落花流水、掬うは散華―歴史に名を残さなかった新選組隊士は、未来から来た少女だった―

ゆーちゃ

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【 花の章 】―壱―

160 山南さんの脱走とその結末②

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 次第に日も傾いて、一頭と二人の影が道の先に長く伸び始めた頃。
 草津宿一つ手前の大津宿につけば、私と沖田さんを呼ぶよく知った声が聞こえた。
 急速に嫌な鼓動を刻む心臓を押さえながら声のした方を向けば、そこには、お茶屋の縁台に腰掛けお団子片手に微笑む……山南さんがいた。

「なん、で……」

 ずり落ちるようにして馬から降りると、山南さんの元へ駆け寄り問い詰めた。

「なんでのんびりお団子なんて食べてるんですか!!」
「ちょうど二年前の今日もここにいたなぁと思ったら、懐かしくなってしまってね」

 そう言って山南さんは、のんきにお茶まで啜った。
 二年前の今日、江戸から京へ向け上洛していた浪士組一行は、ここ大津宿に泊まったのだという。
 側へ来て馬を降りた沖田さんが、山南さんに手綱を差し出した。

「江戸へ行くんですよね? これを使ってください」

 けれど山南さんは、手綱を受け取るどころか僅かに顔をしかめた。

「もしかして、私が出て行ったことをみんなは知らないのかい?」
「いいえ~。総長が脱走したと大騒ぎでしたよ」
「なら、どうして追手が二人だけなんだい?」
「ちょうど、見廻組といざこざが起きたんですよ」
「それは、総長の脱走よりも大事おおごとなのかい?」

 なんで自分で脱走って言っちゃうかな……。
 これ以上黙っていることができなくなって、声を上げそうになるも沖田さんの方が早かった。

「このまま逃げろってことです」

 さっきまでの軽い口ぶりではなく、珍しく真面目な声音だった。
 けれど、山南さんは呆れたように大きなため息をついた。

「相変わらずだね。でも、私は逃げないよ。誰も連れ戻しに来なかったら、どの道明日には屯所へ戻るつもりだったんだ」
「戻るって……散歩から帰るだけみたいな言い方しないでください!」

 思わず声を荒らげる私に向かって、山南さんは微笑んだ。

「勿論、きちんと罰を受けるために帰るんだよ」
「罰を受けるって……」
「局中法度にもあるだろう? 脱走した者は切腹だからね」

 目の前の人が何を言っているのか、理解できないししたくない。
 迂闊に開いてしまえばどうしようもなく溢れてしまいそうで、震える手の先をぶつけることも、込み上げてくる怒りを言葉にすることもできず、ただ強く拳を握り唇を噛んだ。
 
 夕焼けが滲む視界はほんのりと赤に包まれて、落ちた視線の先では影が細く伸びている。
 まだ人通りもあって賑やかなはずなのに、ここだけが音を失くしたみたいにしんと静かで……そんな沈黙を破ったのは沖田さんだった。

「今から帰るには遅いです。今日はここで一泊しましょう」

 馬を置いてきます、と返事も待たずに沖田さんが馬を引いて行けば、ゆっくりと立ち上がった山南さんが右手を私に伸ばした。
 ほんの一瞬ためらうように動きを止めるも、そのまま頬に触れたかと思えば今度は遠慮なく親指で私の唇をそっと撫でる。

「そんなに強く噛んだら切れてしまうよ?」

 そんなことどうだっていい。私の心配なんてしている場合じゃないのに、山南さんの優しさが今は苦しい。
 どうしようもなく苦しくて、息を吸うように口を開けば勝手に言葉がこぼれた。

「どうして、あんな書き置きなんてしたんですか……」

 あんな物を残しさえしなければ、きっと脱走なんてことにはならなかったのに。
 そっと手を離した山南さんが、落ちついた声で静かに言う。

「どうしてかな……。江戸へ行きたいと、そう思ったんだ」
「なら、このまま江戸へ行ってください」

 山南さんを見つけることはできなかった、私と沖田さんがそう報告すればいいだけの話だ。
 俯けた顔を上げてもう一度江戸へ行くようはっきりと告げるも、山南さんはゆるりと首を左右に振った。

「上洛する前、私たちが試衛館に身を寄せていたことは知っているかい?」
「……はい。以前、井上さんから聞きました」
「あの頃は、みんな自分たちも国のために何かを為せないかと、夜な夜な語り合っていてね」

 酒が入ればただの馬鹿騒ぎになるのは必然で、女性陣にまたかと呆れられるまでがお決まりだったのだと。
 それでも、それぞれの想いを胸に共有するあの時間は、今となってはかけがえのないものだった……と懐かしむように話しながら、最後にぽつりと呟いた。

「そんなあの頃の江戸へ行きたいと、そう思ってしまったのかもしれない」

 どこか遠くを見つめる山南さんの顔は、いつものように優しく微笑んでいる。
 微笑んでいるのに、酷く儚く見えた。



 窓の向こうの空は、もうすっかり夜だった。
 夕餉なんてそっちのけで説得を試みるも、山南さんは首を左右に振るばかり。それどころか、私たちの正面でお酒を飲むその顔はずっと穏やかで、それがなおさら私たちを苦しめた。
 次第に口数が減った沖田さんは杯を空にするペースが早くなり、今日はまだ一口も飲んでいない私の心臓も、もうずっと煩くて仕方がなかった。

