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きっと、優しい味がします
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気づいた時にはもう遅い。トレイから滑り落ちた皿は、一直線に床へと落下し、ガシャンと大きな音を立てて、粉々になった。
さぁっと血の気が引く。頭の中が真っ白になってしまう。とにかくこれを片付けなくちゃ。焦りから、今度はトレイの上の飲み残しを床にこぼしてしまった。
「すっ、すみません! すみません! すみません! い、今片付けます!」
ガラスの破片を拾おうとすると、ちょうど鋭利な部分を触ってしまったらしい。
「いった……!」
一直線についた傷口からは、赤い血が流れ出した。ど、どうしよう。でもまずはこれ片付けないと。でも、血が。どうしたらいいのか分からなくて固まってしまうと、騒ぎを聞きつけた店長が奥からやってきた。
「大変失礼致しました。えーと、田中さん! ほうきとちりとりと、あとモップ持ってきて」
「あ、あの、あの」
「笹倉さんは、怪我の手当しようね。水道で傷口洗って。休憩室に救急箱あるから。場所が分からなければ今ちょうど和田さんがいるから、和田さんに聞いてね」
「で、でも」
店長は狼狽える私に対してにっこりと笑った。
「いいよいいよ! ここは僕がやっておくから、安心して」
「う……」
「そんな顔しないで。皿のことは気にしないでいいからね。さ、手当してきな」
「……はい……」
私は店長に言われるがまま、とぼとぼと休憩室へと向かった。その間にも、田中さんと店長がテキパキと私の失態を片付けてくれている。それを見たら余計に申し訳なくて、足も重くなる。
レストランでバイトを初めてから3ヶ月。昔から鈍臭くて、何をやってもうまくいかない私がバイトなんて、やっぱり間違いだったのかもしれない。店長やバイト先の人に迷惑をかけてばかりで、本当に申し訳なくなる。頑張ろうと思えば思うほど、空回りをしている気がする。だったら、いっその事辞めた方が皆さんのためになるんじゃないかな。
水道で傷を洗ってから、休憩室へと向かった。救急箱あるって言ってたな。絆創膏とかあるかな。
休憩室のドアを開けると、ちょうどそろそろ休憩が終わる和田さんと鉢合わせた。
「あら笹倉さん。今から休憩?」
「あっえと、怪我しちゃって。きゅ、救急箱を……」
「あらほんと! ちょっと待ってね、確かこの辺に……あった!」
和田さんが救急箱を持ってきてくれて、中から大きめな絆創膏と消毒液を取り出した。
「だ、大丈夫です。1人で出来ます!」
「片手じゃやりづらいわよ? いいのいいの、やってあげるから。ちょっとしみるけど我慢してね」
和田さんが慣れた手つきでガーゼに消毒液を染み込ませた。それを優しく傷口に当ててくれたけど、思っていた以上にしみた。
「いっ……」
「痛い? ごめんね、もうちょっと待ってね……はい、出来た!」
和田さんは丁寧に私の指に絆創膏を貼ってくれた。人差し指が固定されて、何だか不思議な感じがする。
「……ありがとう、ございます」
「さっき、お皿割っちゃったの? 音、ここまで聞こえたけど」
「う……はい……」
「うんうん、分かる、落ち込むわよね! あたしも新人のころはよくお皿割っててさぁ。でもいいのよ、少しずつ慣れてけばいいんだから、ね?」
和田さんは、ベテランのパートさんだ。仕事だっていつも完璧で、そんな和田さんがお皿を割るところなんて想像出来ない。もしかしたら、私のために嘘をついてくれているのかもしれない。
和田さんだけじゃない。店長も、他の人たちも、ここで働く人たちは、皆優しい。だからこそ、失敗ばかりの自分が情けなくて、申し訳なくて、でも何も返せなくて、どうしようもなくなる。
「ちょうどいいし、このまま休憩しちゃえば? 笹倉さん、今日は朝から入ってるんだし。あたしから店長に言っておくから、ゆっくり休みな?」
「……そうします、ありがとうございます」
私は一礼して、休憩室から出る和田さんの背中を見送った。姿が見えなくなってから、ゆっくりと椅子に座ろうとして、動きを止めた。私なんかに、休む資格なんてないよ。
ため息を一つつく。もう……本当に最悪だ。私は常に自分のことだけで精一杯なのに、皆さんはすごく気を遣ってくれている。本当に腑甲斐ない。
