猫のハルタと犬のタロウ

小池 月

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春人とハル

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<春人とハル>
 虎太郎君が学校に来なかった。午前中に担任の先生が交通事故で病院に運ばれたと皆に伝えた。悲鳴を上げそうになった。口を必死で押さえた。
 タロがまた死んでしまう。恐怖に身体が震えた。
すぐに雅樹が気づく。
「大丈夫だ。先生が言ったこと聞いたか? 軽傷だって。念のため検査してるくらいだ」
「だけど、もしタロが帰ってこなかったら……」
「大丈夫だ。井川は人間だ。犬のタロじゃない」
そう言われても心が芯から震えている。いつも小さくなって泣いているハルが悲鳴を上げている。切り離して考えるなんて無理だ。だって僕はやっぱりハルだから。
「僕、僕、早退する」
怖くて足が震える。タロの無事を確認しなくちゃ。今の僕は玄関を開けられない猫じゃない。自分の足で向かうことが出来る。
「ハルト、落ち着け。お前は、ハルトなんだ。ハルトは井川の友達か?」
ズキリと心が痛む。多分ちょっと避けられている。友達とゆう距離じゃない。
「事故して、本人も家族も大変な時に全然関係ないお前が行ってどうする? 受け入れられると思うか?」
真実を述べられて返事も出来ない。ただ無事なのを見たいんだ。だけど虎太郎君に見つかって「何しているんだ?」って言われたらどうしたらいいんだろう。雅樹の言う通りだ。うなだれて自分の席に座る。僕はもう恋人でも友達でもない。虎太郎君にとって有象無象のひとりだ。
「そうだね。早退、やめるよ」
久しぶりの涙をこらえる感覚。泣き叫ぶハルに「ゴメン」と謝る。心が押しつぶされそうだった。


 事故から二日目に、やっと虎太郎君を見られた。見た感じ怪我はない。軽傷だと聞いた。良かった。生きている。本当に良かった。顔色は悪いけれど、事故後の頭痛とか言っていた。登校してすぐに保健室に行ってしまう。僕が様子見に言ったら変かな。雅樹には、ちょっと言えない。心が痛むけれどトイレだと言って抜けよう。雅樹にトイレと職員室に行ってくると伝える。一緒に行くかと言われたけれど断る。自然に独りになれたと思う。雅樹をだますみたいでドキドキした。だけど、どうしてもタロが大丈夫か確認したい。

 保健室にそっと入る。保健室の先生は不在だった。ベッド使用は一つだけ。多分タロだ。緊張して声が震えた。
「あの、大丈夫、かな?」
カーテンを開ける勇気がない。返事がなければ、そっと覗いて帰ろうと思っていた。いきなりカーテンが開いた。カーテンの中に引き寄せられて抱きしめられる。心が喜びで満たされる。タロが僕を抱き締めている。ハルの魂がタロに飛びついている。虎太郎君が泣いている。そっとカーテンを閉めた。
 タロウだ。タロの記憶が戻ったんだ。すぐにわかった。虎太郎君の心の中に大好きなタロが見える。嬉しくて涙が流れた。僕を抱き締めてキスをする虎太郎君。口の中に深くまで入り込む。まるで犬のタロだ。タロの大きな厚い舌を思い出してクスリと笑ってしまった。目を合わせて虎太郎君も笑う。タロがいる。幸福感で他の何も見えていなかった。

 雅樹の冷たい声で、はっと現実に戻った。
 お前はハルトだと言われ否定できない自分がいる。タロともっと一緒に居たい。でも雅樹の優しさにたくさん支えられて、雅樹といることに安心している自分もいる。この時、初めて雅樹が手をつなぐ以上の事をした。タロが包み込んでいた頬にキスをした。混乱する気持ちのまま僕とタロは白いカーテンで遮られた。


 次の日から変化が起きた。驚いた。
「おはよう、ハル」
虎太郎君が僕に声をかける。
「お、おはよう」
輝く笑顔に心がときめいた。ぼくに話しかけている。虎太郎君が寄り添うように近くに立つ。保健室で抱き締められた時にも思ったけれど大きい。二十センチ違うんじゃないか、コレ。タロも大きかったからな。ふふっと笑いが漏れる。
「良い事でもあった?」
優しく声をかけられると顔が赤くなってしまう。僕を見る温かい目。今すぐにでも抱きつきたい、と僕の中のハルが騒ぐ。
「俺もいるけど。おはよう、井川」
雅樹が不機嫌だ。心配する僕に構わず虎太郎君が雅樹に話しかける。
「おはよう、雅樹。俺、お前らとちゃんと仲良くなろうと思ってさ。ある意味秘密を共有する仲間だろ? 雅樹って呼んでいいよな?」
度肝を抜かれた。堂々と仲良くしようと言われている。嬉しくて即答していた。
「もちろん! もちろんだよ!」
「チッ。そう来たか。やられたな」
雅樹は不機嫌だけど僕は嬉しい。何であれ、これまでより近くに居られる。小さな希望が見えた気がした。
「ハルトは、もうハルでいいよね。俺はタロでいいよ」
「タロって呼んで、いいの?」
「ハルだけね。ぜひ、そう呼んで。雅樹は井川でも虎太郎でも」
タロが優しい。嬉しい。僕のタロ。満たされる思いに心が震えた。
「俺は井川のままでいいわ。釘刺すけど、ハルトは俺のだからな」
小声で二人が話をしている。
「分かっているよ。まず、ちゃんと人としてのハルや雅樹と分かりあっていきたいと思ったんだ。それに先の事は分からないしね」
 二人が話しているのを見て僕はすごく嬉しかった。雅樹も大切な存在だ。タロは特別な存在。どちらかを切り捨てなくていいかもしれない。ズルいと思うけれど、ちょっとほっとした。

