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【 花の章 】―弐―
173 斎藤さんと藤の花
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江戸出立を数日後に控えたこの日。
おたまちゃんとは朝からずっと遊んでいたせいか、お昼を食べて満腹になると眠くなってしまったらしい。
布団を敷いてあげればすぐさまごろんと横になり、小さな手をゆっくり伸ばして私の手を握ってきた。
「ハウも、ねんね……」
か、可愛すぎる……。
完全に魅了されてしまい、一緒に隣で横になった。呼吸に合わせて小さな背中を軽く叩いてあげれば、すぐに穏やかな寝息が聞こえてくる。
次第に私の瞼も重くなり、とんとんと呼吸に合わせて優しく背中を叩く音が二つ。……二つ?
自分の手を止めれば、背中側から声がした。
「起きたか」
「さ、斎藤さん!?」
寝転んだまま首だけを振り向かせれば、斎藤さんが私の背中を寝かしつけるように叩いていた。
「騒ぐとたまが起きるぞ。今から出る。付き合え」
相変わらず唐突だ。
とはいえ、おたまちゃんも寝てしまったし驚きで眠気も吹っ飛んだので、斎藤さんに付き合うことにした。
試衛館を出ると、斎藤さんの隣を歩きながら訊いてみる。
「どこへ行くんですか?」
「行けばわかる」
それはそうだけれど。
予想通りの回答に深く追求することもせず歩いていれば、突然、斎藤さんが訊いてきた。
「好きか?」
「……へ?」
何を? え、誰をって? まさか、斎藤さんを!?
……って、これはどう考えてもからかわれている!
ふぅと深呼吸を一つして落ちつけば、案の定斎藤さんがくくっと喉を鳴らした。
「亀戸の五尺藤を見に行く」
どうやら亀戸宰府天満宮というところへ藤を見に行くらしい。
つまり、藤の花は好きか? と訊いていたわけか。紛らわしい!
亀戸宰府天満宮には学問の神様で有名な菅原道真が祀られているというけれど、亀戸で菅原道真といえば亀戸天神社だったような?
もしかしたら、私の時代までに名称が少し変わったのかもしれない。そんなことを思いながら亀戸宰府天満宮の境内に足を踏み入れると、仄かに甘い花の香りが鼻を擽った。誘われるように奥へと進めば、そこに広がるのは見事な藤棚だった。
「美しいな」
「はいっ!」
ここの藤は、“亀戸の五尺藤”や“亀戸の藤浪”とも呼ばれ、浮世絵にも描かれるくらい江戸でも人気の場所なんだとか。
薄紫色をした無数の花が藤棚から垂れていて、風が吹くたび一斉に波のように揺れるその様は、どこか幻想的で美しい。
思わず会話も忘れて二人で魅入ってしまった。
「琴月」
「何ですか?」
「人を斬るのは怖いか?」
突然そんなことを訊かれたら驚きそうなものだけれど、目の前の美しい光景に意識が集中しているせいか、不思議と驚きはしなかった。
新選組隊士としてはどうかと思うものの、怖いです、と正直に告げれば小さく吹き出された気がした。
「それが普通だ。お前はそのままでいればいい。どうしても斬らねばならない時は、俺がやる」
「それじゃ、斎藤さんが辛くなるじゃないですか」
だったら私がやります。……なんて軽々しく言えないけれど、斎藤さんに背負わせるのも違う気がする。
「お前も知っているだろう。俺はもう何人も斬っている」
「何人斬ろうと、慣れるものではないと思います」
「慣れねばやっていけないのも、また事実だろう」
それは、そうかもしれないけれど。
藤から横に視線を移せば、表情の読み取れない横顔が長い瞬きを一つしてから、何かを思い出すようにゆっくりと口を開いた。
「俺が初めて人を斬ったのは、十九の時だった」
旗本と口論となり、結果、相手を斬ってしまったのだという。
その日のうちに逃げるようにして京へ上がり、父の友人が開く剣術道場に身を隠していたのだと。
斎藤さんも試衛館のみんなと一緒に上洛したのだと思っていたけれど、そういった理由から京へは先に来ていて、浪士組が結成された直後に合流したらしい。
