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【 花の章 】―弐―
212 三条制札事件
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九月十日、夜。
新暦に直せばおそらくもう十月で、日中は晴れていてもだいぶ涼しい。日没も随分早くなったので、朝晩の冷え込みも日に日に増している。
そんな中、三条大橋の西詰めにある高札場を囲むようにして南の三条会所には原田さん、西の酒屋には新井忠雄さん、東の町家には大石鍬次郎さんがそれぞれ十名ほどの隊士を率いて待機していた。
そして、何か動きがあればすぐ伝え走るため、橋の下にも乞食に扮した隊士が二名斥候として身を潜めている。
その数、総勢三十名以上。
私も原田さんと一緒に会所に布陣しているけれど、こんなに大勢で何をしているのかといえば、制札の監視……。
制札とは、特定の相手や事柄を対象とした法令を書き記した板のことで、基本的な法令なんかを記したものは高札というらしい。
そして、それら高札や制札を掲げる場所を高札場といい、人通りも多い三条大橋の西詰めには、“朝敵となった長州の者を匿えば同罪”だとか、“潜伏している長州の者を見つけて報告した者には褒美を下す”といったことが記された制札が、禁門の変以降から掲げられている。
その制札が、長州征討の停戦が決まってからというもの夜のうちに壊されたり、鴨川に投げ捨てられたりしているらしい。
新たに掲げ直すも、八月の下旬から今日まですでに二、三回捨てられているのだとか。
停戦としつつ実質敗戦ともいえる今回の長州征討で、幕府の権威はとことん落ちてしまっている。
このまま放っておけばさらに幕府の威信は失われると、新選組に制札の監視と犯人の捕縛が任されたのだった。
ただ一つ厄介なのは、噂によると土佐藩士が犯人らしいということ。
今まで幕府に協力してきた薩摩藩が裏切ったりする中、土佐藩はいわゆる佐幕寄りだけれど、下級武士や脱藩浪士などを中心に倒幕派も多い。
だからこそ、あまり刺激したくないというのが本音のようで、出来る限り生け捕り、逃げた者は無理に追わなくてもいいということだった。
とはいえ、犯人はいつ現れるかわからない。
監視対象が人ではなく制札というのも何だか不思議な感じだけれど、夜通し行われた監視一日目は特に何も起きなかった。
同様に、二日目の夜も犯人が姿を見せることはなく、両日とも明るくなると同時に屯所へと引き上げるのだった。
そして迎えた三日目、九月十二日。
この日も夜から制札の監視が始まると、これまで同様、私も原田さんと一緒に南に位置する会所で待機する。
とはいえ三日目ともなると、そろそろ隊士たちの気も緩み始めている。巡察と違ってじっと待っているだけだし、何も起きなければ正直言って暇だしね……。
原田さんもすでに退屈しているのか、目が合うなり親指で外の方を指差した。
「見回りついでに散歩でも行かないか?」
「行きます!」
時刻は子の刻、じきに日付も変わろうかという頃合い。
気分転換に二人で外へ出れば、澄んだ夜空に広がる満点の星と、西の空に残る満月にはまだ少し足りない月が、昼とは打って変わって静まり返った町を仄かに照らしている。
けれど……吹き抜けていった風は思いのほか冷たくて、身体を縮こめ両腕をさすった。
「やっぱやめとくか?」
「いえ。これくらいならすぐに慣れると思うので」
「なら、このままこれでも行っとくか? すぐに温まるぞ」
そう話す原田さんは、にやりとしながら口元で手首をぐいっと傾けている。
「ふふ。隊務中なのが残念ですね」
「相変わらず、春は真面目だなー。酒屋待機の新井隊なんて、今頃酒盛りしてんじゃねーか?」
「えー。じゃあ原田さんも、目の前にお酒があったら飲んじゃうんですか?」
「どうせ今日も何もねー気がするしなぁ」
飲むのか!
まぁ、連日全く動きがないせいで、どうせ今日も……と言いたくなる気持ちはすごくよくわかるけれど。
そんな会話をしながら歩いていれば、突然隣で立ち止まった原田さんが、しっと言うように口元で人差し指を立てた。
さっきまでの緩やかな空気は一変、原田さんの鋭い視線の先には、随分先の方を歩く複数の人影がある。
「追うぞ」
「はい」
互いに声を殺して頷き合うと、音を立てないよう細心の注意を払いながら徐々にその距離を詰めていく。
人数は八人。みんな腰には刀を差していて、時々聞こえる会話のその言葉尻には特徴がある。
土佐訛り……。噂が本当だとしたらこの人たちが?
