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【 花の章 】―弐―

206 いつかみた夢

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 五月の中旬。
 新暦に直せばおそらく六月も終わり頃で、雨が降ったり止んだりの安定しない天気は、どうやらすでに梅雨入りしているらしかった。

 雨粒が葉を叩く音を聞きながら外廊下の一角に座ると、肌に張り付く着物の袖を肩まで捲り、持ってきた絵草紙を開げた。
 雨のせいで外へ遊びに行く隊士も少ないのか、外廊下を行き交う足音や衣擦れの音は、晴れた日の同じ時間帯よりも多い気がする。
 しばらくして、誰かが私の目の前で足を止めた。

「ここでしたか」

 頭上から降る声に顔を上げれば、そこに立っていたのは伊東さんだった。

「これから勉強会を開くのですが、この雨ですし、出かけないのであれば琴月君も参加してみませんか?」
「えっと……私、頭を使うより身体を使う方が得意なので……。それに、そろそろ稽古場へ行くつもりだったんです。すみません」

 広げていた絵草紙を閉じ、逃げるようにしてその場を離れた。
 最初の頃に何度か参加したせいか、これまでにも声をかけられることはあったけれど、長州から戻ってからというもの頻度が増した気がする。
 とはいえ、その度に断っているのでそろそろ諦めて欲しいところ……と、こっそりため息をつきながら予定していなかった稽古場へと向かうのだった。





 それから数日後。
 梅雨の中休みなのか、前日までのすっきりしない天気は嘘みたいに晴れ、気温も夏本番かと思うほど上昇した。
 今日は斎藤さん率いる三番隊に同行しての巡察だけれど、久しぶりの晴れ間で若干テンションが高めだったせいか、隣を歩く斎藤さんがにやりとしながら私を見下ろした。

「お前はいつも元気だな」

 それはどういう意味……と勘ぐりそうになるけれど、どうやら言葉通りの意味らしい。
 というのも、この時期特有のじめじめとした天気が続いているせいか、ここのところ体調を崩したり食中りで寝込んでいる隊士も多い。

「まぁ、私は丈夫ですしね。なんせ、ふぐを食べても平気でしたから」

 運悪く毒に当たっていたら……なんて想像するだけでぞっとするけれど。
 ふと、私を見下ろす斎藤さんの顔が、驚きと呆れがごちゃ混ぜになっていることに気がついた。

「どうかしましたか?」
「以前、冗談で河豚ふぐを勧めた気はするが、まさか本当に食べるとはな」

 真実を知って後悔したけれどね!
 結局何もなかったわけだし、あのまま知らなければ“美味しかった”だけで済んだのだから。
 でもまぁ、何というか……無知って恐ろしい。
 不意に、斎藤さんの手が頬に触れた。
 冬でもないのに少し冷たいうえに、いつも突然過ぎてびっくりする!

「痺れなど残ってないか?」
「へ? え、ええ、大丈夫です」

 覗き込むように向けられた顔はいつになく大真面目で、心配しているのだとわかるから文句の一つも言いそびれた。
 おまけに、どうせまたからかうつもりなのだろうなんて、そんな失礼なことを思った自分が恥ずかしいと同時に申し訳ない。

 とはいえ、それとこれとは別。その手はいつまでそこにあるのだろうか。
 こっちもこっちで恥ずかしくて、誤魔化すように慌てて口を開く。

「さ、斎藤さんていつも涼しい顔で歩いてますけど、暑くないんですか?」
「暑いぞ」

 いや、全然そんな風には見えないから。
 夏も冬も背筋をしゃんと伸ばし、着物だってきっちり着ている。暑いだの寒いだのと愚痴る姿さえ見たことがない。

「あれですか? 心頭滅却すれば火もまた涼し、とか言う精神ですか?」
「そんな事はない。お前に触れたこの手でどうやってからかってやろうかと、今も雑念ばかりだからな」
「なっ……さ、斎藤さんっ!」

 やっぱりからかおうとしていたのか!
 さっきまでの真面目顔が一転、にやりとする顔は私が払うよりも先に手を離し、抗議など聞こえないとばかりにくくっと喉を鳴らして笑うのだった。





 翌日の朝。
 稽古場へ向かおうと部屋を出れば、前日非番だった原田さんが丁度出勤……というより駆け込んできた。
 家からここまで全速力でやって来たのか、私の前で立ち止まるなり息も切れ切れ言葉を吐き出す。

「春っ! まさが……まさ、が……」
「え……おまさちゃんに何かあったんですか!?」

 背の高い原田さんが腰を折りぜえぜえと両手を膝につく……そんなただならぬ雰囲気に、部屋の中にいる土方さんも険しい顔でこちらの様子を伺っている。
 目の前で大きく上下させる肩を掴むと、息が整うのも待ちきれず、前後に揺さぶり言葉の続きを催促した。

「原田さんっ!」
「……ま、れた」
「はい?」
「昨夜、急に痛みだして……さっきやっと……生まれた」
「あ、赤ちゃん!?」

 ようやく落ち着いたのか、おう、と言って上げた顔には満面の笑みが広がっている。
 部屋の中にいる土方さんに視線で訴えれば、ちゃんと伝わったようで緊張の抜けた顔で苦笑された。