どんな理由があったにしろ、人を殺めることはいけないことだけれど、斬らなければ斬られ、殺らなければ殺られる。ここではそんな場面が多く存在するのもまた事実だ。
「悲しいですね……」
そんな言葉で片づけられることではないけれど、斎藤さんは少し不思議そうな顔でこちらを見た。
「悲しい?」
「だって、そうするしかなかったんですよね?」
「お前は、俺が先に刀を抜いて斬ったとは思わんのか?」
「……え? 相手が先に抜いて仕方なく斎藤さんも抜いたのかなって思ったんですが……違いましたか? まさか、斎藤さんが先……?」
正当防衛みたいなものだと思っていたけれど、違うのだろうか。
答えを待てば、僅かに口元をほころばせながら説明してくれる。
些細な事で言いがかりをつけられ、刀を抜かれたのだという。同じように刀を抜けと言われ仕方なく抜けば、相手が先に斬りかかってきたのだと。
「考えるより先に身体が動いていた。だが……そんな風に言われたのは初めてだ」
「そうなんですか? たぶん、斎藤さんて無口な印象だから、誤解されちゃうんですよ」
「……そうか」
再び藤に目をやる斎藤さんにつられて私も前を向けば、広がる光景に目を奪われる。
そうしてまた二人で魅入っていれば、しばらくして、そよそよと藤を揺らす風に斎藤さんの声が混ざった。
「春」
思わず斎藤さんの方を向けばゆっくりと見下され、僅かに弧を描いた口がわざとらしく言う。
「どうした? 名前を呼んだだけだが?」
「えっと……はい、そうなんですけど。斎藤さんに下の名前で呼ばれるのは初めてだなって、ちょっと驚いただけです」
おまけに突然だから、余計に驚いたわけで。
「女の格好をした時は“琴”と名乗っているだろう? 琴月と琴じゃどうしても似ているからな。同じ人物だと気づかれやすいかと思ってな」
「あー……確かに……」
私が考えたわけじゃないけれど、やっぱり偽名にしては安直過ぎる。
新しく考えるのは面倒だし今さら変えるつもりもないけれど、最初に命名した土方さんも、どうしてもっと捻った名前にしなかったのかと思えば、ふとある人物を思い出した。
土方さんの許嫁だった、お琴さん……。
二人の関係がどうなろうと私には一切関係ないけれど、命名の理由だけは別。
だって、私は他の誰でもない。私は私だもの……。
いつの間にか俯いていたらしく、頬に添えられた片手に上を向かされた。
「相変わらず、表情が忙しないな」
「そ、そうですか?」
そんなにわかりやすいほど顔に出ているのだろうか。
……って、さらっとそんなことをされても恥ずかしいから!
慌てて頬に触れている手を振り解けば、斎藤さんがにやりとする。
「色々と駄々漏れだな」
「なっ……。心まで読むのはやめてください! だいたい色々って何ですか!」
「そんなに気になるなら、俺が新たに考えてやろう。……“藤”なんてどうだ?」
「藤……」
案外悪くないと思うものの、どうやらまたしても考えていることはバレていたらしい。
ところで、斎藤さんの視線は藤に向いている。つまり、目の前の藤からパッと取ってつけたというわけか。
「安直ですね」
「いくら名前とて、咄嗟に出てくるものなどその程度だろう」
「……まぁ、そうかもしれませんけど……」
だからって、私の偽名を最初に琴と言ったのは土方さんだ。土方さんの元許嫁がお琴という名前だと知ってしまった以上、どうしたって切り離して考えるのは難しい。
納得しきれずにいれば、いきなり鼻をつままれた。
「俺といるのに、他の男のことばかり考えるのは感心せんな」
「ふぇ!?」
どういう意味だ!
いや、そもそもその発言自体、色々とおかしい気がする!
慌てて手を振り解けば、斎藤さんがくくっと喉を鳴らしながら私の頭をポンと軽く叩いた。
「いくら土方さんとて、わざわざ許嫁の名から取ったりはしないだろう。単に、“琴月”から咄嗟に取って付けただけだと思うぞ」
これはもしかして、慰めてくれている? 別に慰めてもらう必要なんてないけれど。
……って、だからどうしてバレているのさ!?
