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【 花の章 】―壱―

163 山南さんの脱走とその結末⑤

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 部屋へ戻ると、障子の前で腕を組んで立ち、暗くなり始めた空を見上げる土方さんの背中があった。
 無言のまま隣に並べば、土方さんはこちらを見ることなく口を開く。

「悪いが、お前には立ち会わせない」
「……え?」

 それは、山南さんの最期を見届けさせてもらえないってこと?
 何で……山南さんや沖田さん、ううん、みんながそうしたように私だって覚悟を決めたのに!
 土方さん曰く、今回の切腹に立ち会うのは幹部だけなのだと。何より、山南さんが私の立ち会いを拒んでいるのだという。

「そんな……」
「これが本当に最後になる。きちんと別れをして来い」

 ここで駄々をこねてもきっと変わらない。土方さんを責めるのも違う。
 だから、部屋を飛び出し山南さんのもとへ走った。



 切腹の間にまだ他の人の姿はなく、山南さんは相変わらず落ちついた様子で座っていた。

「どうしてですか……。私にも、最期まで見届けさせてください」

 開口一番詰め寄るも、山南さんは穏やかな顔で首を左右に振る。

「これは総長としての命令だよ。それとも、琴月君も私の言うことなんてきけないかい?」
「それは……」

 反論の一つもできないまま言葉を失えば、山南さんはまるで悪戯っ子のように微笑んだ。

「今回は、歳より上手な意地悪だろう?」

 笑えない。こんなの全然笑えないのに!
 普段は優しい山南さんにも頑固な一面があることは、すでに嫌というほど思い知らされた。
 きっとこれも、覆すことはできないのだと瞬時に悟ってしまえば……もう、嫌でもこうするしかない……。

 山南さんの笑顔に、バラガキのほうがよっぽど可愛いとさえ思えるその笑顔に……つられたように笑ってみせた。

「本当です、よ……」

 笑っているはずなのに声が小さく振るえてしまったのは、涙が溢れたせいだった。
 それでも、山南さんの意地悪を、勝手にこぼれてくる涙同様抗うことを諦め受け入れた。
 この選択が正しいのか間違っているのか、そんなことはもうどうでもよくて、救うことができなかったこの人の願いを叶えたい、ただそれだけだった。
 とめどなくあふれる涙を拭ったりしないのは、ささやかな反抗だ。

「私はもう見ることができないけど、こんな殺伐とした世の中じゃなく、みんなが……君が心から笑って過ごせる泰平の世がやって来ることを願うよ」

 そう話す穏やかな顔に憂いを見つけてしまい、どうしようもなく胸が締めつけられた。
 どんな些細な不安も取り除きたいと、そう思った。

「……来ますよ。絶対に、来ます。……だって、私はここからずっと先の、そんな泰平の世から来ましたから……」

 山南さんの目が大きく見開かれたのは一瞬で、すぐに微笑みを取り戻した。

「……そうか。良かった」
「信じてくれるんですか?」
「勿論さ。君は嘘を吐くのが下手だからね。それに、君の笑顔を見ていればわかるさ。きっと君だけじゃない、誰もが心から笑い合える世の中なのだろうと想像できるよ」

 そう話す山南さんに、今まで黙っていたことを謝り全て打ち明けた。
 謝ることじゃない、と首を横に振りながらも、みんなは知っているのかと心配そうに訊いてくれる。
 だから、土方さんは全て知っているけれど近藤さんには何一つ話していないこと、心苦しく思いつつも隠している理由を話した。
 面倒見がよくて優しい近藤さんは、私を守るために安全な場所へ遠ざけてしまうだろうから、と。

「そうか。きっと、歳に口止めされていたのだろう?」
「……はい。でもそれは私のためで……」
「安心して、歳を責めているわけじゃない。私が歳の立場でも、きっと同じ事をするさ」

 そう言って微笑むも、突然表情を曇らせた。

「悲しい出来事が起こるたびにまるで自分を責めるかのように苦しんでいたのは、君が未来から来たからだったんだね」
「……はい」
「もしかして、私がこうなることも知っていたのかい?」

