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04 逃げ出さない
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じいちゃんが呆けてしまったって話を、俺は母ちゃんから聞いた。
「私のことも、“誰だお前は”だなんて怒鳴るのよ。やんなっちゃう」
介護疲れのちょっとした愚痴だったんだろうけど、その話を聞いて俺は、うわって思ったんだ。まじか、じいちゃんって。ただそれだけ。そん時は、それだけだった。思えば、その頃に早く顔を出せば良かったんだと思う。そん時はまだまともでいる時間の方が多くて、母ちゃんも笑っていられた。俺も笑って聞いていた。
痴呆が進むにつれ、じいちゃんは癇癪を起こすようになった、らしい。気に食わないことがあるとすぐ怒って、物を投げたりなんだりして暴れた、らしい。正常でいられる時間も徐々に減って、同時に内臓も弱ってきてしまって、とうとう入院させた、らしい。
全部、母ちゃんから聞いた話だ。俺は直接見てもないし聞いてもない。母ちゃんから愚痴を聞くことはなくなった。ただたんたんと、現状を報告された。きっと母ちゃんは、遠回しに俺にお見舞いに来いと言いたかったんだと思う。でも俺は、自らお見舞いに行く気にはなれなかった。
いや、嘘だ。本当は、病室の扉の前まで行ったんだ。入ろうかどうか迷っている時に、花瓶か何かの割れる音と、ばあちゃんの慌てたような声がして、足がすくんだ。入っていく勇気はなかった。俺は、怖くなって、その場から逃げたのだ。そんなことがあって、しばらく。じいちゃんの命は、もってあと一週間、らしい。
* * *
母ちゃんからそう言われてから、もう3日が経っていた。3日目ともなると、この公園にも見飽きてくる。自宅から病院までの道にある、小さな公園。お見舞いに行こうと家を出るけど、結局こうして公園のブランコにぼーっと座って、空が赤くなるのを見届けて、家に帰る。なにやってんだろうな、とは思う。ちょっと身体を揺らすと、キィ、と鎖が音を立てた。
ビビリなのは百も承知だ。どうしても、あの花瓶が割れる音とばあちゃんの声が頭に残って、足が止まってしまう。
「……だっせぇな、俺」
自分がこんなにビビリだとは思わなかった。行かなきゃって気持ちが育てば育つほど、ブレーキを踏む力も強くなって。キィ、キィ、鎖が軋む音。こんな俺を、笑うようにも聞こえる。
「お兄さん! どうしたんですかぁ?」
不意に、底抜けに明るい声が聞こえて、俺は勢い良く顔を上げた。そこには、何やらちんちくりんな子供が立っていて、ブランコに座る俺を見下ろしている。変な格好をしている子供だ。外国人だろうか、栗色の髪はふわふわしていて、俺を見つめる瞳も金色だ。変な格好って言ったのは、なんとなくコスプレっぽい格好をしていたから。丸襟の白いシャツに緑色のベストを着ている。ズボンはスネあたりの長さの茶色いサルエルパンツ。サスペンダーが着いているが、それは肩にはかけずぶらぶらとさせていた。頭には拳くらいの大きさの、ベストと同じ色のシルクハットをかぶって(乗せて、という表現のほうが正しい気がする)、靴はつま先がくるんと丸まっている実に歩きづらそうな靴を履いている。
謎の子供は、俺の顔を見るなり、「うわぁ! 大変です!」と慌てた様子で言った。何が大変なのかさっぱり分からないでいると、突然俺の腕をとってぐいと引っ張った。バランスを崩しかけて転びそうになったが、脚で踏ん張って耐える。
「いきなり何だよ!?」
「説明はあとです! お兄さん、とにかく僕についてきてくださいよぅ! じゃないと大変です!」
「何が大変なんだよ!?」
「ええと、ええと……とにかく大変なんですよぅ!」
話にならない。どうしようかと思っていると、さっきより強い力で引っ張られた。
「すぐ済みますからっ!」
「えっ、ちょっと……」
めんどくさい子供に捕まってしまったかもしれない。少し付き合って、早いとこ解放してもらったほうが得策かもしれないな……。抵抗するのをやめて、子供に引っ張られるまま駆けていく。走って、走って路地を抜けて、少し寂れたビルの裏口らしきところに到着した。……怪しい!