今の幕府の状況を考えると正直厄介な相手だし、土佐藩とのいざこざといえば柴さんを思い出す。
ちらりと見た原田さんの横顔にも、星明りの下、思い出したように緊張が走っていた。
ただの通りすがり……そのまま制札場を抜けて欲しいと祈るように見つめているも、先頭を歩いていた男は期待を裏切り柵を乗り越えた。
横から小さな舌打ちが聞こえれば、同時に、橋下から音もなく飛び出した影が西の方へ消えていくのが見えた。
待機していた斥候が、他の隊にも伝えに走ったのだろう。私たちも急いで会所へと戻れば、すぐさま待機していた隊士たちを連れて制札場へと戻った。
すでに他の隊への連絡は斥候がしているはずで、こちらと東西からも駆けつけた隊との三方から挟み撃ちにすれば、その人数差で圧倒し一気に方もつくはず。
全員で抜刀済みの刀を手に制札場へ行けば、犯人たちは驚いた様子で振り返り声を上げた。
「おんしゃあ誰や!?」
「新選組、原田左之助だ! 大人しくしてりゃ手荒な真似はしねえぜ」
そんな原田さんの忠告を無視して先頭の男が刀を抜けば、直後、残る七人全員も刀抜した。すらりと伸びて煌めくその刀は、皆一様に長くみえる。
直後、西側から新井隊がやってきた。
「遅くなって悪い」
「新井さん、いい感じに出来上がってんじゃねーか?」
にやりと原田さんが冗談めかした。
無駄な戦闘を避けるべく、残す大石隊の到着まで引き延ばそうとしているのがわかった。意図を汲み取ったらしい新井さんも、同じようににやりとした。
「いや、そこまでは飲んでいない」
「そこまでって、本当に飲んでたのかよ! ずりぃだろう!」
ず、ずるい……? 原田さんの突っ込みどころに突っ込みそうになるけれど、刀を向けあっているはずの空気が若干緩んだ。
けれど、何かに気づいたらしい原田さんの驚いた声が、一気に緊張感を引き戻した。
「浅野!? 大石隊はどうした!?」
見れば、大石隊を呼びに行っていたであろうはずの浅野薫さんが、なぜかいまだその場に突っ立っている。
三条大橋の方を見ても、静かな闇が続くだけで、その先から大石隊が来る気配もない。
まさか、まだ呼びに行っていない……?
原田さんが浅野さんを問い詰めるけれど、微かに震えているようにも見えるその姿は、かろうじて謝罪の言葉を口にするだけで一向にその場を動こうとしない。
原田さんと私が声を上げるのは、ほぼ同時だった。
「春、頼むっ!」
「私、行ってきますっ!」
悪いな! という声を背に、すぐさま三条大橋の上を走った。
八人に対してこちらはすでに二十人以上。戦闘が開始される前に大石隊も加われば、それだけで人数差は約四倍になる。
刃を交えることなく降伏する可能性はぐんと高まり、始まったとしても、被害は最小限に抑えられるはず。
橋を渡り終えたところで納刀すらしていないことに気がつくも、そのまま走り大石隊が待機する町家に飛び込んだ。
「すぐ来てくださいっ! 土佐藩士八名、すでに原田隊、新井隊で囲んでいます!」
そう告げた直後だった。金属同士のぶつかる高い音がここまで聞こえてくれば、大石さんが隊士たちに向かって叫ぶ。
「急いで俺らも行くぞっ!」
『はいっ!』
勢いよく飛び出した大石隊を追い抜いて、真っ先に制札場へと戻ったけれど、すでに戦闘は終わっていて、傷を負った土佐側の一人を連行しているところだった。
その近くに指示を飛ばす原田さんの姿を見つけ、急いで駆け寄った。
「原田さん!」
「おう、春か。呼びに行ってもらったのに悪いな。もう終わっちまった」
