裏切りと孤独と恋心と、君

小池 月

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出会い

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 渡辺康太、三十二歳。社会保険労務士事務所に勤務する社労士。主に従業員数三百人程度までの中小企業を担当している。週の半分以上を担当の企業に出向き給付金・助成金の書類関係や労働紛争になりそうな状況にないか、企業規則の見直し改正などを扱っている。労働に関する法律の専門家であり、仕事での信頼関係も出来ている。三十歳近くまで仕事に専念して良かった。プライベートは犠牲にしたが、自信をもって仕事ができる今があるから満足だ。
 九月の暑い日。自分の車で企業に出向いていた。時々利用する公園駐車場に併設されたコーヒーショップ。時間があるときは公園内を歩いて気晴らしが出来るところも気に入っている。今日はコーヒーだけ買って企業に向かおうと思っていた。駐車場入口への専用道路に入り、コーヒーショップ近くに止めようと空き具合をチラリと見ていた。ふと目前に人影。驚いてブレーキをかけたが間に合わなかった。ドンという衝撃。目の前にエアバックが出てきて、前が見えなくなる。スピードは出していなかった。あわてて車を降りると、アスファルトに倒れた青年。大きなバケツが転がっている。コーヒーショップから人が出てくる。地面に倒れた青年が意識を失っていて、すぐに救急車を要請した。警察にも連絡。声が震えた。
「この人、公園清掃の人だ。事務所に連絡してあげて」
コーヒーショップの人が動いてくれる。十分で到着した救急車で運ばれる青年。俺はその後到着した警察の現場確認。コーヒーショップの人が、今朝は駐車場にイタズラで花火カスの入ったバケツが置かれていたことを証言してくれた。被害者の彼の怪我次第だが、状況からみて免停にもならないでしょう、とそのまま解放された。追って警察から連絡がある、と。出頭必要があれば応じることを書面約束した。警察事故対応に二時間がかかった。車の損傷は少しだけ。保険会社と仕事先の企業と事務所に連絡し、俺も怪我をしているかもしれないから、と有給三日をもらった。これまでの仕事の信頼と実績があり優しく対応してもらえたことが嬉しかった。

 すぐに被害者の青年が運ばれた病院にタクシーで向かった。彼の怪我は右前腕のヒビと打撲、擦過傷。全治三週間らしい。時々目覚めてもすぐに寝入ってしまう。意識障害があるかもしれないから念のため一泊の入院。日中ほとんどを寝ている彼が時々漏らす言葉。心臓が締め付けられる思いがした。この青年は暴力を受けている。そう確信した。