要領も悪くて、動きもとろくて、ろくな仕事も出来やしない。どうして私ってこうなんだろう。こんな自分、大嫌いだ。せめて私も、優しくされた分だけお返しできるくらい、人に優しくなれたらいいのにな……。
考えていたら、じんわりと涙がにじんできた。泣いてる場合じゃないのに──。
そんな時だった。
「あああっ……せめて座ってから泣いていただきたい! 立たれたままだと距離が遠すぎてどこに落ちるかわからないのです! あああ困った!」
私は驚いて顔を上げた。辺りを見渡しても、人影はない。でも、確かに声がした。
気のせいにしては、やたらとはっきりと聞こえた。なんだったんだろう……。
「あああっせっかくの涙が引っ込んでしまいました! やっと食事ができそうでしたのに……!」
やっぱり気のせいじゃない! 誰かいる! 休憩室のどこかに誰かいるんだ。どこ? 今日シフトに入っている人は、みんな表に出ているはずだし。私は声のもとを探ろうと辺りを見回した。
「む? もしや、このお方にも、私の声が聞こえていらっしゃる……?」
声は、確かに下から聞こえた。私は恐る恐る下を見る。そこ──テーブルの上、私のすぐ下に、小さい小さいおじさんが立っていた。
「なっ……何かいるっ!?」
「なぬ!? やはり、貴女も見える人でしたか!」
小さいおじさんはわたわたと両手を上下させた。見えるって何? 普通は見えないってこと? 私は混乱する頭を必死で落ち着かせる。
おじさんは被っていたヘルメット(ていうか……何でヘルメット?)を取って恭しく一礼すると、ゆっくりと話しはじめた。
「これはこれは失礼いたしました。私は旅の美食家。貴女様の涙をご馳走になるべくこちらに参りました」
「……はぁ」
やけに丁寧なおじさんだ。よく見ると、確かに服装はタキシードだし、上品に口ひげなんか生やしちゃってるし。工事用ヘルメットをしていることや、大きなバケツを持っていることや、その小さすぎるサイズを除けば、普通の紳士的なおじさんらしい。
「わ……私の涙?」
「ええ。私の主食は涙なのです」
ますます変なおじさんだ。主食が涙なんて、そもそも涙って食べ物じゃないし。
「貴女、今泣くところだったでしょう? どうぞどうぞ、泣いてください。私はゆっくり貴女の涙を堪能させていただきますから」
「そ、そう言われても……びっくりして、涙なんて引っ込んじゃった……」
おじさんは困ってひげをさする。本当になんなんだろう、この人。妖精かなにか、なのかなぁ……。
「……分かりました。ではこうしましょう。貴女がさっき涙が出そうになるまで至った経緯を思い出して下さい。涙が復活するかもしれません」
おじさんはバケツを手前に引き寄せる。いつでもどうぞという意味だろうか。
私は、おじさんに促されるまま椅子に座って、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……わ、私……昔から鈍臭くて、バイト始めてから3ヶ月も経つのに、失敗ばっかりで。それで、さっきまた失敗しちゃったの。お皿割っちゃった上に、のっ、飲み物までこぼしちゃって」
「はいはい」
「私、頭が真っ白になっちゃって、何も出来なくて。それなのに店長が、いいよいいよって言ってくれて……すごく、申し訳なくて」
「ふむふむ」
「そしたら、先輩まで私の事慰めてくれて……でも、その優しさが逆に辛くって」
「なるほどなるほど」
「わっ……わた、私は本当に自分のことばっかりしか考えてないのに、みなさん、本当に優しくしてくれて、それが辛くて。だって、わ、私は、みなさんに迷惑かけてばかりで、優しくされる資格なんか、全然ないのに……」
「ほうほう」
「こんな自分が嫌で、情けなくて……、だから、せめて私も人に優しくできたらいいのにって思ったら、思わず涙が……」
語りだしたら、止まらなかった。思い出したら、また悲しくなってきた。やっぱり私は、ここで働く資格なんかない。頑張らなきゃって思ったけど、やっぱり、辞めた方が……。
おじさんはすこし考えるように腕を組んでいて、しばらくすると私を見上げた。その瞳に、何故かドキッとする。
「ふむ、お嬢さん。私は常々こう思うのです。優しい人は、人の優しさに敏感であると」
「……え?」
「ですから、人の優しさに気付いて、優しくありたいと思う貴女は、誰よりも優しい人なのですよ」
私が、優しい……?