「いえ、それより状況は……って、原田さん、手! 怪我してるじゃないですか!?」
「ん? あぁ、ちょっとかすっちまっただけだ。こんなもん舐めときゃ治るさ」
そう言って、ぺろりと舐めてみせる手を慌てて掴んだ。
もう一方の手で手拭いを取り出し傷にあてがえば、原田さんがおかしそうに笑う。
「大げさじゃねーか?」
「原田さんは怪我に無頓着過ぎます。おまさちゃんが心配しますよ?」
はい、と結び終えれば原田さんは若干ばつが悪そうに反対の手で頭の後ろを掻く。
ありがとな、という呟きに笑みを返して、改めて詳しい状況を確認した。
どうやら八名のうち一名は已む無く斬殺、一名は怪我を負わせるも捕縛、無理に追わなくていいという達し通り、残りの六名は逃走したという。
ただ、殿をつとめた一人はかなりの深手を負っている様子だったとも。
それでも、新選組の被害は数名の軽傷者を出すにとどまったと聞いて、少しほっとしたのだった。
これにて一件落着かと思いきや、翌日、殿をつとめて深手を負ったと言っていた一人が自刃したらしい。
残る五人も、一度は土佐藩邸へ逃げ込むもその後出奔したという。
土佐藩とのいざこざとか自刃とか……どうしたって柴さんのことを思い出す。あんな悲劇は繰り返したくないのに……。
そう感じたのは私だけではなかったのか、事件から数日後、近藤さんは自ら京都所司代まで足を運び、すでに身柄を引き渡してある唯一の捕縛者の助命を申し出たのだった。
何となく予想はしていたけれど、相変わらず市中では噂ばかりが一人歩きしていた。
あんなに大勢で囲んだにもかかわらず、半数以上も取り逃がしたのは隊士たちが酒を飲み過ぎて酔っ払っていたからだとか、斥候の一人が怖気づいて連絡が遅れたからだとか……詳しい事情なんて何も知らないくせに、好き放題の言われようだった。
そりゃね、飲んでいなかった! とは言えないし連絡も遅れたけれど。
それでも、ただ無様に取り逃がしたわけじゃないのに……。
縁側から見上げた空は青く澄んでいて、思わずため息をこぼせば筆を置いた土方さんが吹き出した。
「幕府の面目は保てたと上は納得してんだ。気にしても仕方ねぇだろう」
「そうかもしれませんけど……」
って、どうしてバレているのか。相変わらず、その目は何でもお見通しか。
けれどもただ一つ、納得出来ないことがある……あの日、橋の下で斥候を務めた浅野さんだ。
入隊時期も私とそんなに変わらなくて、池田屋の時には近藤隊に属してもいた。これまで悪い噂だって聞いたことがない。そんな人があそこで怖気ずくとか、ちょっと信じられない。
けれど、原田さんがいくら呼び掛けても動かなかったのも確かで……。
ふと、自身の眉間に皺が寄っていることに気づき、慌てて指で伸ばした。
このままでは土方さんみたいになってしまいそうで思い切って訊いてみれば、意味ありげにふんっと鼻で笑われた。
「さぁな。わざと注進を遅らせて奴らを逃がせ。どこかの参謀殿からそんな密命を受けていたりしてな」
「どこかのって……」
新選組に参謀は一人しかいない。良い悪いは別にして、確かに伊東さんならそんなことを言っていたとしても違和感がないけれど。
それでも……。
「もともと出来る限り生け捕るって話だったんだから、意味ないじゃないですか」
「その出来る限り、が信用出来なかったんだろ」
「なっ……」
伊東さんの指示、というのはあくまでも土方さんの憶測、想像でしかないと言うけれど、浅野さんが伊東さんの勉強会に参加している姿を近頃よく見かける。
まさか本当に……?
