裏切りと孤独と恋心と、君

小池 月

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小野田 理久

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 本当にこんなこと、あると思わなかった。ドラマの世界だけだと思っていた。逃げられない渦に飲み込まれている気がする。

「研修会の報告書、人のをコピーして提出するなんて有り得ないよなぁ。普通に考えたら分かるだろ? 再提出してください。もう期日過ぎているけれど、特別に期限は四日後。期日内に出すこと。ほんと、勘弁してくれよ」
主任に大声で注意を受ける。先輩の笑いをこらえる目線。言いたい言葉はぐっとこらえる。

 一か月前の研修会報告書作成に当たって、内容については他部署のコピーでいい、所感だけ自分で作成して提出しろ、と先輩から言われていた。逆らったら先輩の指示通りにしていない、と叱責される。コピーすれば主任にこうして叱責される。何度かこのループに嵌められているから対策は練ってある。研修内容を自分で書いた報告書も別作成してある。今回はこれを直ぐに出せばいい。
「……申しわけありません。あの、報告書は作成してありますので、すぐに提出します」
その言葉に片眉を吊り上げる主任。あ、ダメだったか? また怒りを買った? よく分からない。どうせ何をしても意地悪の対象にされる。無言で面白くなさそうな主任にお辞儀をする。先輩たちが、これでおしまいかよ、と視線を向けている。胃がシクシク痛い。悔しい気持ちと叫びたくなる自分の思いを身体に閉じ込める。我慢するしかない。これが社会人なのだ、と。
 誰かを吊るし上げれば、人は変な絆を作り輪ができる。まさか自分がその対象になるとは思わなかった。

小野田 理久
 主任は六月に九州地区から転勤してきた。転勤してきた当初は新人の僕に優しかった。嬉しかった。時々出す九州弁に微笑み合って頑張ろう、と言い合っていた。でも、今ではあの上辺の優しさに騙されたのだと分かる。僕以外にはとても親切にする主任。僕には、情報を与えない、教えてくれない。質問しても答えが返ってこない。教えてくれないのに「間違ったことをする」と大げさに指摘して叱責をする。「でも……」と伝えようとすると「言い訳するな! 態度が良くない!」と叱責される。
 徐々に僕を利用して主任が居場所を確保していることに気が付いた。この人は策士だ。簡単に心を許してはいけなかった。主任に秘密を握られていて、どうすることも出来ない。気が付くのが遅すぎた。苦しいため息を吐く。半年たった今では、職場で僕に話しかける人はいない。契約職員さんが僕の目の前の物をとるにも声さえかけない。僕に関わらないほうが良い、と態度から染み出ている。その一つ一つの行動が、僕に価値が無いという烙印を押しているかのように心にのしかかる。
 結局一年で入った会社を退職した。とても耐えられなかった。両親から「根性がないからだ」と責められた。職場で辛い立場にあることは恥ずかしくて言えなかった。華やかに社会人として生活している友人と会いたくなかった。惨めさに押しつぶされそうになり、抱えきれなくなった心と共に逃げ出した。

 社会人二年目の秋。僕は春から隣県のS市社会福祉法人の公園管理事業部、非常勤職員として働いている。逃げるようにココに来た。たまたま非常勤職員の募集案内を見つけて、応募し採用された。公園近くの安アパートも契約できた。携帯電話は解約し、引っ越し先を誰にも告げていない。糸が切れた凧のようになってみて、心がふわりと軽くなるのを感じていた。親の説教を考えなくていい、友達と比較しないで済む日々。寂しくて、安心する毎日。
 公園内の小屋のような事務所に非常勤職員が三人。定年退職した再雇用の男の人が二人。若いのは僕だけ。特に深入りすることもなく気が楽。広い公園。中心に市内を流れるS川が流れていて歩行用のつり橋二か所で行き来する。整備や遊歩道の管理でほとんど公園内を歩いている。蜂の巣を見つけると専用業者へ連絡。清掃をしながら、遊歩道の蜘蛛の巣は撤去する。地道な毎日が僕を癒してくれる。そして、もう話をする必要もなければ、苦しい思いを抱えて謝る必要もないと思うとホッとする。僕は細々生きて行くだけで十分だ。
 でも時々、どうしてこうなってしまったのか、と足を止めることがある。急に泣きそうになり、まぁ良いじゃないかと揺れる心をなだめる。僕が出来損ないだから仕方ない、と自分に言い聞かせて溢れそうになる心を落ち着かせる。