思いがけないおじさんの言葉に、体が動かなくなった。そんなことない。私なんて、自己中で、周りに目を配る余裕もなくて。否定するために首を振るけれど、おじさんは全く聞き入れない。
「貴女の涙はきっと、優しい味がします。だって、貴女はとってもお優しい方ですから。たくさんの方の涙を頂戴してきた私が保証します。だからお嬢さん、自分を卑下せず自信を持ってください。貴女の涙はきっと美味しい」
おじさんはにっこりと笑った。その笑顔を見たら、おじさんが嘘や気休めで言っているんじゃないことが分かる。このおじさんは、とびきり優しい笑顔で、本心から私に優しい言葉をくれている。
「──なんで……っ! なんで、おじさんまで優しいこと言うのっ……!?」
おじさんの笑顔が、あったかくて。胸の中のもやもやとした黒い固まりを溶かしていくようだった。いつも、優しくされることに引け目を感じていた。私は人に優しくされるほどできた人間ではないから。でも優しさって、真っ正面から受けとめれば、こんなにも暖かいんだ──。
そう気づいた時には、私の瞳からは涙が溢れ出していた。おじさんは慌てて私の涙をバケツに集めた。バケツはすぐにいっぱいになり、おじさんはとても満足気な顔だった。
「では早速、いただきます」
おじさんはぐいっとバケツを持ち上げ、豪快に喉を鳴らしはじめた。身なりに似合わないその飲みっぷりに、私は泣くのも忘れて目を丸くした。おじさんがバケツを置いた頃には中身がすっかり空になっていて、私はさらに驚いてしまった。
おじさんは優雅に白いハンカチで口元を拭って、また笑った。
「ほら、思ったとおりです」
その表情がやわらかくて、私は思わずつられて笑った。そうしたら、さっきまで感じていた悲しい気持ちは、嘘みたいに消えてなくなってしまっていた。
「では、私はそろそろおいとまいたしましょう。大変美味しゅうございました。ご馳走様でした」
「え、もう行っちゃ──」
もう行っちゃうの? と言い掛けた言葉が、ノックの音にかき消された。
「笹倉さん? 居るかな? 入るね」
この声は店長だ。どうしよう、せめて最後におじさんにお礼を言いたい。慌てて振り返ると、もうそこにおじさんの姿はなかった。
「あれ……?」
「笹倉さん? どした?」
扉を開けて中に入ってきた店長が首を傾げた。何も無い空間をぼんやり眺めていたから、店長の目にはさぞ私が不思議に見えただろう。私は慌てて店長に向き直り、平静を装った。
「いえ、何でもないんです」
「そう? 和田さんが心配してたから、僕も心配になっちゃって。落ち込んでない? 大丈夫?」
「はい……」
「怪我も大丈夫? ほら、重いもの持ったりするでしょ? この後の仕事大変そうなら、今日は無理せず早退する?」
店長はじっと私の人差し指を眺めた。私もつられて指を見て見る。絆創膏のガーゼにはもう血は滲んでいない。グーパーしてみると少し痛いけど、我慢できないほどじゃない。
以前だったら、その言葉さえ申し訳なくて受け取れなかったけど。
「お気遣いありがとうございます……。大丈夫です、頑張らせてください」
「そっか。無理はしないで、何かあったらすぐ言ってね」
「……はい!」
人の優しさに敏感な人は、誰よりも優しい人。そう言ってくれたのは、ちょっと変だけど、誰よりも優しい美食家のおじさんだった。
それにしても……優しい味って、一体どんな味だろう。そう考えて、優しいここの人たちが作る料理の味を思い出した。美味しくて、心がぽかぽかして、思わず笑みが零れるような。ああそっか。
きっと、こんな味だ。
さぁっと血の気が引く。頭の中が真っ白になってしまう。とにかくこれを片付けなくちゃ。焦りから、今度はトレイの上の飲み残しを床にこぼしてしまった。
「すっ、すみません! すみません! すみません! い、今片付けます!」
ガラスの破片を拾おうとすると、ちょうど鋭利な部分を触ってしまったらしい。
「いった……!」
