、真っ暗な場所に放り込まれた感覚。

──あたしたちに、価値はない。

 そこに、光などない。

 言葉がガンガンと響き、頭痛が止まらない。目を見開いたまま、動けなくなってしまうサラをよそに、人形はなおも語り続ける。

「それにね──あたしのかわりなんて、いくらでもいるもの」

──…………!

 鈍器で殴られたかのような衝撃が、サラを襲った。


 * * *


 脳裏に浮かぶ、見知らぬ女性と男性。
 映像が霞んでいて、顔はよく見えない。女性のお腹は少し大きく、自身でそのお腹をさすっていた。

 とても幸せそうに、嬉しそうに。

 手を伸ばす。だがそのふたりは、だんだん遠くに行ってしまって──やがて、消えてしまった。

──行かないで。


 * * *


「──……っ!」

 遠退いていた意識が戻り、視界が明るくクリアになっていく。やっと自分で息が吸えて、サラは思い切り空気を吸い込んだ。
 ひどく息が苦しかった。体からは汗が大量に噴き出しだしていた。だんだん頭痛もおさまってきて、息も楽になってくると、やっと体を動かすことが出来た。

──今の感覚は、一体……? 

 サラは、さっき脳裏に浮かんだ映像を思い出す。

──もしかして、今の映像は、私の記憶……? 

 考えられる、一つの可能性。
 しかし、あの幸せな光景を見てサラに残ったのは、悲しみと不安と、憎しみだけだった。

──今の人たちは? 何故、こんな感情に? 
 記憶のかけらを見つけても、謎が増えただけだった。

「……お姉ちゃん」

 人形の声にハッとし、我にかえる。人形の声はもう泣いていなかった。むしろ、どこか落ち着いていて、大人びて聞こえる。

「そろそろ、お別れみたい」
「え……?」
「なんとなくね、わかる。自分の、最後……」

 フフ、と人形は笑う。心からの笑いじゃないのは、すぐにわかった。サラは何かを言おうとして、口籠もる。なんと声をかけてあげればよいのだろう。これから消えゆく彼女に。

「お姉ちゃん、ありがとね……。あそこから、出してくれて。あんなところで、消えたくなかったから……」

 人形の声はどんどん小さくなってゆく。この声が完全になくなった時、彼女は──。
 サラはあることに気付く。きっとあの老紳士も、棄てられて、消えたのだ。あの時も、糸が切れたかのように、何も聞こえなくなった。

「……っ、待って!」

 サラは声を張り上げる。こんな最後は、悲しすぎる。
 彼にも、お礼を言えなかった。だからせめて、彼女には──。

「あなたのおかげで、助かったことがあるの。だから……ありがとう」

 サラは胸の前でぎゅっと拳を握り締めた。フッと、人形が小さく笑うのが聞こえた。

「変なの……。こんなときに……人間に、感謝、されるなん……て……」

 その声はとぎれとぎれに聞こえて、ほとんど聞き取れなかった。サラは人形の声を聞くために、ぐっと耳を寄せる。

「──サヨナラ」

 最後の言葉は、やたらクリアにサラの耳に届いた。サラは人形を見る。変わらない笑顔で笑っている。

「……ねぇ、嘘でしょう? 返事をしてよ」

 サラはそっと人形に触れた。それでも返事はない。人形の、変わらないはずの笑顔が、どこか切なげに見えた。
 そこにあるのは、動きも、喋りもしないただの人形。普通ならなんでもない、当たり前のことなのに、さらにはその事実があまりに残酷すぎた。

『捨てられた人形は、消える運命なの』

 あの子はどんな気持ちであの言葉を口にしたのだろう。人の都合で捨てられて、あの子はどんなに悲しかっただろう。

『あたしのかわりなんて、いくらでもいるもの』

 自分のかわりになる人形に、何を思っただろう。サラは、喋らなくなった人形をそっと抱きしめる。きっと、持ち主にこうされたかっただろうに。サラは彼女の心中を悟って胸を痛めた。
 サラは人形をもう一度見つめた。きっとすぐに回収されて、明日には灰になる。消えてなお殺される人形を思うと、遣る瀬なくなった。でも、自分にはどうすることも出来ない。
 サラは人形を綺麗な所へ横たえ、腕を組ませた。せめて、安らかに眠れるように。