「ま、証拠なんざねぇし、本人も足が竦んで動けなかったと言って反省してる以上、この件はこれで終いだ」
幕府側も今回の結果に満足しているそうで、そのうち報奨金も出るとか出ないとか。
それに、少し前に土佐藩から制札事件の和解の申し入れがあり、今日はこのあと近藤さんや土方さん、伊東さんといった大幹部が、数名の隊士を引き連れ招かれているという祇園へ行くらしい。
あれから制札が壊されたり川に投げ捨てられるということもなくなったし、これで土佐藩とのわだかまりも残らずに済みそうだけれど。
それでも、好き放題な言われようを思い出すと再びため息がこぼれるのだった。
新暦に直せばおそらくもう十月で、日中は晴れていてもだいぶ涼しい。日没も随分早くなったので、朝晩の冷え込みも日に日に増している。
そんな中、三条大橋の西詰めにある高札場を囲むようにして南の三条会所には原田さん、西の酒屋には新井忠雄さん、東の町家には大石鍬次郎さんがそれぞれ十名ほどの隊士を率いて待機していた。
そして、何か動きがあればすぐ伝え走るため、橋の下にも乞食に扮した隊士が二名斥候として身を潜めている。
その数、総勢三十名以上。
私も原田さんと一緒に会所に布陣しているけれど、こんなに大勢で何をしているのかといえば、制札の監視……。
制札とは、特定の相手や事柄を対象とした法令を書き記した板のことで、基本的な法令なんかを記したものは高札というらしい。
そして、それら高札や制札を掲げる場所を高札場といい、人通りも多い三条大橋の西詰めには、“朝敵となった長州の者を匿えば同罪”だとか、“潜伏している長州の者を見つけて報告した者には褒美を下す”といったことが記された制札が、禁門の変以降から掲げられている。
その制札が、長州征討の停戦が決まってからというもの夜のうちに壊されたり、鴨川に投げ捨てられたりしているらしい。
新たに掲げ直すも、八月の下旬から今日まですでに二、三回捨てられているのだとか。
停戦としつつ実質敗戦ともいえる今回の長州征討で、幕府の権威はとことん落ちてしまっている。
このまま放っておけばさらに幕府の威信は失われると、新選組に制札の監視と犯人の捕縛が任されたのだった。
ただ一つ厄介なのは、噂によると土佐藩士が犯人らしいということ。
今まで幕府に協力してきた薩摩藩が裏切ったりする中、土佐藩はいわゆる佐幕寄りだけれど、下級武士や脱藩浪士などを中心に倒幕派も多い。
だからこそ、あまり刺激したくないというのが本音のようで、出来る限り生け捕り、逃げた者は無理に追わなくてもいいということだった。
とはいえ、犯人はいつ現れるかわからない。
監視対象が人ではなく制札というのも何だか不思議な感じだけれど、夜通し行われた監視一日目は特に何も起きなかった。
同様に、二日目の夜も犯人が姿を見せることはなく、両日とも明るくなると同時に屯所へと引き上げるのだった。
そして迎えた三日目、九月十二日。
この日も夜から制札の監視が始まると、これまで同様、私も原田さんと一緒に南に位置する会所で待機する。
とはいえ三日目ともなると、そろそろ隊士たちの気も緩み始めている。巡察と違ってじっと待っているだけだし、何も起きなければ正直言って暇だしね……。
原田さんもすでに退屈しているのか、目が合うなり親指で外の方を指差した。
「見回りついでに散歩でも行かないか?」
「行きます!」
時刻は子の刻、じきに日付も変わろうかという頃合い。
気分転換に二人で外へ出れば、澄んだ夜空に広がる満点の星と、西の空に残る満月にはまだ少し足りない月が、昼とは打って変わって静まり返った町を仄かに照らしている。
けれど……吹き抜けていった風は思いのほか冷たくて、身体を縮こめ両腕をさすった。
「やっぱやめとくか?」
「いえ。これくらいならすぐに慣れると思うので」
「なら、このままこれでも行っとくか? すぐに温まるぞ」
そう話す原田さんは、にやりとしながら口元で手首をぐいっと傾けている。
「ふふ。隊務中なのが残念ですね」
「相変わらず、春は真面目だなー。酒屋待機の新井隊なんて、今頃酒盛りしてんじゃねーか?」
「えー。じゃあ原田さんも、目の前にお酒があったら飲んじゃうんですか?」
「どうせ今日も何もねー気がするしなぁ」
飲むのか!
まぁ、連日全く動きがないせいで、どうせ今日も……と言いたくなる気持ちはすごくよくわかるけれど。
そんな会話をしながら歩いていれば、突然隣で立ち止まった原田さんが、しっと言うように口元で人差し指を立てた。
さっきまでの緩やかな空気は一変、原田さんの鋭い視線の先には、随分先の方を歩く複数の人影がある。
「追うぞ」
「はい」
互いに声を殺して頷き合うと、音を立てないよう細心の注意を払いながら徐々にその距離を詰めていく。
人数は八人。みんな腰には刀を差していて、時々聞こえる会話のその言葉尻には特徴がある。
土佐訛り……。噂が本当だとしたらこの人たちが?