一直線についた傷口からは、赤い血が流れ出した。ど、どうしよう。でもまずはこれ片付けないと。でも、血が。どうしたらいいのか分からなくて固まってしまうと、騒ぎを聞きつけた店長が奥からやってきた。
「大変失礼致しました。えーと、田中さん! ほうきとちりとりと、あとモップ持ってきて」
「あ、あの、あの」
「笹倉さんは、怪我の手当しようね。水道で傷口洗って。休憩室に救急箱あるから。場所が分からなければ今ちょうど和田さんがいるから、和田さんに聞いてね」
「で、でも」
店長は狼狽える私に対してにっこりと笑った。
「いいよいいよ! ここは僕がやっておくから、安心して」
「う……」
「そんな顔しないで。皿のことは気にしないでいいからね。さ、手当してきな」
「……はい……」
私は店長に言われるがまま、とぼとぼと休憩室へと向かった。その間にも、田中さんと店長がテキパキと私の失態を片付けてくれている。それを見たら余計に申し訳なくて、足も重くなる。
レストランでバイトを初めてから3ヶ月。昔から鈍臭くて、何をやってもうまくいかない私がバイトなんて、やっぱり間違いだったのかもしれない。店長やバイト先の人に迷惑をかけてばかりで、本当に申し訳なくなる。頑張ろうと思えば思うほど、空回りをしている気がする。だったら、いっその事辞めた方が皆さんのためになるんじゃないかな。
水道で傷を洗ってから、休憩室へと向かった。救急箱あるって言ってたな。絆創膏とかあるかな。
休憩室のドアを開けると、ちょうどそろそろ休憩が終わる和田さんと鉢合わせた。
「あら笹倉さん。今から休憩?」
「あっえと、怪我しちゃって。きゅ、救急箱を……」
「あらほんと! ちょっと待ってね、確かこの辺に……あった!」
和田さんが救急箱を持ってきてくれて、中から大きめな絆創膏と消毒液を取り出した。
「だ、大丈夫です。1人で出来ます!」
「片手じゃやりづらいわよ? いいのいいの、やってあげるから。ちょっとしみるけど我慢してね」
和田さんが慣れた手つきでガーゼに消毒液を染み込ませた。それを優しく傷口に当ててくれたけど、思っていた以上にしみた。
「いっ……」
「痛い? ごめんね、もうちょっと待ってね……はい、出来た!」
和田さんは丁寧に私の指に絆創膏を貼ってくれた。人差し指が固定されて、何だか不思議な感じがする。
「……ありがとう、ございます」
「さっき、お皿割っちゃったの? 音、ここまで聞こえたけど」
「う……はい……」
「うんうん、分かる、落ち込むわよね! あたしも新人のころはよくお皿割っててさぁ。でもいいのよ、少しずつ慣れてけばいいんだから、ね?」
和田さんは、ベテランのパートさんだ。仕事だっていつも完璧で、そんな和田さんがお皿を割るところなんて想像出来ない。もしかしたら、私のために嘘をついてくれているのかもしれない。
和田さんだけじゃない。店長も、他の人たちも、ここで働く人たちは、皆優しい。だからこそ、失敗ばかりの自分が情けなくて、申し訳なくて、でも何も返せなくて、どうしようもなくなる。
「ちょうどいいし、このまま休憩しちゃえば? 笹倉さん、今日は朝から入ってるんだし。あたしから店長に言っておくから、ゆっくり休みな?」
「……そうします、ありがとうございます」
私は一礼して、休憩室から出る和田さんの背中を見送った。姿が見えなくなってから、ゆっくりと椅子に座ろうとして、動きを止めた。私なんかに、休む資格なんてないよ。
ため息を一つつく。もう……本当に最悪だ。私は常に自分のことだけで精一杯なのに、皆さんはすごく気を遣ってくれている。本当に腑甲斐ない。
要領も悪くて、動きもとろくて、ろくな仕事も出来やしない。どうして私ってこうなんだろう。こんな自分、大嫌いだ。せめて私も、優しくされた分だけお返しできるくらい、人に優しくなれたらいいのにな……。
考えていたら、じんわりと涙がにじんできた。泣いてる場合じゃないのに──。
そんな時だった。