 学校ではいつも三人で居るようになった。僕は出来るだけタロを虎太郎君と呼ぶ。二人の時にそっと「タロ」と呼ぶ。だって他の人が「タロ」と呼び始めたら嫌だから。僕の中のハルが僕と同じ気持ちになっている。毎日小さなハルに謝っていて苦しかったけれど、ふと心が楽になった。やっぱり僕はハルだし春人でもある。雅樹には申し訳ないけれどタロが僕を見るだけで、傍に居るだけで絶対の安心感がある。当然だよ、と猫のハルが応える。雅樹は日々イライラしているけれど必死で抑えているのがわかった。


 休日は三人で誰かの家に集まって受験勉強。問題集を解いていて分かった。虎太郎君も雅樹もメチャメチャ頭がいい。僕は二人についていけなくて、ゆっくり自分のペースでやる。雅樹は頬にキス以上をしない。僕の心が揺らいでいるのを見透かされているよう。雅樹のまっすぐな目が見られない時がある。
虎太郎君とは色々話した。雅樹が僕と虎太郎君二人だけになるな、と言うから三人の時にお互いの話をする。
転勤族の父について転校が多い事。大学からは一人暮らしするから転校が無くなるのは嬉しいらしい。タロの記憶は、交通事故の時に戻っていた。それに虎太郎君は小学校の頃、ある転校先で「太郎」と呼ばれていじめられていたと言った。僕が「タロ」と呼んでしまい、その頃の知り合いかと警戒されたことも知った。神谷さんとは別れたことも聞いた。
「好きで付き合ったんじゃないの?」
「そうじゃないんだ。転校を繰り返すと、ここでどう過ごすか、最適は何かを考えるようになる。そのために短期間の彼女を作る方が良い事もあるんだ。相手も打算のありそうな子を選ぶようにしてる。付き合うって言っても俺の場合表面的なモノだよ」
だけどキスしていたくせに。心がズキンと痛んだ。
「井川、神谷とキスしてたじゃん。好きじゃなくても出来るんだ」
雅樹がずばりと聞く。さすが、雅樹。
「え? 見ていたの? ハルも?」
下を見てコクリと頷く。
「ちょっと、試しに、ね」
虎太郎君が困った顔で返答する。あの時の場面を思い出すと苦しい思いが蘇る。心がザワザワ騒ぐ。
「へぇ。試しにキスできるなんて井川のキスは軽いな」
「……もうしないよ。あの頃はタロの記憶がなかったから、自分の気持ちも分からなかった」
「そうか。じゃ、急にタロの記憶が無くなったら、またハルトを邪険にして適当なキスを繰り返すんだろうな」
雅樹の言葉に心臓が悲鳴を上げた。虎太郎君が、また記憶をなくすかも? タロじゃなくなるかも? 途端に恐怖に震える。虎太郎君を見る。人間の虎太郎君は僕に興味のない人だ。今はタロの記憶に惑わされているだけ? 薄っすら感じていた不安の正体が見えた気がした。
「もう、忘れない」
雅樹を正面から見ている虎太郎君。タロが凛と立ち向かっている姿が見える。でも待つことに疲れたハルは僕の中で震えている。タロがまた忘れたら、きっともう耐えられない。呼吸が苦しくなる。
「……僕、帰る」
身体の震えが止まらず荷物をまとめる。二人が送ると言ったけれど全部断った。嫌だった。今は二人ともが嫌だった。沢山のゴメンを聞いた気がする。全てが頭に残らず自分の部屋に閉じこもる。
 独りで震えるハルに伝える。僕がいるよ。タロが忘れてもハルである春人は、ずっと傍にいる。泣かないで。
 ハルを不安にさせる虎太郎君が嫌だ。不安を煽る雅樹が嫌だ。今は、会いたくない。


 学校を三日休んだ。頭痛がして起きられないと親に言った。三年になり調子を悪くすることもあったから、しばらく休んでいいと言われた。心配かけていると思った。三日間、食事が喉を通らなかった。久しぶりのゼリー飲料。それも気持ち悪くて嘔吐してしまっていた。雅樹と虎太郎君のお見舞いも全て断った。ケータイは電源を落としたまま。布団の中で猫のハルのように丸くなる。このまま永遠に眠ってしまいたい。

 翌日すっきりと目覚めた。やけにお腹が空いている。
「おはよ。すっごいお腹空いてる。朝ごはん何?」
リビングに行き母に声をかけると驚かれる。
「春人、あなた食べられそうなの? 調子、大丈夫?」
「うん。良いみたい」
朝ごはんを食べながら考える。なんで調子悪くしていたんだっけ? 受験ストレスかな?
 「行ってきます」
三日も休んだし今日は学校に行く。何に悩んでいたのか、どうしても思い出せない。まぁいいかと学校に向かう。
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