 「お疲れ様でした」
「お疲れさん」
同じく非常勤職員の青井さんと長谷さんに挨拶。朝と仕事終わりの挨拶。今の僕が声に出す数少ない言葉。喋らないでいると声がだんだん小さく出しにくくなることを知った。どうせ僕の言葉は誰にも届かないから声も必要ないのかもしれない。

 アパートの自宅まで歩いて十分。ふと、今の僕に必要なモノは何だろう? と考える。生きているから衣食住は必要だと思う。あと、テレビとユーチューブは必要だ。
 部屋に入りまずテレビをつける。なぜか人の声が室内にあると安心する。テレビをつけっぱなしにすることが習慣。節電のために消そうと思った時もあったけれど、静かな部屋にパニックになりかけた。本当に僕は独りだと実感する怖さ。これで良いと言い聞かせて抑えていた悲しみが体中から溢れてしまう恐怖。耐えられない衝動。止まらない涙と苦しい呼吸。一度そうなってからは慎重に行動している。きっと僕は心を病んでいるな、そう思っても精神科には足が向かない。それよりも日々を精一杯こなすことに夢中にならないと。

 夢を見る。
 スーツを着て出社する。信頼していた主任。楽しかった日々。何回か仕事後に飲みに誘われて出かけた。上司が僕を気に入ってくれている。すごく嬉しかった。頼りになる主任。
「君だけが可愛い部下だ。君は僕の支えだよ」
毎回優しい言葉をくれた。主任のためなら残業も雑務も苦じゃなかった。
 ある日の居酒屋。主任と二人で飲んでいる。
「小野田君は恋人いないの?」
主任に聞かれる。この手の話は苦手。だけど、主任になら話してみようかな。お酒も入っていて、主任になら話せると思った。
「いません。出来たこと、ありません」
「え~? 勿体ない。こんなに素直で可愛いのに。お姉さん系が放っておかないだろ?」
「そんなこと、ないです」
「こういう話、苦手?」
「はい。あの、恋人がいないと、変ですかね?」
「いや、今は独りで十分満足できる世の中じゃないか。変でもないよ」
優しい言葉に心が揺れた。
「僕、あの、女性が苦手、かもしれません」
精一杯、言葉にしてみた。主任の反応に心臓がドキドキした。
「え? それは、同性愛者ってこと?」
「そうかも、しれません。中学生の頃、近所の年上のお兄さんの家で、勉強教えてもらっていました。あの、その時に、少し、色々あって……」
驚いたように僕を見ている主任。すぐに笑顔になる。
「俺は、そういう対象?」
「いえ! 主任は憧れの上司です。そういう風に見たことはありません。それに、その時以来、そういう気持ちになってもいません」
「そうか。今は世の中が寛容だからね。マイノリティだけど、自分の性癖を恥ずべきじゃないと思うな」
ははは、と笑ってくれる主任に安堵した。抱えていた秘密を打ち明けて共有してくれることに安堵していた。自然と涙が流れて、お酒が進んだ。男性のタイプなど色々聞かれて照れくさい嬉しさを感じていた。話すことで気持ちが軽くなった。仕事、頑張ろう。主任についていこう、そう思えた。
 だけど次の日から主任の態度が変わった。急に冷たくなる主任。優しい人の態度の変わりように恐怖を覚えた。
その日の昼休み。主任と使用されていない会議室にいる。前に立つ主任が喋る。
「小野田君、もし社内に君がホモセクシャルな事が広まったら、どうする?」
手が震えた。
「中学生で近所のお兄さんとイケない事しちゃったことが広まったら、ご両親や友人に知られたら、どうかな?」
「お願いします! それはやめてください!」
主任に頭を下げていた。恐怖に急激に冷える心臓。
「頼むときの態度が違うよなぁ」
冷ややかな声に、そのまま土下座した。ひれ伏す僕を踏みつけて、主任が一言を発した。
「お前みたいなバカ、もう少し早く落とせると思ったのに、時間かかったわ。小野田、お前、今日から奴隷。俺に逆らうなよ?」
楽しそうな声。床に這いつくばりながら身体がガタガタ震えた。
 それから、時には金銭を渡し、身体の見えない個所を殴られることもあった。

