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本編
第1話 ヤツとの邂逅
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「終わっ……たぁ~!」
伸びをしたら、凝り固まっていたらしい背骨が思い切りボキボキと鈍い音を立てた。今何時だろう。ハッとして時計を見る。……さんじ。外の明るさから考えるにたぶん、午後のほうの三時。締め切りまでまだ時間がある。こんなに余裕をもって原稿を終わらせることができたのは久しぶりかもしれない。
鈴木絢。二十八歳。職業……いちおう、漫画家。『絢本すず』というペンネームで、ウェブ漫画サイトでの連載一本をメインに、隔月発行の規模の小さな商業誌での読み切りをたまに描かせてもらって、何とかやっていっている。幼いころからの夢だったけど、食べていくにもぎりぎりの生活なので、胸を張って漫画家とは名乗れないのが悲しい。お金がない時は短期でバイトしてるし。
とりあえず、原稿があがったので一安心だ。今回は締め切りが重なってしんどかったけど、何とか終わった。二時間しか寝てないけど、何とか終わった! 忘れないうちにさっさと原稿データを送ってしまおう。カチカチとマウスの操作音を響かせて、担当さんにデータを送った。一仕事終えた達成感からか、寝てない割には頭がさえている(徹夜ハイなのかもしれないが)。あたりを見渡して、今自分が置かれている惨状に言葉を失った。
田舎の母が見たら、きっと泣く。ギリギリゴミ屋敷までとはいかなくても、この部屋は確実に、世間でいうところの『汚部屋』である。足の踏み場……は、かろうじてある。とぶようにして歩けばどうにか。机の周りには、放り出された仕事の資料と、食い散らかしたカップラーメンの器が山積みで、床下には菓子パンの袋が転がっている。
私というやつは、何でいつもこうなのだ。気を付けているつもりなのに! 漫画を描くことに集中してしまうと、それしか見えなくなってしまう。締め切りに追われて必死ということもあるけど、これはもう性分なんだと思う。衣食住環境をよく保つことなんて後回しになってしまって、漫画が最優先になってしまう。漫画を描いている間は、とにかく早く食べ終わるカップ麺か、片手でつまめる菓子パンか、いっそ何も食べないかで、その片付けも二の次で。服だって、このスウェット何日着てるかわかんないし。襟元を引っ張ってにおいを嗅ぐが、慣れてしまっていて臭いかどうかわからない。
……このままじゃ、まずい。女としてよくない。一刻も早く、この状況を何とかしないといけない。数時間後には次話の打ち合わせのため担当さんに会わないといけないし、よし決めた。まずは軽く掃除して、シャワーを浴びて、人間に戻ろう……。
まずはこの大量のごみをどうにかしないと、となんとか歩ける部分をバランスを保ちながらとぶようにして歩く。これまたとんでもないことになっているキッチンの流し上の棚からごみ袋を取り出し、部屋に戻る。床下に散らばるパンのごみを袋に入れ、机の周りのカップ麺の器にも手を伸ばして──固まった。
器の中で、黒くてカサカサとうごめく、ヤツの姿が。
「ぎゃあああああああ!! ゴッ、ゴキブリーーー!!!!」
私が叫んだからなのか何なのか、器の中のヤツは器用に器を這い、外へと飛び出した。
「いやああああああああああ!!!!」
わかってます、わかってますとも。こいつの発生源は間違いなく、私が溜めに溜め込んだごみのせいなんですけどね!? でも、これでも一応女の端くれなので、怖いもんは怖いんです! 間違いなく自業自得なんだけど!
ヤツは目的もなくカサカサを部屋を這いまわり、私の精神を削っていく。ひいい! ゴキジェット、どこ置いたっけ!?