「何でこんな……」

 そんな独り言のような呟きを拾い上げた山南さんが、ゆっくりと、穏やかに、いつもの優しい表情で言葉を紡いでいく。

 元々伊東さんのように勤王よりの思想だったという山南さんは、池田屋以降、新選組が名を上げれば上げるほど幕府よりになっていくことに苦悩していたのだと。
 それ以上に、過激な長州にしてもそれを取り締まる新選組にしても、根底にあるものは同じはずなのに、どうして傷つけあわなければならないのかと。

「だから脱走、その名の通り、私は逃げ出したんだ」

 それまで黙って飲んでいた沖田さんが、手にした杯を一気に飲み干し大げさに首を傾げてみせた。

「伊東さんに感化され過ぎちゃいましたか~?」
「確かに、伊東さんの考え方に共感する部分はたくさんあるかな。それに、剣の腕も学もあって、これからの新選組には必要な存在だとも思うよ」
「別に、僕はいりませんけどね」

 さらっと拒否する沖田さんに、山南さんが小さく吹き出した。

「伊東さんの志は高く、確固たる信念を持っている。もしもこの先、明確に道を分かつ時がきたとしたら、伊東さんは他の何を捨ててでも迷わず我道を行くだろう。そして私は、そんな彼を少しだけ羨ましいとも思うよ」

 そう言って苦笑する山南さんに、沖田さんもつられたように笑顔を見せた。

「信念と情の狭間で苦しむくらいなら、僕らのことなんてさっさと捨ててしまえばよかったんです。でも、それをしないところが敬助さんらしいんですけどね」

 苦笑する山南さんから視線を外した沖田さんが、悔しそうに呟いた。

「本当に、優し過ぎる……」

 そんな沖田さんを見つめる山南さんの表情は優しくて、こんなに優しい顔をする人がどうして切腹なんてしなければいけないのだろうか……と一層胸が苦しくなる。

 理由も時期も知らなかったとはいえ、脱走を阻止することができなかった私にできること。
 たぶん、もうこれしかない。

「本当にこのまま屯所へ帰るのなら、私、近藤さんと土方さんに掛け合ってみます」
「何を掛け合うんだい?」
「切腹にならないように、です」

 このまま逃がそうとしていた二人なら、謹慎程度で済ませてくれるかもしれない。

「法度を破った者は切腹、それが決まりだよ」
「でもっ、山南さんは総長です! それに……試衛館からの仲間です。だからきっと――」
「それでは駄目なんだよ」
「何でですか!? みんな山南さんを失いたくないって思ってるんですよ!?」

 思わず声を荒らげる私とは反対に、山南さんは決して感情的になることなく語り出す。
 幹部は許される。幹部と繋がりの深い人間は許される。そんなことがまかり通ってはいけないのだと。
 それをしてしまえば局中法度は局長や副長の采配次第ということになり、いずれ隊士たちから不満が噴出、そうなればいとも簡単に瓦解してしまう。そうなってからでは遅いのだと。
 局中法度を作りそれを行使してきた結果、何人もの人が亡くなっていて、そこに例外があってはならないのだと。

「たとえ名前だけの総長だったとしても、ね」

 葛山さんや西本願寺のことで土方さんと衝突までしていたけれど、それまでは口にしなくても、お互い信頼しあっているように見えたのに。
 こんな風に脱走して切腹までしようだなんて、まるで当てつけみたい……。
 もしかして山南さんは……。

「土方さんのことが嫌いになっちゃったんですか……?」

 的はずれで幼稚じみた質問だってことはわかっている。それでも訊かずにはいられなかった。
 正面を見たままじっと答えを待てば、山南さんは私を安心させるかのようにゆっくりと首を左右に振った。

「勿論本音を言えば、歳があそこまで強く反対しなければ、総長としての私の意見も通ったかもしれない……そう思うこともあったよ。そういう意味では、この脱走は抗議にも見えるかもしれないね。でも、それでいい……」
「それでいいって……」
「新選組を大きくするには、より強く統率を図らなければならない。局中法度を作った歳の肩には、たくさんの人の死が乗っている。だからこそ最後まで貫かなければならない。そこに甘さは必要ないんだよ」

 淡々と言葉を紡ぐ山南さんに、沖田さんが微笑んだ。

「なら敬助さんは、土方さんが投げ出さないようそこから見張るんですか? 土方さんなんかよりよっぽど鬼ですよ」
「そうだね……そうかもしれないね」

 そう言って微笑む山南さんの顔に、迷いは一つも見られない。
 芹沢さんの時と同じ。とうに覚悟はできている、そんな顔だった。



 夜も更けると三組の布団を並べ、山南さんを真ん中にして川の字で寝転がった。
 どんなに怒って泣いて縋っても、きっと山南さんの意志は変わらない。どれだけ自分を責めても後悔しても、もうどうにもならない。
 己の無力さと突きつけられた現実に、溢れてくる涙を隠すのが精いっぱいだった。

 どれくらいそうしていたのか、泣き疲れて途切れていた意識は、襖を挟んだ隣の部屋から聞こえる二人の話し声に引き戻された。

「総司、私の分も近藤さんと歳を頼んだよ」
「どうして僕に頼むんです……近藤さんはともかく、土方さんの面倒まではみきれませんよ。だから敬助さんが――」
「総司。今の私は大刀を振るうことはできないが、小刀は使える。でもね、ここでまた逃げ出してしまったら、私の心はきっと、それすらもできなくなってしまう。そうなってしまう前に、武士として果てたいんだ」

 それ以上沖田さんが言葉を発することはなかった。
 代わりに聞こえてきたのは、静かな夜に響く、沖田さんのすすり泣くような声だった。
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