 身体の衝撃と息が詰まる痛みを思い出し、ガバッと起きる。息を整え、ここが安アパートである事を認識し安心する。サラリーマン時代の精神的にも身体的にも辛い時期を夢に見ると胃が痛い。解放されたから、もう忘れたい。どうして思い出すのか。思うようにいかない自分が苦しい。
 起き上がり「夢だ、大丈夫。もう終わったから」と自分に言い聞かせる。胃が気持ち悪くて、すぐに寝なおすことが出来ない。パソコンのユーチューブをつけて、とにかく人の声を部屋に満たす。「大丈夫。大丈夫。辛くない。もう終わったから。ココには僕だけ」自分を励まし、矛盾するように楽しそうなパソコンの音声に落ち着きを取り戻す。深呼吸して、漏れ出た気持ちを心の檻に回収する。もう出てくるなよ。必死で願う。
 こんな日は朝まで心臓がバクバクして眠れない。頭が痛い。
 
 「おはようございます」
「おはよう」
「おぉ、お疲れさん」
今の職場に行くと、穏やかな二人にほっとする。作業着に着替えて朝のミーティング。といっても本部から修理やチェックの依頼が来ていれば確認する程度。苦情や要望の共有くらいで実際に話すことは無い。リーダーをしてくれている青井さんの指示で作業に向かう。今日は僕が駐車場清掃を担当する。残暑の九月。駐車場で夜間騒ぐ若者もいて、朝になるとゴミや缶が残されている。花火のカスもあり、騒ぐ元気があっていいなぁとぼんやり考える。
 駐車場清掃は一番はじめにする作業。駐車場に行ってみて驚いた。大きめのバケツに花火の燃えカス。入り口真ん中に置きっぱなし。車がぶつかったら大変だ。慌てて回収に行く。持ち上げようとしたが、水が上までたっぷり入っているため、すぐに持ちあがらない。一度かがんで持ち上げようとしたとき。真横からドンっと衝撃。バケツが吹き飛ぶ。あぁ、違う。僕が吹っ飛んだのか。全身に走る衝撃と目の前の熱いアスファルト。視界がぼんやりする。起き上がろうとしても眠気が襲う。昨日も眠れなかったから仕方ないか。そんなことを考えるうちに意識が遠のいていた。

 唸り声がする。どこから? 煩くて目を開ける。まぶしさに顔をしかめながら周囲を見る。病院?
「気が付きましたか?」
優しい声。声の方を向きたいのに首やら背中やら痛くて動けなかった。
「しばらく入院になります。申し訳なかったです。私が責任をもって対処していきます」
落ち着いた男の人の声。年上男性の優しい声は主任と出会った頃を思い出す。
「怖い……」
一言が漏れていた。
「怖い思いをさせてしまい、すみません」
また優しい声。全身が痛くて主任に殴られているのだと思った。
「もう、殴らないで、ください……」
ぼんやりと見えている男性がハッとしたように静止する。あぁ、良かった。今日はこれで終わった。痛みが引くまで静かにしていよう。目を閉じるとすぐに眠気に襲われた。
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