涙目で家中を逃げ回っていると、のんきなチャイムの音が鳴り響いた。ああ──この鳴らし方は。
私はよたよたと玄関に向かい、相手を確認することもなく鍵を開けた。だって、相手はわかっている。
「どーもー」
案の定、そこには見慣れたボサボサ頭があって、私は安堵で涙腺が緩んだ。彼──ミカゲさんは、いつも細い目をさらに糸のようにしてにこりと笑った。
「ミ、ミカゲさん。仕事は」
「終わりましたよ~。ちょうど帰宅したら、あなたの悲鳴が聞こえて。原因は何ですか?」
「ゴ、ゴ、ゴキ……」
「あぁ、ゴキブリですね。今退治しますから」
そう言って彼は、何のためらいもなくのそりと家に上がった。さっきの間に、ヤツは隙間にでも入ってしまったのか、姿は見えない。ミカゲさんはその場で思い切り足を踏み鳴らし、隠れていたヤツを刺激した。
「ひい!」
思わず声をあげてしまう私に対して、ミカゲさんは何も動じず、その辺にあったフリーペーパーを丸めて、あっという間にヤツを退治した。鮮やかともいえる退治劇に思わず見とれてしまう。
「はい、終わりましたよ」
ヤツの死体をくるんだティッシュを、私がさっきまで使っていたゴミ袋に投げ入れてから、ミカゲさんは微笑んだ。ぼうっと立ち尽くしていた私のもとにゆっくりとやってきて、私の頭を手のひらで優しく包んだ。
「お仕事、終わったんですね。一人で掃除だなんて、偉い偉い」
子供をあやすかのように、優しい手つき。ミカゲさんはいつもこうやって、何かと私のことをほめてくれる。二十八にもなってこんなことをされるのはどうかとも思うが、ミカゲさんの手にこうされると、私はほんとうに、安心してしまう。……だけど。
「……ミカゲさん、それ、さっきゴキブリ触った手ですよね……」
「……」
「……ミカゲさん?」
「ティッシュ越しでしたけど、これは失敬」
わざとらしくパッと手を離したが、撫でくり回しといてもう遅いのではなかろうか。ミカゲさんは私の責めるような視線に気づかないふりをして、今度は反対の手で、私の顔に触れた。ヘアバンドで邪魔な前髪を全部上げていて、丸出しのおでこ。さっきのゴキブリとの邂逅によって変に汗をかいてしまっている。
「じゃあ、汗もかいたことですし、一緒にシャワーでも浴びましょうか?」
そう言って、ミカゲさんは私のべたついたおでこにちゅ、と唇を落とした。
「ミ、ミカゲさん」
「ん?」
お風呂もしばらく入っていないから、たぶん臭いと思いますけど! そう思って、ミカゲさんを制するつもりで肩に置いた手が、彼にはOKのサインに見えたらしい。おでこに落ちた唇が、瞼に、頬に、唇に。順に落ちていって、そのころには抵抗することなんてできなくなってしまっていた。うまいのだ、ミカゲさんのキスは。
ミカゲさんがそうしたがるから(というか、自分だけではあまり使わないからか)、比較的綺麗な我が家のお風呂場。そこでこの後行なわれるだろう情事に、すこし身体がうずいて。どうやらそれが彼に伝わってしまったらしく、彼はまた私をあやすように頭を撫でた。
* * *
「それでは、次話はその方向で行きましょう。ネームが出来たら送ってください」
何とか打ち合わせが終わり、担当の小宮さんが資料をまとめながらそう言った。小宮さんとの打ち合わせは、決まって家の近くのファミレスだ。一度だけ家に来てくれたことがあるのだが、潔癖の気がある彼女はうちの惨状を見て「二度と行きません」と宣言をしてくれたのだ。お恥ずかしい。
「ところで、ちゃんと寝て食べてますか? 絢本先生は、没頭すると自分のこと後回しにしますからね。掃除とか……」
「あ、あはは……」
ずいぶんと根に持たれている。事実だから何とも言えないので、笑ってごまかした。すると、彼女はつり目がちで猫のような目をじっとりとさせて、私の顔を凝視している。え、なんだ。ちゃんとシャワー浴びたけど、もしかしてまだ汚れている!?
