猫のハルタと犬のタロウ

小池 月

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タロの記憶

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<タロの記憶>
 茶色の愛らしいハル。甘えて身体をすり寄せてくる。俺の背中に乗って寝る。温かいハル。全信頼を寄せてくるハル。鳴き声の可愛いハル。大好きで守りたいハル。
 散歩に行くときに寂しい寂しいと拗ねるから、本当は外を沢山歩きたいけれど早めに帰る。玄関でふて寝しているかな、耳を垂らして、小さな鳴き声を上げているかな、考え出すと心配になってしまう。ご主人に「帰ろうよ」とアピールする。玄関を開けると飛び起きて金に輝く瞳で甘えてくるハル。
 幸せな日々だった。

 気が付いたら死んでいた。死んだのは分かっている。意識だけがふわふわ漂っていた。そうだハルは? 急いでマンションに向かう。壁もすり抜けて、あっという間にハルの傍にいた。ハルは玄関で泣き叫んでいた。
タロ、タロ! 叫びながら鉄のドアを引っ掻いている。あぁ、ダメだよ、血が出ている。大切な爪が割れている。ハル、俺はここにいるから大丈夫。話しかけてすり寄って舐めようとしても全てすり抜ける。なんでだよ!? こんなにハルが呼んでいるのに触れることもできない。声も届かない。悲しくて涙が溢れる。ハル、ごめんね。寂しい思いをさせて、ごめん。

 ハルをただ見守っていた。玄関にハルの慟哭が響いていた。心が締め付けられる声だった。
ハルがぐったりして動かない。どうしよう! 誰か助けて! 遠吠えをしても、外の人を連れてこようとしても俺の声は誰にも届かない。悔しくて、苦しくて、何もできずハルの傍で一緒にうずくまった。ハル、ごめん。ハル、傍にいるから。届かない声を必死に繰り返した。
 玄関が開き知らない大人がハルを連れていく。雑な扱いに頭にくる。何するんだ! ちょっと待て! 必死で吠えまくるが、音にならない。ハルから離れず移動する。ケージを覗く。ハル、生きている。良かった。早く助けろよ! 八つ当たりのように人間にイラついた。
ハルは移動用のケージで数日過ごした。届かなくても、ずっと語り掛けた。ずっと謝った。帰れなくてごめん。死んじゃって、ごめん。
 ハルが他の猫と同じ部屋に出た。他の猫との共同生活なんて大丈夫かな。心配で仕方ない。すぐに不安が的中する。犬と交尾したと噛まれるハル。身体を震わせて逃げるハル。「何するんだ! このチビども! 食い散らしてやる!」ハルを嬲る猫たちを蹴散らそうとしてもすり抜ける。ハルに覆いかぶさっても守ってあげられない。血だらけのハルをただ見ているだけ。泣き叫んでも、「もう、やめてくれ」と吠えても音にもならない。何もできない苦しさに、血だらけのハルの姿に、気が狂いそうだった。

 一か月。何もできず衰弱するハルを見つめていた。届かなくても声をかけて触れることが出来なくても寄り添った。ハル、苦しい思いをさせてゴメン。俺が愛してしまってゴメン。先に死んでゴメン。沢山謝った。こんなボロボロになっても、ずっとハルは俺を呼んでいた。か細い声で「タロ……」と口にする。返事が出来ない辛さ。守ってあげられない悲しさ。
「もう、俺の事は忘れていいよ」
そっとハルに話しかけていた。
 ハルは眠るように死んだ。最期の小さな吐息。「タロ……」と消え入る一言と共にハルの全てが止まった。身体から薄く光るハルの魂が昇る。その光を包み込み一緒に天に昇る。ハルの意識は閉ざされたままだった。その綺麗な魂に「もう、休んでいいよ。辛いことは全部忘れていいよ」と伝える。生まれ変わったらハルに幸福な人生を与えてください、と神様に祈った。


<虎太郎>
 救急外来で処置を受け帰宅した。ハルに会いたかった。俺が転校した日、春人は俺の事を「タロ」と呼んだ。きっとハルの記憶がある。なんで俺は忘れていたのか。すぐに気づいてあげられなかったのか。春人、急に痩せて体調悪い日が続いた。俺のせいだったんだ。俺は、またハルを苦しめていたのか。泣いても泣いても涙が溢れた。

 翌日は誰よりも早く学校に行った。ハルに会いたかった。抱き締めたかった。声を聞きたかった。誰もいない教室でハルの席に座る。ハルの机を撫でる。
「お前、そこで何してんだよ?」
教室入口から雅樹が入ってくる。こいつ、いつもこんなに早く来るのか。胸が高鳴る。
「ハルは?」
一緒じゃないのか? 後ろを見て雅樹一人な事にガッカリする。
「ハル? まさか、井川、タロの記憶でも戻ったか?」
心底驚いた。雅樹がタロの事を知っている。
「なんで、タロのこと……。ハルに聞いたのか? やっぱり、春人はハルの記憶があるのか?」
知りたくて矢継ぎ早に質問してしまう。
「井川、お前、苦しむハルトを助けなかったじゃないか。猫のハルなら助けたのかよ。ハルトに失礼だ。今は、もうハルトは人間のハルトなんだよ。お前も神谷と仲良くやってんじゃねーか。せっかくハルトは前世の枷から抜け出そうとしてんだ。ハルトとして生きようとしてる。今更、自分の記憶が戻りました仲良くしましょう、なんて都合よすぎんだよ。お前はハルトに近づくな」
強い視線。あまりの衝撃に言葉も返せず雅樹から目を背ける。その通りだ。苦しくて悔しくて情けなくて、そのまま教室を飛び出した。朝来た道を家に戻る。頭痛がするからやっぱり休む、と親に言い部屋にこもる。
 一日ゆっくり考えた。俺は、もうハルに関わらないほうが良いのか。タロの気持ちは、溢れるような思いは届かないのか。触れることも声も届かず、うなだれるタロの姿が浮かぶ。タロが訴える。