一人あたふたしていれば、頭上にあった斎藤さんの手が頬に滑り落ちてきて、強制的に視線を合わせられた。
「些細な事など忘れて、今は俺を見ろ」
「……へ? 見ていますが。今、私の視界に映っているのは斎藤さんですし」
何当たり前のことを言っているのだろうと首を傾げそうになれば、斎藤さんが珍しく盛大に吹き出した。
「からかうつもりが、今回ばかりはお前の方が一枚上手だったらしい」
「え?」
……って、またしてもからかうつもりだったのか! 全く油断も隙もあったもんじゃない。
そんな斎藤さんのもう少し藤を見てから帰るという提案に乗り、藤見を再開するのだった。
おたまちゃんとは朝からずっと遊んでいたせいか、お昼を食べて満腹になると眠くなってしまったらしい。
布団を敷いてあげればすぐさまごろんと横になり、小さな手をゆっくり伸ばして私の手を握ってきた。
「ハウも、ねんね……」
か、可愛すぎる……。
完全に魅了されてしまい、一緒に隣で横になった。呼吸に合わせて小さな背中を軽く叩いてあげれば、すぐに穏やかな寝息が聞こえてくる。
次第に私の瞼も重くなり、とんとんと呼吸に合わせて優しく背中を叩く音が二つ。……二つ?
自分の手を止めれば、背中側から声がした。
「起きたか」
「さ、斎藤さん!?」
寝転んだまま首だけを振り向かせれば、斎藤さんが私の背中を寝かしつけるように叩いていた。
「騒ぐとたまが起きるぞ。今から出る。付き合え」
相変わらず唐突だ。
とはいえ、おたまちゃんも寝てしまったし驚きで眠気も吹っ飛んだので、斎藤さんに付き合うことにした。
試衛館を出ると、斎藤さんの隣を歩きながら訊いてみる。
「どこへ行くんですか?」
「行けばわかる」
それはそうだけれど。
予想通りの回答に深く追求することもせず歩いていれば、突然、斎藤さんが訊いてきた。
「好きか?」
「……へ?」
何を? え、誰をって? まさか、斎藤さんを!?
……って、これはどう考えてもからかわれている!
ふぅと深呼吸を一つして落ちつけば、案の定斎藤さんがくくっと喉を鳴らした。
「亀戸の五尺藤を見に行く」
どうやら亀戸宰府天満宮というところへ藤を見に行くらしい。
つまり、藤の花は好きか? と訊いていたわけか。紛らわしい!
亀戸宰府天満宮には学問の神様で有名な菅原道真が祀られているというけれど、亀戸で菅原道真といえば亀戸天神社だったような?
もしかしたら、私の時代までに名称が少し変わったのかもしれない。そんなことを思いながら亀戸宰府天満宮の境内に足を踏み入れると、仄かに甘い花の香りが鼻を擽った。誘われるように奥へと進めば、そこに広がるのは見事な藤棚だった。
「美しいな」
「はいっ!」
ここの藤は、“亀戸の五尺藤”や“亀戸の藤浪”とも呼ばれ、浮世絵にも描かれるくらい江戸でも人気の場所なんだとか。
薄紫色をした無数の花が藤棚から垂れていて、風が吹くたび一斉に波のように揺れるその様は、どこか幻想的で美しい。
思わず会話も忘れて二人で魅入ってしまった。
「琴月」
「何ですか?」
「人を斬るのは怖いか?」
突然そんなことを訊かれたら驚きそうなものだけれど、目の前の美しい光景に意識が集中しているせいか、不思議と驚きはしなかった。
新選組隊士としてはどうかと思うものの、怖いです、と正直に告げれば小さく吹き出された気がした。
「それが普通だ。お前はそのままでいればいい。どうしても斬らねばならない時は、俺がやる」
「それじゃ、斎藤さんが辛くなるじゃないですか」
だったら私がやります。……なんて軽々しく言えないけれど、斎藤さんに背負わせるのも違う気がする。
「お前も知っているだろう。俺はもう何人も斬っている」
「何人斬ろうと、慣れるものではないと思います」
「慣れねばやっていけないのも、また事実だろう」
それは、そうかもしれないけれど。
藤から横に視線を移せば、表情の読み取れない横顔が長い瞬きを一つしてから、何かを思い出すようにゆっくりと口を開いた。
「俺が初めて人を斬ったのは、十九の時だった」
旗本と口論となり、結果、相手を斬ってしまったのだという。
その日のうちに逃げるようにして京へ上がり、父の友人が開く剣術道場に身を隠していたのだと。
斎藤さんも試衛館のみんなと一緒に上洛したのだと思っていたけれど、そういった理由から京へは先に来ていて、浪士組が結成された直後に合流したらしい。
どんな理由があったにしろ、人を殺めることはいけないことだけれど、斬らなければ斬られ、殺らなければ殺られる。ここではそんな場面が多く存在するのもまた事実だ。