「……の、割には、最近肌つやがいいですよね」
「え」
辛辣な彼女から、誉め言葉が出るとは思わなくて、私は固まった。自分ではそうは感じていなかったけど、そう、なのかな。もしそれが事実なのだとしたら、思い当たる節は一つしかないのだけれど。
「もしかして、彼氏でもできましたか」
「! できてないできてない!」
慌てて否定をする。だって、本当にそうなんだもの。
「何で慌てるんですか。怪しい……」
「本当に、そんなんじゃないですから……じゃ、次話もよろしくお願いします!」
私は小宮さんから逃げるようにして、お代を置いて店を出た。これ以上言及されるのは、ちょっと困る。だって、ミカゲさんと私の関係は、何とも説明しづらいし、他人には理解がしづらいと思うから。
付き合っている、わけではない。明確な言葉があったわけではないから。でも、キスはするしセックスはする。かといって、セフレ、という言葉には当てはまらない気もする。だって、フレンドじゃないもの。
ミカゲさん。それが上の名前なのか、下の名前なのかも知らない。言っていたのかもしれないけど、私が覚えていない。歳は確か、三十……七か八。うちの近くの大学の講師をしている。いつも頭はボサボサで、ひげも伸びていることが多い。目は細くて奥二重。笑うと糸みたいに目が細くなる。そして、人を甘やかすのがとても上手で、ついでにセックスもめちゃくちゃうまい。私が持っている彼の情報はこんなもので、彼もたぶん似たようなものだろう。
簡単に言えば、『お隣さん』。家が隣同士だったのが、いろいろあって彼に世話を焼かれるようになり、今に至る。
「アヤちゃん、おかえり」
家に帰ると、ミカゲさんがひょっこりと顔を出した。私を『アヤちゃん』と呼ぶのは彼だけだ。靴を脱いで、カバンをその場に置いて、家の中に入る。
「……おおお……」
私は思わず感嘆した。だって、足の踏み場がある。そして、溜まっていたごみがすべてなくなっている!
「アヤちゃん、何か食べてきちゃいました?」
「あ、はい。担当さんと」
「じゃあ、タッパーに入れておきますね。お夜食にでも食べてください」
嫌な顔一つせずに、作り終えた料理をタッパーに詰めるミカゲさん。……あ、洗い物とシンク掃除までしてくれている。ありがたいことこの上ない。
妙齢の女として、なんだかなあ、と思うことは多々ある。一度丁重にお断りをしたこともある。だけどミカゲさんはその申し出を受けてくれなかった。好きでやっているからいいんだ、と。
「この後もまた漫画描くんですか?」
「あ、いえ。ちょっと寝てないので、すこし仮眠を……」
言いながら、外着を脱いで下着姿で動き回る。あれ、脱いだスウェット……あ、洗ったんだった。ええと、乾いてるのかな、どこだろう。
「はしたないですよ」
さすがのミカゲさんにも怒られてしまって、私は苦笑した。その手にはしっかりとスウェットが握られている。
「あ、ありがとうございます……」
「僕も、先日まで研究していて少し眠いんです。一緒に寝ても?」
「……せんべいのほうが厚いですよ、うちの布団。万年床ですし」
「構いませんよ。今度の休みに干しますから」
果たしてそういう問題なのだろうか? という私の疑問は、口に出すこともなく。布団へと導くその手に体をゆだねる。先に布団に横になるミカゲさんの横で、洗ってある綺麗なスウェットに袖を通す。ふわり、とミカゲさんのにおいがする。……柔軟剤、切らしてたんだった。どうやらわざわざ自分の家から持ってきてくれたらしい。
「アヤちゃん、おいで」
彼が、腕を広げて布団で待つ。私はなんだかたまらない気持ちになって、とびかからん勢いでミカゲさんに抱き着く。ミカゲさんが添い寝してくれると、不思議とよく眠れる。ミカゲさんのちょっとかわいい心臓の音を聞いていると、いつの間にか眠ってしまっている。
顔をあげると、ミカゲさんのちょっと伸びたひげが見えた。思わずそれに触れると、いたずらっぽく指を食まれる。びっくりして手を引いた後、何をやってんだか、とだんだん笑えてきた。
「……ていうかミカゲさん、私のこと甘やかしすぎじゃないですか?」