「行って来い」
「はいっ! 行ってきますっ!」

 すぐさま駆け出せば、後ろから原田さんの慌てる声がした。

「ちょ、待てって。俺、今も走って来たばっかりなんだぞ!?」
「待ちませーん! 早く行きますよー!」

 少しだけ振り向いて告げれば、無理だ何だと文句を言いながらも、どこか嬉しそうな顔でちゃんと追いかけて来る原田さんの姿があるのだった。



 ひとあし先に原田さんの家につけば、玄関の前でこの家の主の到着を待つ。
 遅れてやって来た原田さんは、今度はぜえぜえとその場にしゃがみ込んだ。

「ったく……相変わらず、はえーな……」
「原田さん、体力なさ過ぎです」
「俺……昨夜、寝てねーんだよ……」

 そっか。昨夜陣痛が起きて、ようやくさっき生まれたのだと言っていたっけ。
 ちょっとだけ可愛そうなことをしたかな……と、早る気持ちを抑え原田さんの息が整うのを待ってから、部屋の中へと案内してもらった。

 奥の部屋では布団の上におまさちゃんが座っていて、その腕には生まれて間もない赤ちゃんが抱かれていた。

「お春ちゃん!」
「疲れてるところに押しかけちゃってごめんね。どうしても伝えたくって。おまさちゃん、おめでとう!」
「ほんま、おおきに!」

 二人の側へ歩み寄ると、おまさちゃんの腕の中をそっと覗き込む。

「男の子……だよね?」
「うん。しわくちゃの猿みたいで、どっちかわからへんよなあ」

 そう話すおまさちゃんと笑い合えば、後ろからやってきた原田さんが話に割って入った。

「何言ってんだ。ちゃんと立派なもんだってついてるぞ? ま、俺のには負けるけどな!」

 いきなりの下ネタか!?
 何も、生まれたての我が子と競わなくても!

「もう、左之助はんってば!」
「ん? 悪い悪い」

 頬を赤らめながら嗜めるおまさちゃんと、豪快に笑いながら頭の後ろを掻く原田さん。その間には、二人の赤ちゃんもいる。
 そんな仲睦まじい光景にいつかみた夢を思い出せば、頬が緩むのを感じ小さな独り言がこぼれた。

「正夢になって、本当によかった」
「ん? お春ちゃん、なんか言うた?」
「ううん。何でもないよ」

 笑顔で首を左右に振りながら、小さな小さな手を軽くつついてみれば、ぎゅっと捕らわれてしまった。

「あっ。可愛い……」
「この子もお春ちゃんが好きなんやな」
「ふふ。ありがと。えーっと……そういえば名前は?」
「まだつけてへんで」

 この時代、赤ちゃんに名前をつけるのは生まれてから七日目の夜、お七夜しちやと呼ばれる日なのだという。
 それでも候補くらいはあるだろうと興味本位で訊いてみれば、俺はさ……と原田さんが切り出した。

「大樹公から一文字もらって、しげるにしたいと思ってるんだが……」

 つまり、今の征夷大将軍徳川家茂いえもち公から、“茂”の一文字を拝借したいということか。
 けれど、おまさちゃんはあまり納得がいっていないようで、二人は顔を見合わせて苦笑した。
 訊けば大樹公ではなく、原田さんの名前から取りたいのだと。

 それならば……と、双方の案を汲んで考えてみる。
 左之助から拝借して茂をくっつけて……左之茂さのしげ? 茂助しげすけ? 茂之助しげのすけ
 悪くはないけれど……何となくしっくりこない。

 どうやらおまさちゃんも同じことを思ったようで、うーん……と一緒になって苦笑した。
 そんなおまさちゃんが、抱っこしたって、と私に赤ちゃんを託した。

 子供は大好きだけれど、首すら座っていない……ましてや生まれて間もないふにゃふにゃの赤ちゃんを抱っこするのは初めてで緊張する。
 けれど、大丈夫や、と微笑むおまさちゃんの言葉に後押しされながら、無事腕の中にすっぽりと収まった。

 目元はどことなく原田さんに似ているかな?
 鼻はおまさちゃんに似ているかもしれない。

 そんなことを口にしながら、赤ちゃんと笑顔で見守る二人の顔を交互に見比べていたら、ふと、二人の後ろにある開け放たれた障子が目にとまった。
 その先にある青々とした木々の葉は、太陽に照らされ力強く輝いて見える。

「たぶん今はまだ梅雨の最中ですけど……明ければ太陽は眩しいくらい輝くし、生い茂る緑のように、この子もすくすくと大きくなって欲しいですね」
「お春ちゃん、ええこと言うなぁ」
「え?」

 どういうこと? とおまさちゃんの顔を見つめれば、笑顔いっぱいで頷かれた。

「うん。茂って名前、ええかもしれへん!」
「そ、そうかな?」
「春、ありがとな!」
「へ? えーっと……はい!」

 “茂”どころか名前について語ったわけではないのだけれど……笑顔で見つめ合う二人の様子を見ていると、どうやら万事解決、結果オーライらしい。
 とはいえ感謝されるのはむず痒い。逃げるように視線を腕の中の赤ちゃんに移せば、微かに笑ってくれたような気がしたのだった。
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