 「もう、一人で大丈夫です」
夕方になり目が覚めた青年。小野田理久君。二十三歳。事故の謝罪をして簡単に自己紹介をした。ほんの少ししか喋らずこちらを見ない彼。
「面会制限時間ギリギリまでいるから、何でも言ってほしい。入院に必要そうなものは買ってきた。明日の退院は俺が迎えに来るから」
無言で下を向いたままの理久君。脳の検査をするか話をしたが、夜間の不眠があっただけで大丈夫だと言っていた。人付き合いが苦手そう。とても寝言のことまで聞ける状況じゃなかった。目が覚めたことで警察が来た。俺は席を外し廊下で待機した。三十分ほどして俺が呼ばれる。
「渡辺さん、今回は駐車場内の道路上違法投棄物による通行妨害事故ということで、被害者の小野田さんから不起訴の意思が確認できました。書類にサインが貰えたため、刑事責任での追及は罰金のみです。ケガの程度も全治二週間でいいと小野田さんから申告がありまして、主治医との相談の結果、診断書がそうなりました。軽傷人身事故として違反点数六点以内で免許停止にもなりません。良い方で良かったですね」
「え? 良いんですか? 私の前方不注意だったのですが」
「被害者の方が不起訴で納得されているので、これで終わりです。ただ、小野田さんはしばらく生活にも困ると思いますので、そちらのサポートや補償など保険会社と相談ください」
警察のテキパキとした言葉に、ひたすら緊張している理久君。「では、お大事に」と立ち去る警察を二人で見送った。
「理久君、良かったの? 俺を道路交通法違反で告訴しても良かったんだよ?」
「いえ、いいです。そんなこと、したくありません」
「そうか。ありがとう。仕事もあるから俺は助かる。俺に出来るサポートをする。右手、利き手だよね。家族と住んでいる?」
「あの、大丈夫ですから。もう、結構です」
困ったように下を向いている。無理強いはしないほうが良いだろう。「小野田さん、入ります」カーテンの向こうから声がかかる。看護師が入ってくる。
「失礼します。小野田さん、入院手続きの書類、左手でもいいので書けたらお願いします。入院保証人の欄は親族か、住所の違う方でお願いします」
「え? 家族、書くんですか? 連絡は行きますか?」
「はい。代筆で書いていただいた場合、後日連絡をする場合があります」
さっと顔を青くする理久君。
「あの、入院、しなくていいです。帰ります」
「はい? え? 入院しないんですか?」
入院拒否に驚いている若い看護師。困った顔の理久君。この子は、もしかして家族から逃げている? 殴らないで、と言っていた寝言。
「俺が保証人になります。理久君、一泊入院したほうがいい。夜間に何か症状が出たら困るから。書類の記載も俺がするよ」
すぐに声をかけた。もとは俺がケガを負わせたから、入院して療養してもらうためなら書類上の身元引受人は引き受ける。俺の言葉に初めて理久君がこちらを見た。下を向いて髪に隠れていた顔がはっきり見える。黒い大きな瞳が俺を射貫く。一瞬、心臓が止まったかと思った。まるで白雪姫だ。透き通った瞳に吸い込まれる。数秒間見つめ合ってしまった。小さな唇が言葉を溢す。
「……良いんですか?」
小さな可愛らしい声だ。ウンウンと聞き入ってしまった。反応しない俺を見て、また下を向いてしまう。
「やっぱり、いいです」
「あ、ごめん。ちょっと見とれてしまって、じゃない。何を言ってるんだ俺は。違うんだ。頼ってくれていい。俺は何でもするから。怪我は俺のせいだから」
必死に声をかけると、看護師が助け船を出してくれる。
「そうですよ。小野田さん、先生が入院指示出していますし、今から入院取り消しも大変です。こちらの方に書いてもらいましょう。それさえ済めば入院することに抵抗はないんですよね?」
看護師の言葉にコクリと頷く理久君。もう一度。また目を合わせてくれないかな。変な期待でドキドキする。看護師から入院の説明を聞きながら、視界の端に理久君の動きを入れる。こっちを見ないかな。落ち着かないソワソワした気持ちになった。
 入院病棟に移り、面会時間ギリギリまで付き添い話しかけてみたが、あれから理久君は一度も俺を見ることが無かった。明日はこちらを向くと良い。そして俺に微笑んでくれたりして、と考えて、こそばゆくて頬が緩む。小さな声を上げたくなるような小幸福感に酔いしれてしまった。スキップでもしたい気分だ。明日が楽しみだ。

 「え? もう退院、したんですか?」
午前面会開始時間の十時。面会開始すぐに病院に行った。あまりのガッカリに肩がガクっと前のめりに下がってしまう。本当に気が抜けて残念な思いをすると、漫画のような姿勢をとってしまうと身をもって知った。
「先ほど帰ったばかりです。もし間に合うなら追いかけてあげると良いと思います。心配した脳障害が無く退院としていますが、骨折や打撲で痛いはずです。まして利き手の右腕骨折ですし。ご自宅まで二キロはあるようですが歩いて帰ると言っていました。頼る人もいないようですし、心配です」
「教えてくれて、ありがとうございます」
担当看護師に礼を伝えて、すぐに病院を出る。ケータイのナビで理久君の住所を入れる。入院保証人になったから書類の予備をもらっていて、住所は分かっている。携帯電話番号の記載がなく電話連絡できない。本当に持っていないのか分からないが、昨日、携帯電話は無いと言っていた。