「そうですか? 僕はあなたにもっと甘えてきてほしいですけどね。あなたは頑張り屋さんだから」
「……ミカゲさんって、あれみたいですよね、あれ」
「あれじゃわかりませんけど」
「ほら……あれですよ。『人をダメにするソファ』」
「せめて有機物がよかったです」
「ふふっ」
じゃあ、人をダメにするおじさんってことで。どちらからともなく唇を触れ合わせ、甘い吐息の中ではくはくと息をする。彼と知り合ってからというもの、私はどんどんダメになってしまっている。彼無しではいられなくなってしまうくらい、彼に身をゆだねて。その実ゆっくりと、身体をむしばまれているのだ。
伸びをしたら、凝り固まっていたらしい背骨が思い切りボキボキと鈍い音を立てた。今何時だろう。ハッとして時計を見る。……さんじ。外の明るさから考えるにたぶん、午後のほうの三時。締め切りまでまだ時間がある。こんなに余裕をもって原稿を終わらせることができたのは久しぶりかもしれない。
鈴木絢。二十八歳。職業……いちおう、漫画家。『絢本すず』というペンネームで、ウェブ漫画サイトでの連載一本をメインに、隔月発行の規模の小さな商業誌での読み切りをたまに描かせてもらって、何とかやっていっている。幼いころからの夢だったけど、食べていくにもぎりぎりの生活なので、胸を張って漫画家とは名乗れないのが悲しい。お金がない時は短期でバイトしてるし。
とりあえず、原稿があがったので一安心だ。今回は締め切りが重なってしんどかったけど、何とか終わった。二時間しか寝てないけど、何とか終わった! 忘れないうちにさっさと原稿データを送ってしまおう。カチカチとマウスの操作音を響かせて、担当さんにデータを送った。一仕事終えた達成感からか、寝てない割には頭がさえている(徹夜ハイなのかもしれないが)。あたりを見渡して、今自分が置かれている惨状に言葉を失った。
田舎の母が見たら、きっと泣く。ギリギリゴミ屋敷までとはいかなくても、この部屋は確実に、世間でいうところの『汚部屋』である。足の踏み場……は、かろうじてある。とぶようにして歩けばどうにか。机の周りには、放り出された仕事の資料と、食い散らかしたカップラーメンの器が山積みで、床下には菓子パンの袋が転がっている。
私というやつは、何でいつもこうなのだ。気を付けているつもりなのに! 漫画を描くことに集中してしまうと、それしか見えなくなってしまう。締め切りに追われて必死ということもあるけど、これはもう性分なんだと思う。衣食住環境をよく保つことなんて後回しになってしまって、漫画が最優先になってしまう。漫画を描いている間は、とにかく早く食べ終わるカップ麺か、片手でつまめる菓子パンか、いっそ何も食べないかで、その片付けも二の次で。服だって、このスウェット何日着てるかわかんないし。襟元を引っ張ってにおいを嗅ぐが、慣れてしまっていて臭いかどうかわからない。
……このままじゃ、まずい。女としてよくない。一刻も早く、この状況を何とかしないといけない。数時間後には次話の打ち合わせのため担当さんに会わないといけないし、よし決めた。まずは軽く掃除して、シャワーを浴びて、人間に戻ろう……。
まずはこの大量のごみをどうにかしないと、となんとか歩ける部分をバランスを保ちながらとぶようにして歩く。これまたとんでもないことになっているキッチンの流し上の棚からごみ袋を取り出し、部屋に戻る。床下に散らばるパンのごみを袋に入れ、机の周りのカップ麺の器にも手を伸ばして──固まった。
器の中で、黒くてカサカサとうごめく、ヤツの姿が。
「ぎゃあああああああ!! ゴッ、ゴキブリーーー!!!!」
私が叫んだからなのか何なのか、器の中のヤツは器用に器を這い、外へと飛び出した。
「いやああああああああああ!!!!」
わかってます、わかってますとも。こいつの発生源は間違いなく、私が溜めに溜め込んだごみのせいなんですけどね!? でも、これでも一応女の端くれなので、怖いもんは怖いんです! 間違いなく自業自得なんだけど!
ヤツは目的もなくカサカサを部屋を這いまわり、私の精神を削っていく。ひいい! ゴキジェット、どこ置いたっけ!?