今の幕府の状況を考えると正直厄介な相手だし、土佐藩とのいざこざといえば柴さんを思い出す。
ちらりと見た原田さんの横顔にも、星明りの下、思い出したように緊張が走っていた。
ただの通りすがり……そのまま制札場を抜けて欲しいと祈るように見つめているも、先頭を歩いていた男は期待を裏切り柵を乗り越えた。
横から小さな舌打ちが聞こえれば、同時に、橋下から音もなく飛び出した影が西の方へ消えていくのが見えた。
待機していた斥候が、他の隊にも伝えに走ったのだろう。私たちも急いで会所へと戻れば、すぐさま待機していた隊士たちを連れて制札場へと戻った。
すでに他の隊への連絡は斥候がしているはずで、こちらと東西からも駆けつけた隊との三方から挟み撃ちにすれば、その人数差で圧倒し一気に方もつくはず。
全員で抜刀済みの刀を手に制札場へ行けば、犯人たちは驚いた様子で振り返り声を上げた。
「おんしゃあ誰や!?」
「新選組、原田左之助だ! 大人しくしてりゃ手荒な真似はしねえぜ」
そんな原田さんの忠告を無視して先頭の男が刀を抜けば、直後、残る七人全員も刀抜した。すらりと伸びて煌めくその刀は、皆一様に長くみえる。
直後、西側から新井隊がやってきた。
「遅くなって悪い」
「新井さん、いい感じに出来上がってんじゃねーか?」
にやりと原田さんが冗談めかした。
無駄な戦闘を避けるべく、残す大石隊の到着まで引き延ばそうとしているのがわかった。意図を汲み取ったらしい新井さんも、同じようににやりとした。
「いや、そこまでは飲んでいない」
「そこまでって、本当に飲んでたのかよ! ずりぃだろう!」
ず、ずるい……? 原田さんの突っ込みどころに突っ込みそうになるけれど、刀を向けあっているはずの空気が若干緩んだ。
けれど、何かに気づいたらしい原田さんの驚いた声が、一気に緊張感を引き戻した。
「浅野!? 大石隊はどうした!?」
見れば、大石隊を呼びに行っていたであろうはずの浅野薫さんが、なぜかいまだその場に突っ立っている。
三条大橋の方を見ても、静かな闇が続くだけで、その先から大石隊が来る気配もない。
まさか、まだ呼びに行っていない……?
原田さんが浅野さんを問い詰めるけれど、微かに震えているようにも見えるその姿は、かろうじて謝罪の言葉を口にするだけで一向にその場を動こうとしない。
原田さんと私が声を上げるのは、ほぼ同時だった。
「春、頼むっ!」
「私、行ってきますっ!」
悪いな! という声を背に、すぐさま三条大橋の上を走った。
八人に対してこちらはすでに二十人以上。戦闘が開始される前に大石隊も加われば、それだけで人数差は約四倍になる。
刃を交えることなく降伏する可能性はぐんと高まり、始まったとしても、被害は最小限に抑えられるはず。
橋を渡り終えたところで納刀すらしていないことに気がつくも、そのまま走り大石隊が待機する町家に飛び込んだ。
「すぐ来てくださいっ! 土佐藩士八名、すでに原田隊、新井隊で囲んでいます!」
そう告げた直後だった。金属同士のぶつかる高い音がここまで聞こえてくれば、大石さんが隊士たちに向かって叫ぶ。
「急いで俺らも行くぞっ!」
『はいっ!』
勢いよく飛び出した大石隊を追い抜いて、真っ先に制札場へと戻ったけれど、すでに戦闘は終わっていて、傷を負った土佐側の一人を連行しているところだった。
その近くに指示を飛ばす原田さんの姿を見つけ、急いで駆け寄った。
「原田さん!」
「おう、春か。呼びに行ってもらったのに悪いな。もう終わっちまった」
「いえ、それより状況は……って、原田さん、手! 怪我してるじゃないですか!?」
「ん? あぁ、ちょっとかすっちまっただけだ。こんなもん舐めときゃ治るさ」
そう言って、ぺろりと舐めてみせる手を慌てて掴んだ。
もう一方の手で手拭いを取り出し傷にあてがえば、原田さんがおかしそうに笑う。
「大げさじゃねーか?」
「原田さんは怪我に無頓着過ぎます。おまさちゃんが心配しますよ?」