「サヨナラ……──あ」

 名前を呼び掛けようとして、彼女に名前がないことに気が付いた。名前を呼ぶことさえ出来ない──。サラは無力な自分を呪った。いたたまれなくなり、横たわる人形に背を向けて走りだした。

 誰かに呼ばれるための名前。では、自分の名前に意味はあるのか。こんなふうに街をさまよい歩き、誰にも相手にされない自分に。

「……嫌っ!」

 悲しい考えを振り切るように、サラは首を振った。全部をなくしても、名前だけは持っていた自分。

『それは、いい名前だねぇ』

 こんな自分を救ってくれた、あの人形。いい名前だと言ってくれたこの名前に、誇りを持っていたい。
 サラは、息を整えて後ろを振り返った。もうゴミ捨て場は見えない。

──行こう。記憶を戻すきっかけをくれたあの子のためにも。

 サラはゴクリと唾を飲み込んだ。今は分からなくても、少しずつ集めて、全部を取り戻したい。例えそれが、どんなものであろうとも──。
 サラは、失われた『自分』を知るために、また一人街へ繰り出した。 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

記憶を失くした悪役令嬢~私に婚約者なんておりましたでしょうか~

Blue
恋愛
マッツォレーラ侯爵の娘、エレオノーラ・マッツォレーラは、第一王子の婚約者。しかし、その婚約者を奪った男爵令嬢を助けようとして今正に、階段から二人まとめて落ちようとしていた。 走馬灯のように、第一王子との思い出を思い出す彼女は、強い衝撃と共に意識を失ったのだった。

旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます

結城芙由奈 
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】 ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。

「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。

あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。 「君の為の時間は取れない」と。 それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。 そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。 旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。 あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。 そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。 ※35〜37話くらいで終わります。

【完】愛人に王妃の座を奪い取られました。

112
恋愛
クインツ国の王妃アンは、王レイナルドの命を受け廃妃となった。 愛人であったリディア嬢が新しい王妃となり、アンはその日のうちに王宮を出ていく。 実家の伯爵家の屋敷へ帰るが、継母のダーナによって身を寄せることも敵わない。 アンは動じることなく、継母に一つの提案をする。 「私に娼館を紹介してください」 娼婦になると思った継母は喜んでアンを娼館へと送り出して──

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

10年間の結婚生活を忘れました ~ドーラとレクス~

緑谷めい
恋愛
 ドーラは金で買われたも同然の妻だった――  レクスとの結婚が決まった際「ドーラ、すまない。本当にすまない。不甲斐ない父を許せとは言わん。だが、我が家を助けると思ってゼーマン伯爵家に嫁いでくれ。頼む。この通りだ」と自分に頭を下げた実父の姿を見て、ドーラは自分の人生を諦めた。齢17歳にしてだ。 ※ 全10話完結予定

旦那様、離婚してくださいませ!

ましろ
恋愛
ローズが結婚して3年目の結婚記念日、旦那様が事故に遭い5年間の記憶を失ってしまったらしい。 まぁ、大変ですわね。でも利き手が無事でよかったわ!こちらにサインを。 離婚届?なぜ?!大慌てする旦那様。 今更何をいっているのかしら。そうね、記憶がないんだったわ。 夫婦関係は冷めきっていた。3歳年上のキリアンは婚約時代から無口で冷たかったが、結婚したら変わるはずと期待した。しかし、初夜に言われたのは「お前を抱くのは無理だ」の一言。理由を聞いても黙って部屋を出ていってしまった。 それでもいつかは打ち解けられると期待し、様々な努力をし続けたがまったく実を結ばなかった。 お義母様には跡継ぎはまだか、石女かと嫌味を言われ、社交会でも旦那様に冷たくされる可哀想な妻と面白可笑しく噂され蔑まれる日々。なぜ私はこんな扱いを受けなくてはいけないの?耐えに耐えて3年。やっと白い結婚が成立して離婚できる!と喜んでいたのに…… なんでもいいから旦那様、離婚してくださいませ!

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

処理中です...