 決して問い詰めているわけじゃない。責めているわけでもない。
 ただの好奇心だということはすぐにわかったけれど、冗談で済ますことも流すこともできず、突如膨れ上がった感情は再び大粒の涙となって溢れた。

「……はい。だから……ごめんなさい。本当に、ごめん、なさい……」

 謝ったって謝りきれない。それでも、それ以外の言葉を私は知らない。
 手で、着物の袖で、今度ばかりは必死で拭っているのに止まらなくて、涙と一緒に何度も何度も同じ言葉を吐き出した。

「すまない。今のは意地悪が過ぎたね。君に手を上げてしまったあの日、何があっても君を守ると誓ったはずの私がこんな顔をさせてしまうのだから、私も悪い人間だね」
「そんなこと!」

 言葉の代わりに必死に首を横に振って訴えれば、山南さんは苦笑した。

「それじゃあ、一つ約束をしてくれるかい?」
「……約、束?」
「ああ。笑顔を失くさないと。これは私自身が選んだ道なのだから、君が気に病む必要は何一つない。こんなところで挫けてしまうほど、君の心は弱くないはずだよ」

 ――何があっても君を守ると誓おう――

 あの日、確かに山南さんはそう言ってくれたのに。
 一緒に満開の桜を見ると言った約束同様反故にしようとしているくせに、こうして一方的に新たな約束をするなんてズルい。
 私が断れないとわかってて言っているのだから、なおさらだ……。
 それなのに、山南さんは私の目をじっと見つめたまま勝手に言葉を紡いでいく。

「暑い夏も秋になれば落ちつき、やがて厳しい冬がやって来る。でもね、どれだけ冷たい雪に覆われようと春は必ずやって来て、また草花を芽吹かせる。そんな始まりの季節と同じ名を持つ君の笑顔は、周りのみんなを幸せにする力があると思うんだ」
「そんなの私には……」
「新選組はこれからも大きくなっていくと思う。だが、その代償もきっと大きなものになる。そんな時こそ真っ直ぐで強い君の心とその笑顔は、みんなを暖かく照らすことができる。だからね、春。君は笑っていて」

 そう言って両手を伸ばす山南さんが、私の濡れた頬にそっと触れた。左腕はどこか覚束ないけれど、涙を拭うように優しく撫でていく。
 私には何の力もないし強くもないけれど、それでも山南さんが望むのならそうしたい。そうありたい。
 だから、山南さんの左手に私の両手を添え、その顔を真っ直ぐに見た。
 どうしたって止まらない涙は山南さんの手を汚すばかりだけれど、精一杯の笑顔で頷けば満足そうに微笑み返してくれる。
 このまま時が止まってしまえばいいのに……。

「そろそろ時間だね」

 頬に添えられた手が離れそうになり、思わずぎゅっと握りしめれば苦笑された。

「最後に近藤さんにも挨拶をしておきたいから、申し訳ないが呼んできてもらえるかい?」
「……はい」

 それはきっと、この部屋を出る勇気が持てない私の背中を押すための、山南さんの気遣いだ。
 これ以上は困らせたくなくて、最後にもう一度ぎゅっと握りしめてから立ち上がった。

 切腹に立ち会えない私はこれが本当に最後だから、悲しみで終わらせるわけにはいかなくて……立ち止まらず襖の前へいき、勢いのまま開けて部屋の外へ出る。
 そこでゆっくりと身体を反転させれば、相変わらず微笑んだままの山南さんがいた。

「満開の桜を見る約束は違えてしまったけど、たとえ側にいなくても、君を守るという約束まで違えるつもりはないんだ」

 死んでしまったら約束も何もない。一時的な慰めの言葉だとわかっていても、今の私には頷くことしかできなかった。
 そして、そんな私が立ち止まらないように、山南さんが笑顔で最後の言葉を告げる。

「琴月君。さよならだ」
「私……山南さんのこと一生忘れません……。今まで、ありがとうございました」

 すぐさま深く一礼をした。次に顔を上げるその一瞬だけは、笑顔を作るために……。

 震えていたかもしれないし、ぎこちなかったかもしれない。
 それでも、精一杯の笑顔を作ることはできたのだと思う。だって、襖を閉じる直前まで見ていた山南さんは、満足そうに笑っていたのだから。