「やっぱり俺帰……」
「シーザさんシーザさんシーザさぁん!」
最後の抵抗も虚しく、ガチャリと扉が開かれると──
「……!?」
寂れたビルに似つかわしくない、西洋風の部屋が目に入った。驚いたのはそこだけじゃない。天井に届きそうな勢いの棚が、壁一面にあって。そこには、たくさんの空の小瓶が並んでいた。
「コロット! 騒がしいじゃないか」
声とともに、奥のカウンターから人影が現れた。線が細く、茶髪に眼鏡の男の人だ。白いシャツの上から子供と同じベストを着ている。コロットと呼ばれた少年は、怒られたことをちっとも気にしていない様子で、俺を指差しながら言った。
「私のことも、“誰だお前は”だなんて怒鳴るのよ。やんなっちゃう」
介護疲れのちょっとした愚痴だったんだろうけど、その話を聞いて俺は、うわって思ったんだ。まじか、じいちゃんって。ただそれだけ。そん時は、それだけだった。思えば、その頃に早く顔を出せば良かったんだと思う。そん時はまだまともでいる時間の方が多くて、母ちゃんも笑っていられた。俺も笑って聞いていた。
痴呆が進むにつれ、じいちゃんは癇癪を起こすようになった、らしい。気に食わないことがあるとすぐ怒って、物を投げたりなんだりして暴れた、らしい。正常でいられる時間も徐々に減って、同時に内臓も弱ってきてしまって、とうとう入院させた、らしい。
全部、母ちゃんから聞いた話だ。俺は直接見てもないし聞いてもない。母ちゃんから愚痴を聞くことはなくなった。ただたんたんと、現状を報告された。きっと母ちゃんは、遠回しに俺にお見舞いに来いと言いたかったんだと思う。でも俺は、自らお見舞いに行く気にはなれなかった。
いや、嘘だ。本当は、病室の扉の前まで行ったんだ。入ろうかどうか迷っている時に、花瓶か何かの割れる音と、ばあちゃんの慌てたような声がして、足がすくんだ。入っていく勇気はなかった。俺は、怖くなって、その場から逃げたのだ。そんなことがあって、しばらく。じいちゃんの命は、もってあと一週間、らしい。
* * *
母ちゃんからそう言われてから、もう3日が経っていた。3日目ともなると、この公園にも見飽きてくる。自宅から病院までの道にある、小さな公園。お見舞いに行こうと家を出るけど、結局こうして公園のブランコにぼーっと座って、空が赤くなるのを見届けて、家に帰る。なにやってんだろうな、とは思う。ちょっと身体を揺らすと、キィ、と鎖が音を立てた。
ビビリなのは百も承知だ。どうしても、あの花瓶が割れる音とばあちゃんの声が頭に残って、足が止まってしまう。
「……だっせぇな、俺」
自分がこんなにビビリだとは思わなかった。行かなきゃって気持ちが育てば育つほど、ブレーキを踏む力も強くなって。キィ、キィ、鎖が軋む音。こんな俺を、笑うようにも聞こえる。
「お兄さん! どうしたんですかぁ?」
不意に、底抜けに明るい声が聞こえて、俺は勢い良く顔を上げた。そこには、何やらちんちくりんな子供が立っていて、ブランコに座る俺を見下ろしている。変な格好をしている子供だ。外国人だろうか、栗色の髪はふわふわしていて、俺を見つめる瞳も金色だ。変な格好って言ったのは、なんとなくコスプレっぽい格好をしていたから。丸襟の白いシャツに緑色のベストを着ている。ズボンはスネあたりの長さの茶色いサルエルパンツ。サスペンダーが着いているが、それは肩にはかけずぶらぶらとさせていた。頭には拳くらいの大きさの、ベストと同じ色のシルクハットをかぶって(乗せて、という表現のほうが正しい気がする)、靴はつま先がくるんと丸まっている実に歩きづらそうな靴を履いている。
謎の子供は、俺の顔を見るなり、「うわぁ! 大変です!」と慌てた様子で言った。何が大変なのかさっぱり分からないでいると、突然俺の腕をとってぐいと引っ張った。バランスを崩しかけて転びそうになったが、脚で踏ん張って耐える。
「いきなり何だよ!?」
「説明はあとです! お兄さん、とにかく僕についてきてくださいよぅ! じゃないと大変です!」
「何が大変なんだよ!?」
「ええと、ええと……とにかく大変なんですよぅ!」
話にならない。どうしようかと思っていると、さっきより強い力で引っ張られた。
「すぐ済みますからっ!」
「えっ、ちょっと……」
めんどくさい子供に捕まってしまったかもしれない。少し付き合って、早いとこ解放してもらったほうが得策かもしれないな……。抵抗するのをやめて、子供に引っ張られるまま駆けていく。走って、走って路地を抜けて、少し寂れたビルの裏口らしきところに到着した。……怪しい!
「やっぱり俺帰……」
「シーザさんシーザさんシーザさぁん!」
最後の抵抗も虚しく、ガチャリと扉が開かれると──
「……!?」
寂れたビルに似つかわしくない、西洋風の部屋が目に入った。驚いたのはそこだけじゃない。天井に届きそうな勢いの棚が、壁一面にあって。そこには、たくさんの空の小瓶が並んでいた。
「コロット! 騒がしいじゃないか」
声とともに、奥のカウンターから人影が現れた。線が細く、茶髪に眼鏡の男の人だ。白いシャツの上から子供と同じベストを着ている。コロットと呼ばれた少年は、怒られたことをちっとも気にしていない様子で、俺を指差しながら言った。
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