「悲しいですね……」
そんな言葉で片づけられることではないけれど、斎藤さんは少し不思議そうな顔でこちらを見た。
「悲しい?」
「だって、そうするしかなかったんですよね?」
「お前は、俺が先に刀を抜いて斬ったとは思わんのか?」
「……え? 相手が先に抜いて仕方なく斎藤さんも抜いたのかなって思ったんですが……違いましたか? まさか、斎藤さんが先……?」
正当防衛みたいなものだと思っていたけれど、違うのだろうか。
答えを待てば、僅かに口元をほころばせながら説明してくれる。
些細な事で言いがかりをつけられ、刀を抜かれたのだという。同じように刀を抜けと言われ仕方なく抜けば、相手が先に斬りかかってきたのだと。
「考えるより先に身体が動いていた。だが……そんな風に言われたのは初めてだ」
「そうなんですか? たぶん、斎藤さんて無口な印象だから、誤解されちゃうんですよ」
「……そうか」
再び藤に目をやる斎藤さんにつられて私も前を向けば、広がる光景に目を奪われる。
そうしてまた二人で魅入っていれば、しばらくして、そよそよと藤を揺らす風に斎藤さんの声が混ざった。
「春」
思わず斎藤さんの方を向けばゆっくりと見下され、僅かに弧を描いた口がわざとらしく言う。
「どうした? 名前を呼んだだけだが?」
「えっと……はい、そうなんですけど。斎藤さんに下の名前で呼ばれるのは初めてだなって、ちょっと驚いただけです」
おまけに突然だから、余計に驚いたわけで。
「女の格好をした時は“琴”と名乗っているだろう? 琴月と琴じゃどうしても似ているからな。同じ人物だと気づかれやすいかと思ってな」
「あー……確かに……」
私が考えたわけじゃないけれど、やっぱり偽名にしては安直過ぎる。
新しく考えるのは面倒だし今さら変えるつもりもないけれど、最初に命名した土方さんも、どうしてもっと捻った名前にしなかったのかと思えば、ふとある人物を思い出した。
土方さんの許嫁だった、お琴さん……。
二人の関係がどうなろうと私には一切関係ないけれど、命名の理由だけは別。
だって、私は他の誰でもない。私は私だもの……。
いつの間にか俯いていたらしく、頬に添えられた片手に上を向かされた。
「相変わらず、表情が忙しないな」
「そ、そうですか?」
そんなにわかりやすいほど顔に出ているのだろうか。
……って、さらっとそんなことをされても恥ずかしいから!
慌てて頬に触れている手を振り解けば、斎藤さんがにやりとする。
「色々と駄々漏れだな」
「なっ……。心まで読むのはやめてください! だいたい色々って何ですか!」
「そんなに気になるなら、俺が新たに考えてやろう。……“藤”なんてどうだ?」
「藤……」
案外悪くないと思うものの、どうやらまたしても考えていることはバレていたらしい。
ところで、斎藤さんの視線は藤に向いている。つまり、目の前の藤からパッと取ってつけたというわけか。
「安直ですね」
「いくら名前とて、咄嗟に出てくるものなどその程度だろう」
「……まぁ、そうかもしれませんけど……」
だからって、私の偽名を最初に琴と言ったのは土方さんだ。土方さんの元許嫁がお琴という名前だと知ってしまった以上、どうしたって切り離して考えるのは難しい。
納得しきれずにいれば、いきなり鼻をつままれた。
「俺といるのに、他の男のことばかり考えるのは感心せんな」
「ふぇ!?」
どういう意味だ!
いや、そもそもその発言自体、色々とおかしい気がする!
慌てて手を振り解けば、斎藤さんがくくっと喉を鳴らしながら私の頭をポンと軽く叩いた。
「いくら土方さんとて、わざわざ許嫁の名から取ったりはしないだろう。単に、“琴月”から咄嗟に取って付けただけだと思うぞ」
これはもしかして、慰めてくれている? 別に慰めてもらう必要なんてないけれど。
……って、だからどうしてバレているのさ!?
一人あたふたしていれば、頭上にあった斎藤さんの手が頬に滑り落ちてきて、強制的に視線を合わせられた。
「些細な事など忘れて、今は俺を見ろ」
「……へ? 見ていますが。今、私の視界に映っているのは斎藤さんですし」
何当たり前のことを言っているのだろうと首を傾げそうになれば、斎藤さんが珍しく盛大に吹き出した。
「からかうつもりが、今回ばかりはお前の方が一枚上手だったらしい」
「え?」
……って、またしてもからかうつもりだったのか! 全く油断も隙もあったもんじゃない。
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