涙目で家中を逃げ回っていると、のんきなチャイムの音が鳴り響いた。ああ──この鳴らし方は。
私はよたよたと玄関に向かい、相手を確認することもなく鍵を開けた。だって、相手はわかっている。
「どーもー」
案の定、そこには見慣れたボサボサ頭があって、私は安堵で涙腺が緩んだ。彼──ミカゲさんは、いつも細い目をさらに糸のようにしてにこりと笑った。
「ミ、ミカゲさん。仕事は」
「終わりましたよ~。ちょうど帰宅したら、あなたの悲鳴が聞こえて。原因は何ですか?」
「ゴ、ゴ、ゴキ……」
「あぁ、ゴキブリですね。今退治しますから」
そう言って彼は、何のためらいもなくのそりと家に上がった。さっきの間に、ヤツは隙間にでも入ってしまったのか、姿は見えない。ミカゲさんはその場で思い切り足を踏み鳴らし、隠れていたヤツを刺激した。
「ひい!」
思わず声をあげてしまう私に対して、ミカゲさんは何も動じず、その辺にあったフリーペーパーを丸めて、あっという間にヤツを退治した。鮮やかともいえる退治劇に思わず見とれてしまう。
「はい、終わりましたよ」
ヤツの死体をくるんだティッシュを、私がさっきまで使っていたゴミ袋に投げ入れてから、ミカゲさんは微笑んだ。ぼうっと立ち尽くしていた私のもとにゆっくりとやってきて、私の頭を手のひらで優しく包んだ。
「お仕事、終わったんですね。一人で掃除だなんて、偉い偉い」
子供をあやすかのように、優しい手つき。ミカゲさんはいつもこうやって、何かと私のことをほめてくれる。二十八にもなってこんなことをされるのはどうかとも思うが、ミカゲさんの手にこうされると、私はほんとうに、安心してしまう。……だけど。
「……ミカゲさん、それ、さっきゴキブリ触った手ですよね……」
「……」
「……ミカゲさん?」
「ティッシュ越しでしたけど、これは失敬」
わざとらしくパッと手を離したが、撫でくり回しといてもう遅いのではなかろうか。ミカゲさんは私の責めるような視線に気づかないふりをして、今度は反対の手で、私の顔に触れた。ヘアバンドで邪魔な前髪を全部上げていて、丸出しのおでこ。さっきのゴキブリとの邂逅によって変に汗をかいてしまっている。
「じゃあ、汗もかいたことですし、一緒にシャワーでも浴びましょうか?」
そう言って、ミカゲさんは私のべたついたおでこにちゅ、と唇を落とした。
「ミ、ミカゲさん」
「ん?」
お風呂もしばらく入っていないから、たぶん臭いと思いますけど! そう思って、ミカゲさんを制するつもりで肩に置いた手が、彼にはOKのサインに見えたらしい。おでこに落ちた唇が、瞼に、頬に、唇に。順に落ちていって、そのころには抵抗することなんてできなくなってしまっていた。うまいのだ、ミカゲさんのキスは。
ミカゲさんがそうしたがるから(というか、自分だけではあまり使わないからか)、比較的綺麗な我が家のお風呂場。そこでこの後行なわれるだろう情事に、すこし身体がうずいて。どうやらそれが彼に伝わってしまったらしく、彼はまた私をあやすように頭を撫でた。
* * *
「それでは、次話はその方向で行きましょう。ネームが出来たら送ってください」
何とか打ち合わせが終わり、担当の小宮さんが資料をまとめながらそう言った。小宮さんとの打ち合わせは、決まって家の近くのファミレスだ。一度だけ家に来てくれたことがあるのだが、潔癖の気がある彼女はうちの惨状を見て「二度と行きません」と宣言をしてくれたのだ。お恥ずかしい。
「ところで、ちゃんと寝て食べてますか? 絢本先生は、没頭すると自分のこと後回しにしますからね。掃除とか……」
「あ、あはは……」
ずいぶんと根に持たれている。事実だから何とも言えないので、笑ってごまかした。すると、彼女はつり目がちで猫のような目をじっとりとさせて、私の顔を凝視している。え、なんだ。ちゃんとシャワー浴びたけど、もしかしてまだ汚れている!?