「あああっ……せめて座ってから泣いていただきたい! 立たれたままだと距離が遠すぎてどこに落ちるかわからないのです! あああ困った!」
私は驚いて顔を上げた。辺りを見渡しても、人影はない。でも、確かに声がした。
気のせいにしては、やたらとはっきりと聞こえた。なんだったんだろう……。
「あああっせっかくの涙が引っ込んでしまいました! やっと食事ができそうでしたのに……!」
やっぱり気のせいじゃない! 誰かいる! 休憩室のどこかに誰かいるんだ。どこ? 今日シフトに入っている人は、みんな表に出ているはずだし。私は声のもとを探ろうと辺りを見回した。
「む? もしや、このお方にも、私の声が聞こえていらっしゃる……?」
声は、確かに下から聞こえた。私は恐る恐る下を見る。そこ──テーブルの上、私のすぐ下に、小さい小さいおじさんが立っていた。
「なっ……何かいるっ!?」
「なぬ!? やはり、貴女も見える人でしたか!」
小さいおじさんはわたわたと両手を上下させた。見えるって何? 普通は見えないってこと? 私は混乱する頭を必死で落ち着かせる。
おじさんは被っていたヘルメット(ていうか……何でヘルメット?)を取って恭しく一礼すると、ゆっくりと話しはじめた。
「これはこれは失礼いたしました。私は旅の美食家。貴女様の涙をご馳走になるべくこちらに参りました」
「……はぁ」
やけに丁寧なおじさんだ。よく見ると、確かに服装はタキシードだし、上品に口ひげなんか生やしちゃってるし。工事用ヘルメットをしていることや、大きなバケツを持っていることや、その小さすぎるサイズを除けば、普通の紳士的なおじさんらしい。
「わ……私の涙?」
「ええ。私の主食は涙なのです」
ますます変なおじさんだ。主食が涙なんて、そもそも涙って食べ物じゃないし。
「貴女、今泣くところだったでしょう? どうぞどうぞ、泣いてください。私はゆっくり貴女の涙を堪能させていただきますから」
「そ、そう言われても……びっくりして、涙なんて引っ込んじゃった……」
おじさんは困ってひげをさする。本当になんなんだろう、この人。妖精かなにか、なのかなぁ……。
「……分かりました。ではこうしましょう。貴女がさっき涙が出そうになるまで至った経緯を思い出して下さい。涙が復活するかもしれません」
おじさんはバケツを手前に引き寄せる。いつでもどうぞという意味だろうか。
私は、おじさんに促されるまま椅子に座って、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……わ、私……昔から鈍臭くて、バイト始めてから3ヶ月も経つのに、失敗ばっかりで。それで、さっきまた失敗しちゃったの。お皿割っちゃった上に、のっ、飲み物までこぼしちゃって」
「はいはい」
「私、頭が真っ白になっちゃって、何も出来なくて。それなのに店長が、いいよいいよって言ってくれて……すごく、申し訳なくて」
「ふむふむ」
「そしたら、先輩まで私の事慰めてくれて……でも、その優しさが逆に辛くって」
「なるほどなるほど」
「わっ……わた、私は本当に自分のことばっかりしか考えてないのに、みなさん、本当に優しくしてくれて、それが辛くて。だって、わ、私は、みなさんに迷惑かけてばかりで、優しくされる資格なんか、全然ないのに……」
「ほうほう」
「こんな自分が嫌で、情けなくて……、だから、せめて私も人に優しくできたらいいのにって思ったら、思わず涙が……」
語りだしたら、止まらなかった。思い出したら、また悲しくなってきた。やっぱり私は、ここで働く資格なんかない。頑張らなきゃって思ったけど、やっぱり、辞めた方が……。
おじさんはすこし考えるように腕を組んでいて、しばらくすると私を見上げた。その瞳に、何故かドキッとする。
「ふむ、お嬢さん。私は常々こう思うのです。優しい人は、人の優しさに敏感であると」
「……え?」
「ですから、人の優しさに気付いて、優しくありたいと思う貴女は、誰よりも優しい人なのですよ」
私が、優しい……?