 ケータイナビの通りに歩いているとすぐに理久君が見つかった。下を向いて道の花壇に座り込んでいた。
「理久君」
声をかけるとこちらを見る青い顔。
「痛むよね? 昨日の今日で歩いて帰るなんて無理だよ」
何も言わない理久君の横に座る。
「右手が使えないと生活に困るよね。全身に打撲もある。一か月は労災休職できるよね。俺の家に来ない? 少しでも理久君を楽にしてあげたい」
顔を上げて俺を見る理久君。明るい陽の光の中で見る彼に惹かれる。顔の造形だけじゃない。何だろう。この子の瞳は傷を負った子猫のようだ。抱き上げて撫でてあげたくなるような感覚に陥る。
「結構です」
そう言うだろうと思っていた一言。
「俺に罪滅ぼしをさせてくれないか? 人を撥ねてしまうなんて俺は重罪を犯した。君に尽くすことで俺は救われる。お願いだ」
俺のところにおいで、と言っても来ないだろう。警戒して怖がっている。こんな時は懇願してみる。手段を変えると良いときもある。理久君を見ると、困ったように迷っているのが分かる。あと一押し。
「申し訳ない思いで眠れなかったよ。贖罪をさせて欲しい。俺のために」
少し困った顔で「分かりました」と言ってくれる。承諾が得られて、飛び上がりたくなるほど嬉しかった。ガッツポーズはこうゆう時に使うのだと思う。
 車でマンションに移動。修理中のため代車。いつものシートの方が乗り心地いい。せっかく理久君を乗せるから愛車に乗って欲しかったな、と考えて俺はバカだと思った。その車で理久君に怪我を負わせたんじゃないか。本当に申し訳ない。辛そうに助手席に座っている理久君を見て、これ以上苦痛を与えないように慎重に運転した。
どこにも寄らずに家に直行。顔色が悪く、とにかく休ませたかった。
「昨日の今日だから辛いよね。今日は休んでいて」
できたら家に連れてこようと昨日から準備していた。リビングから続く和室に簡易ベッドを用意してある。寝室を明け渡したいところだが、仕事部屋でもあるため難しい。理久君には和室を提供する。折り畳みの簡易ベッドだが、酔った先輩社労士が泊まることもあるため良いものを買ってある。寝心地と安定感が簡易ベッドとは思えないレベルだ。理久君が寝ることを考えたらコレにしておいて良かったと心から思う。
「あの、僕は床でいいです」
「これは理久君用のベッドだよ。この和室を使って。俺の部屋は玄関直ぐの洋室。コレ、簡易ベッドだから寝心地どうかな? もし気になるならシングルベッド買うよ」
「いえ、買わなくていいです。すぐに自宅に戻りますから」
「そう言わずに。とにかく今日は休もう」
そっと上着を脱がせる。
「あ、いいです! 自分でやります」
弱い抵抗。前ボタンをはずして驚いた。制服作業上着の中、裸だ。そりゃそうか。右手がギプス固定されているから、袖が通らずシャツも着られなかったのか。上着も左腕だけしか袖を通していなかった。恥ずかしそうに俯く姿に心臓がドキドキする。男性というより儚げな青年か。中性的な魅力に見入ってしまう。昨日の作業着を着て退院してきたけど、下着は替えたのかな? というか、よく見ると打ち身が目立つ肌に出血の汚れが残ったまま。
「昨日って病院で身体拭いた?」
「いえ。擦り傷のガーゼは消毒して変えてもらいました」
ベッドに理久君を座らせる。
「汚れ拭くよ。待っていて」
肩に布団をかける。タオルと熱めの湯を用意して戻る。大人しく座っていた理久君の背中から丁寧に拭く。白い肌の手触りに胸が高鳴る。痛々しい内出血部分に申し訳なくなる。乾いた血もふき取り、俺の半そでシャツを着せる。身体の大きさが全然違うからギプスの腕が通る。でもこれは悩殺的だ。首元が大きく開いて鎖骨やら激しく色っぽい。すぐ前開きパジャマを着せて、下をどうしようか考える。
「あの、あとは自分でやります」
「そっか。じゃ、タオル絞って置いておくよ。あと、新しい下着。俺の予備だから大きいけど、今日買ってくるからとりあえず使って」
「全部借りてしまって、スミマセン」
「いいんだ。俺のせいだから。リビングに居るから終わったら声かけて」
「はい」
そっと和室から出る。左手だけで大丈夫だろうか。だけど若いし羞恥心もあるだろう。心配で襖の前で立ち尽くす。ガサゴソと音がしていたが、突然ガタンっと音がする。「いたっ」と悲鳴。
「どうした!?」
すぐに部屋に飛び込んでしまった。床に転がる理久君。下が、丸出し。痛みと羞恥に真っ赤になっている。左手だけで履こうとして失敗したのか。いつもとサイズも違うし大変だったろう。そっと理久君を抱き上げてベッドに寝かせる。軽く抱き上げられる重量に驚く。
「す、すみません」
「いいよ。理久君、恥ずかしがらずに俺を頼って。右腕、打った? 痛みがひどいようなら骨折が悪化したかも。もう一回病院行こうか? どうだろう?」
「背中から転んだから腕は大丈夫そうです」
ベッドに寝かしたままパンツを履かせる。艶めかしい格好に注視したくなる気持ちが沸き上がりソワソワする。自分のためにも理久君のためにもサッと手早く着させる。理久君は恥ずかしそうにしながらも抵抗しなかった。ふと身手に触れる皮膚に違和感。そっと額に触る。やっぱり。
「少し熱が出てきたかな?」
「……寝ていれば治ります」
恥ずかしそうに視線を外す。その小さな仕草が微笑ましい。
「じゃ、痛み止め飲んでから寝よう」
外傷性の発熱だろう。病院から処方された痛み止めを飲ませる。熱も痛みも良くなりますように。首元まで布団をかけて、そっと和室から出る。俺が離れる時にはウトウトしていた。身体はしばらく辛いはずだ。