 近藤さんの部屋へ寄ったのまでは覚えている。そのあとは、どうやって部屋まで戻ってきたのかな……。
 気がつけば、目の前にはまだ微かに光りをおびた紺色の空を見上げる、大きな背中があった。

「済ませてきたか?」
「……はい。お別れ、してきました……」
「そうか」

 振り返ろうとする背中の着物を慌てて握りしめ、そのまま額を預けた。

「また、辛い思いさせちまったな……」

 温かな背中はそれ以上動かずにいてくれるから、とめどなく溢れる涙もこぼれる声も、何一つ隠すことなく子供のように泣いた。
 どれだけ泣いても全然止まらなくて、本当はこのまま縋っていたいけれど、土方さんにはまだやるべきことがある。
 そっと額を離せば土方さんもゆっくりと振り返り、視界の端から伸びてきた手が私の涙を優しく拭った。

「お前の分も、ちゃんと見届けてくる」
「……はい。お願いします……」

 土方さんを見送って、そのまま縁側に腰掛けた。
 淡い光すら失くした空にまだ月はなく、代わりにたくさんの星が輝いている。そんな星明りでさえ今はやたらと眩しくて、目を閉じた。

 どれくらいそうしていたのか、ふと目を開ければ濃紺の空から星が一つ、はらはらと私の隣に舞い落ちた。
 よく見るとそれは、桜の花びらだった。

「どうして桜が……?」

 この辺りの桜はまだ咲いていない。どこから飛んできたのかと指を伸ばすも、突然吹いた風が空高く舞い上げてしまった。
 それはまるで、再び夜空へ戻っていく星のようだった――



 しばらくして部屋へ戻ってきた土方さんが、黙ったまま私の隣に腰を下ろし、一緒になって暗い空を仰ぎ見た。

「俺たちは、どこで間違えたんだろうな」

 微かに震えるその声は、風音にさえ掻き消されてしまいそうなほど小さい。思わず隣に視線を移せば、星明りを反射してキラキラと輝く涙が一滴、空を見上げる頬を伝い落ちた。
 綺麗……そんな言葉が似合うくらい油断すれば飲み込まれそうだけれど、黙ってなんかいられなかった。

「間違えていません。誰も、何も……。だから、間違えたなんて言わないでください」

 誰に言われたわけじゃない。みんな自分で選んだ道を自分の足で歩いているだけだ。
 そんな言葉で片付けてしまったら……。

「山南さんの死まで、間違いになってしまいます」
「じゃあ、何であの人はわざわざ今日切腹したんだ!? 俺のことを恨んでるからじゃねぇのかっ!」

 勢いよく振り向いた土方さんは、涙のまま声を荒らげた。
 そんな土方さんの顔に腕を伸ばし、そっと自分の肩に引き寄せる。こんな風に誤解したまま歩いて欲しくないし、誤解されたままなんてやっぱり悲しいから。
 心の中で山南さんに謝ると、無抵抗な背中をトントンと叩きながら、山南さんが私にしてくれた話をした。
 上洛した二年前の今日、そして、山南さんのいなくなった今日。どちらも忘れて欲しくないと言っていたことも。

「……んだよ、それ……。格好つけやがって……」
「はい。でもそれが、山南さんが自分で選んだ道なんです。だから土方さんも、しっかり自分の道を歩いてください」
「俺の……」
「本物の武士になるんじゃなかったですか? 新選組を大きくするんじゃなかったですか? 土方さんの肩には、すでにたくさんの人の死が乗っているんです。もちろん山南さんも……。だから、途中で投げ出したりなんかしないでください……って、山南さんも言ってました」

 ほんの少しの沈黙のあと、土方さんが肩口で小さく吹き出した。

「揃いも揃って、俺をどれだけ鬼にさせる気だ」
「何を今さら……です。土方さんは、とっくに鬼の副長じゃないですか」
「……ああ。そうだったな」

 自嘲するような声はまだ少し震えていて、背中だって小刻みに揺れている。
 不意に、両腕が私の背中へと回された。

「悪ぃ、今だけだ……」

 返事の代わりに再び背中を優しく叩けば、腕の力に合わせてこぼれる嗚咽が静かな夜に消えていくのだった。
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