はい、と結び終えれば原田さんは若干ばつが悪そうに反対の手で頭の後ろを掻く。
ありがとな、という呟きに笑みを返して、改めて詳しい状況を確認した。
どうやら八名のうち一名は已む無く斬殺、一名は怪我を負わせるも捕縛、無理に追わなくていいという達し通り、残りの六名は逃走したという。
ただ、殿をつとめた一人はかなりの深手を負っている様子だったとも。
それでも、新選組の被害は数名の軽傷者を出すにとどまったと聞いて、少しほっとしたのだった。
これにて一件落着かと思いきや、翌日、殿をつとめて深手を負ったと言っていた一人が自刃したらしい。
残る五人も、一度は土佐藩邸へ逃げ込むもその後出奔したという。
土佐藩とのいざこざとか自刃とか……どうしたって柴さんのことを思い出す。あんな悲劇は繰り返したくないのに……。
そう感じたのは私だけではなかったのか、事件から数日後、近藤さんは自ら京都所司代まで足を運び、すでに身柄を引き渡してある唯一の捕縛者の助命を申し出たのだった。
何となく予想はしていたけれど、相変わらず市中では噂ばかりが一人歩きしていた。
あんなに大勢で囲んだにもかかわらず、半数以上も取り逃がしたのは隊士たちが酒を飲み過ぎて酔っ払っていたからだとか、斥候の一人が怖気づいて連絡が遅れたからだとか……詳しい事情なんて何も知らないくせに、好き放題の言われようだった。
そりゃね、飲んでいなかった! とは言えないし連絡も遅れたけれど。
それでも、ただ無様に取り逃がしたわけじゃないのに……。
縁側から見上げた空は青く澄んでいて、思わずため息をこぼせば筆を置いた土方さんが吹き出した。
「幕府の面目は保てたと上は納得してんだ。気にしても仕方ねぇだろう」
「そうかもしれませんけど……」
って、どうしてバレているのか。相変わらず、その目は何でもお見通しか。
けれどもただ一つ、納得出来ないことがある……あの日、橋の下で斥候を務めた浅野さんだ。
入隊時期も私とそんなに変わらなくて、池田屋の時には近藤隊に属してもいた。これまで悪い噂だって聞いたことがない。そんな人があそこで怖気ずくとか、ちょっと信じられない。
けれど、原田さんがいくら呼び掛けても動かなかったのも確かで……。
ふと、自身の眉間に皺が寄っていることに気づき、慌てて指で伸ばした。
このままでは土方さんみたいになってしまいそうで思い切って訊いてみれば、意味ありげにふんっと鼻で笑われた。
「さぁな。わざと注進を遅らせて奴らを逃がせ。どこかの参謀殿からそんな密命を受けていたりしてな」
「どこかのって……」
新選組に参謀は一人しかいない。良い悪いは別にして、確かに伊東さんならそんなことを言っていたとしても違和感がないけれど。
それでも……。
「もともと出来る限り生け捕るって話だったんだから、意味ないじゃないですか」
「その出来る限り、が信用出来なかったんだろ」
「なっ……」
伊東さんの指示、というのはあくまでも土方さんの憶測、想像でしかないと言うけれど、浅野さんが伊東さんの勉強会に参加している姿を近頃よく見かける。
まさか本当に……?
「ま、証拠なんざねぇし、本人も足が竦んで動けなかったと言って反省してる以上、この件はこれで終いだ」
幕府側も今回の結果に満足しているそうで、そのうち報奨金も出るとか出ないとか。
それに、少し前に土佐藩から制札事件の和解の申し入れがあり、今日はこのあと近藤さんや土方さん、伊東さんといった大幹部が、数名の隊士を引き連れ招かれているという祇園へ行くらしい。
あれから制札が壊されたり川に投げ捨てられるということもなくなったし、これで土佐藩とのわだかまりも残らずに済みそうだけれど。
それでも、好き放題な言われようを思い出すと再びため息がこぼれるのだった。
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