「……の、割には、最近肌つやがいいですよね」
「え」
辛辣な彼女から、誉め言葉が出るとは思わなくて、私は固まった。自分ではそうは感じていなかったけど、そう、なのかな。もしそれが事実なのだとしたら、思い当たる節は一つしかないのだけれど。
「もしかして、彼氏でもできましたか」
「! できてないできてない!」
慌てて否定をする。だって、本当にそうなんだもの。
「何で慌てるんですか。怪しい……」
「本当に、そんなんじゃないですから……じゃ、次話もよろしくお願いします!」
私は小宮さんから逃げるようにして、お代を置いて店を出た。これ以上言及されるのは、ちょっと困る。だって、ミカゲさんと私の関係は、何とも説明しづらいし、他人には理解がしづらいと思うから。
付き合っている、わけではない。明確な言葉があったわけではないから。でも、キスはするしセックスはする。かといって、セフレ、という言葉には当てはまらない気もする。だって、フレンドじゃないもの。
ミカゲさん。それが上の名前なのか、下の名前なのかも知らない。言っていたのかもしれないけど、私が覚えていない。歳は確か、三十……七か八。うちの近くの大学の講師をしている。いつも頭はボサボサで、ひげも伸びていることが多い。目は細くて奥二重。笑うと糸みたいに目が細くなる。そして、人を甘やかすのがとても上手で、ついでにセックスもめちゃくちゃうまい。私が持っている彼の情報はこんなもので、彼もたぶん似たようなものだろう。
簡単に言えば、『お隣さん』。家が隣同士だったのが、いろいろあって彼に世話を焼かれるようになり、今に至る。
「アヤちゃん、おかえり」
家に帰ると、ミカゲさんがひょっこりと顔を出した。私を『アヤちゃん』と呼ぶのは彼だけだ。靴を脱いで、カバンをその場に置いて、家の中に入る。
「……おおお……」
私は思わず感嘆した。だって、足の踏み場がある。そして、溜まっていたごみがすべてなくなっている!
「アヤちゃん、何か食べてきちゃいました?」
「あ、はい。担当さんと」
「じゃあ、タッパーに入れておきますね。お夜食にでも食べてください」
嫌な顔一つせずに、作り終えた料理をタッパーに詰めるミカゲさん。……あ、洗い物とシンク掃除までしてくれている。ありがたいことこの上ない。
妙齢の女として、なんだかなあ、と思うことは多々ある。一度丁重にお断りをしたこともある。だけどミカゲさんはその申し出を受けてくれなかった。好きでやっているからいいんだ、と。
「この後もまた漫画描くんですか?」
「あ、いえ。ちょっと寝てないので、すこし仮眠を……」
言いながら、外着を脱いで下着姿で動き回る。あれ、脱いだスウェット……あ、洗ったんだった。ええと、乾いてるのかな、どこだろう。
「はしたないですよ」
さすがのミカゲさんにも怒られてしまって、私は苦笑した。その手にはしっかりとスウェットが握られている。
「あ、ありがとうございます……」
「僕も、先日まで研究していて少し眠いんです。一緒に寝ても?」
「……せんべいのほうが厚いですよ、うちの布団。万年床ですし」
「構いませんよ。今度の休みに干しますから」
果たしてそういう問題なのだろうか? という私の疑問は、口に出すこともなく。布団へと導くその手に体をゆだねる。先に布団に横になるミカゲさんの横で、洗ってある綺麗なスウェットに袖を通す。ふわり、とミカゲさんのにおいがする。……柔軟剤、切らしてたんだった。どうやらわざわざ自分の家から持ってきてくれたらしい。
「アヤちゃん、おいで」
彼が、腕を広げて布団で待つ。私はなんだかたまらない気持ちになって、とびかからん勢いでミカゲさんに抱き着く。ミカゲさんが添い寝してくれると、不思議とよく眠れる。ミカゲさんのちょっとかわいい心臓の音を聞いていると、いつの間にか眠ってしまっている。
顔をあげると、ミカゲさんのちょっと伸びたひげが見えた。思わずそれに触れると、いたずらっぽく指を食まれる。びっくりして手を引いた後、何をやってんだか、とだんだん笑えてきた。
「……ていうかミカゲさん、私のこと甘やかしすぎじゃないですか?」
「そうですか? 僕はあなたにもっと甘えてきてほしいですけどね。あなたは頑張り屋さんだから」
「……ミカゲさんって、あれみたいですよね、あれ」
「あれじゃわかりませんけど」
「ほら……あれですよ。『人をダメにするソファ』」
「せめて有機物がよかったです」
「ふふっ」
じゃあ、人をダメにするおじさんってことで。どちらからともなく唇を触れ合わせ、甘い吐息の中ではくはくと息をする。彼と知り合ってからというもの、私はどんどんダメになってしまっている。彼無しではいられなくなってしまうくらい、彼に身をゆだねて。その実ゆっくりと、身体をむしばまれているのだ。
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