 理久君が寝ている間に近くの商業施設に服と熱があっても食べられるゼリー飲料、スポーツドリンク、食材を買いに出かける。メモは残してきたけれど一人残してきたことに気持ちが焦る。また転んでいたらどうしよう。熱が上って苦しんでいたらどうしよう。気持ちが落ち着かなくて短時間で必要な物を揃えて家に向かう。

 帰宅すると理久君はぐっすり寝ていた。そっと額を触る。熱くない。良かった。寝顔を見ていると優しい気持ちになってくる。唇をそっと触ってみる。零れてくる息に顔が緩む。飼い猫がいたらこんな気持ちだろうか。何度か頭を撫でてみると心がポッと温まる。いつまでも眺めていたくなる。「可愛いな」そう思い、俺はバカかと思い直す。理久君は男子だ。でも、ふと着替えさせたときの裸を思い出して心臓がドキドキしだす。「いや、俺は変態か」と自分に言い聞かせ、理久君をケガさせてしまった義務感からおかしくなっているのだと思い直す。起こさないようにそっと部屋を出る。

 昼過ぎまで寝ていた理久君が静かに起きてくる。
「おはよう。痛みはどう?」
「大丈夫です。トイレ、借りてもいいですか?」
「もちろん。自由に使って。後で部屋の案内もするね」
寝癖、可愛い。身長は百七十センチ以下だな。百八十センチの俺が腕に包み込めるサイズ。そんなことを考えると、また心がホワっと温まる。理久君はくすぐったい子だと思う。転ばないか心配になり、つい後ろから支えるように歩いてしまう。「一人で大丈夫です」そう言われなければトイレまで一緒に入ってしまうところだった。自分の行動が恥ずかしい。
 理久君が家の中に居るだけでホワホワした温かい気持ちになる。遠慮がちな姿を目で追ってしまう。何でもしてあげたい。心がくすぐったくてソワソワが止まらない。口元が勝手にニヤけてしまう。毎回、手で口元を隠すのが照れくさい。簡単な言葉で表すと、そう、これは幸せという気持ち、だと思う。
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