「ハルを守りたいよ。何より大切なんだ」

その深い思いをどうすればいいのか分からない。タロ、ハル、ごめん。俺のせいで拗れてしまった。本当にゴメン。

辛い苦しい涙がこぼれた。

 翌日は学校に行った。ハルに声をかけていいのか分からないままだったが、とにかくハルを見たかった。
 ハルが教室に入ってくる。茶色のふわりとする髪が輝いている。記憶が戻ってから、初めて見る春人。あぁ、生きている。ボロボロになって死んでいったハルの姿が浮かび、春人が元気なことに歓喜の涙がにじむ。口元を手で隠し涙が落ちないように堪えた。
転校した日に俺を見て泣いていた春人を思い出す。そりゃ泣くよな。その時、俺はどうしただろう? 関わらないようにしようと冷たく距離を置かなかったか? 今、俺がハルにそうされたらどうだろう。張り裂けそうな胸の痛みと苦しさにそっと席を立つ。
 雅樹の視線を感じた。いつもながら俺と春人の間に上手く陣取る。でも以前のようなイラつきは生じない。今はその目線に背を向けたい。雅樹の刺すような強い目線から逃げるようにトイレに向かった。

 気分が悪い、と保健室で横になる。実際寝不足で頭痛がした。きっとハルは日々こんな思いを抱えていたんだろう。自分のバカさに呼吸が詰まりそうになる。

 「あの、大丈夫、かな?」
カーテンの外から控えめの声。はっと飛び起きる。カーテンを開ける。ハルが一人で立っている。ハルタだ。ハル。不安そうな顔。たまらず抱きしめていた。俺のハル。会いたかった。触りたかった。無言で流れる涙。
「……ハル、ごめん。ごめん」
泣いている俺に気づき、すぐにカーテンを閉める春人。
「……タロ?」
弱く震える声。不安にさせてごめん。
「うん。ハルタ、ハル会えて嬉しい」
茶色の瞳が俺を映す。涙が溢れてキラキラ輝く。柔らかい茶色の髪の毛。手触りがハルと一緒だ。ゆっくり撫でてハルの唇をそっと触る。ハルが顎を上げる。自然と唇を重ねる。直ぐに開く口に全てを舐めつくす勢いで舌を押し込む。ハルだ。可愛い俺のハル。後頭部を支えて舌を吸い甘噛みし、軽く起ちあがる欲望を細い身体にこすり付ける。ビクリと震える身体の愛おしさ。「んっ」と小さく声を上げる白い喉の色っぽさ。深くキスをしながらハルの身体を確認するように服の上からまさぐる。薄い筋肉。まっすぐな鎖骨。姿勢のいい背骨。細い腰。ハルの膝がカクリと折れる。抱きしめてハルを支え、口を貪りながらベッドに腰かける。腕の中にハル。膝に乗せて横抱きにして上からハルを食む。この幸福感に温かな涙が頬を伝う。散々泣いているが涙は枯れないものだと知った。泣きながらフフっとハルが笑う。つられて俺も笑う。近くに見る綺麗な瞳。甘えるように俺にしがみつくハル。尻尾があればハルの尻尾が巻き付いてきそうだ、と笑みがこぼれる。口を離して可愛い頬を片手で包む。手にハルの涙が染み込む。
「タロ、会いたかった……」
手に頬をすり寄せてハルの一言。タロの歓喜の思いが溢れる。その時、声がかかった。
「ハルト、いるか? 入るぞ」
雅樹がカーテンを開けて入ってくる。ハルの身体がビクリと震える。
「ハルト、降りるんだ」
俺の膝から降ろそうとハルの腕を雅樹が引く。バランスを崩し、よろけながら床に足を着くハル。転ばないように支えた。雅樹は俺を睨んでいる。
「調子悪いんじゃないのかよ。保健室の先生が不在の時に、何やってんだ」
雅樹が春人を抱き寄せ俺から距離をとる。春人が混乱しているのが分かる。
「ハルトは、今は俺の恋人だ」
雅樹に宣言される。何となく気づいていたけれど心が軋む。
「ハルト、猫の頃の気持ちに流されるな。今は小林春人だろ? 教室に戻ろう」
見せつけるようにハルの頬にキスをする雅樹。さっきまで俺が触れていた温かい頬。驚いて真っ赤になっているハル。腹の奥が燃え上がる思いだった。
「井川は、ちゃんと休めよ」
立ち去り際に雅樹が言う。雅樹に肩を抱かれて行くハル。こちらをチラリと見る。不安そうな目。雅樹がシャッとカーテンを閉めてハルが隠される。怒りとやるせなさに枕を殴る。くそう、くそう! 心に決めた。
俺はハルを俺のもとに取り戻す。

 神谷に別れを告げた。本気の相手がいると言った。あっさり別れることになった。
雅樹は頭がいい。物事の本質を見抜いてくる。だけど負けられない。苦しむハルを助けてくれたことは心から感謝する。だけど譲れない。ハルタも春人も、俺のだ。
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