思いがけないおじさんの言葉に、体が動かなくなった。そんなことない。私なんて、自己中で、周りに目を配る余裕もなくて。否定するために首を振るけれど、おじさんは全く聞き入れない。
「貴女の涙はきっと、優しい味がします。だって、貴女はとってもお優しい方ですから。たくさんの方の涙を頂戴してきた私が保証します。だからお嬢さん、自分を卑下せず自信を持ってください。貴女の涙はきっと美味しい」
おじさんはにっこりと笑った。その笑顔を見たら、おじさんが嘘や気休めで言っているんじゃないことが分かる。このおじさんは、とびきり優しい笑顔で、本心から私に優しい言葉をくれている。
「──なんで……っ! なんで、おじさんまで優しいこと言うのっ……!?」
おじさんの笑顔が、あったかくて。胸の中のもやもやとした黒い固まりを溶かしていくようだった。いつも、優しくされることに引け目を感じていた。私は人に優しくされるほどできた人間ではないから。でも優しさって、真っ正面から受けとめれば、こんなにも暖かいんだ──。
そう気づいた時には、私の瞳からは涙が溢れ出していた。おじさんは慌てて私の涙をバケツに集めた。バケツはすぐにいっぱいになり、おじさんはとても満足気な顔だった。
「では早速、いただきます」
おじさんはぐいっとバケツを持ち上げ、豪快に喉を鳴らしはじめた。身なりに似合わないその飲みっぷりに、私は泣くのも忘れて目を丸くした。おじさんがバケツを置いた頃には中身がすっかり空になっていて、私はさらに驚いてしまった。
おじさんは優雅に白いハンカチで口元を拭って、また笑った。
「ほら、思ったとおりです」
その表情がやわらかくて、私は思わずつられて笑った。そうしたら、さっきまで感じていた悲しい気持ちは、嘘みたいに消えてなくなってしまっていた。
「では、私はそろそろおいとまいたしましょう。大変美味しゅうございました。ご馳走様でした」
「え、もう行っちゃ──」
もう行っちゃうの? と言い掛けた言葉が、ノックの音にかき消された。
「笹倉さん? 居るかな? 入るね」
この声は店長だ。どうしよう、せめて最後におじさんにお礼を言いたい。慌てて振り返ると、もうそこにおじさんの姿はなかった。
「あれ……?」
「笹倉さん? どした?」
扉を開けて中に入ってきた店長が首を傾げた。何も無い空間をぼんやり眺めていたから、店長の目にはさぞ私が不思議に見えただろう。私は慌てて店長に向き直り、平静を装った。
「いえ、何でもないんです」
「そう? 和田さんが心配してたから、僕も心配になっちゃって。落ち込んでない? 大丈夫?」
「はい……」
「怪我も大丈夫? ほら、重いもの持ったりするでしょ? この後の仕事大変そうなら、今日は無理せず早退する?」
店長はじっと私の人差し指を眺めた。私もつられて指を見て見る。絆創膏のガーゼにはもう血は滲んでいない。グーパーしてみると少し痛いけど、我慢できないほどじゃない。
以前だったら、その言葉さえ申し訳なくて受け取れなかったけど。
「お気遣いありがとうございます……。大丈夫です、頑張らせてください」
「そっか。無理はしないで、何かあったらすぐ言ってね」
「……はい!」
人の優しさに敏感な人は、誰よりも優しい人。そう言ってくれたのは、ちょっと変だけど、誰よりも優しい美食家のおじさんだった。
それにしても……優しい味って、一体どんな味だろう。そう考えて、優しいここの人たちが作る料理の味を思い出した。美味しくて、心がぽかぽかして、思わず笑みが零れるような。ああそっか。
きっと、こんな味だ。
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