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【 落の章 】

009 壬生浪士組④

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 沖田さんが出ていったあとの部屋は、耳を澄まさなくても、庭先からの虫の音が聞こえるほどに静かだった。
 文机に向かう土方さんの背中は忙しそうで、布団を畳んでみるも他にすることもない。仕方なく開け放たれた障子の側で、徐々に赤みを増していく空をぼーっと眺めていた。
 不意に、襖の向こうから声がした。

「土方さん、斎藤です」

 今度は勢いよく襖が開くこともなく、斎藤と名乗る人は行儀よく土方さんの返事を待っている。
 土方さんが入れと言えば静かに襖が開かれて、入ってきた斎藤さんと目が合った。大きめの瞳に似合わず、その眼光はとても鋭い人だった。

 そういえば沖田さんもそうだけれど、兄が言うヒーローたちの中に、斎藤という名前もあったっけ。
 確か……。

斎藤さいとう……はじめ?」


  つい口に出してしまったせいか、斎藤さんの視線が一瞬にして険しいものに変わった。慌てて誤魔化そうとするも、土方さんが遮る。

「斎藤、用件は?」
「隊士から、苦情が入ったとの報告を受けました」
「またかよ……」

 詳しい内容はよくわからなかったけれど、芹沢さんや新見さんの名前が出ていたことだけはわかった。そして、土方さんのうんざりした様子から、何度も同じような苦情が入っているということも。



「では、俺はこれで」

 話が終わると斎藤さんが立ち上がった。直後、私の腹部から盛大な音がして、一斉に今のはお前か? という視線が突き刺さる。

 いや、空気読んでよ私のお腹……こんな格好していても中身は一応女子だよ? かなり恥ずかしいのだけれど。
 でも無理。もう限界!

「すみません、お腹空きました……」
「そういやお前、気失っちまったから、朝、食ったきりだったか」

 そして今は、空に夕焼けが広がっている。

「まぁ、もう少しだけ我慢しとけ。じき夕餉だ。……それから斎藤、非番のとこ悪いんだがちょっと頼まれてくれねぇか?」

 なっ……あんなに自己主張をしたお腹に待てですと!?
 土方さんの鬼っ!

 恨めしさ全開で土方さんを見つめるも、じろりと睨み返された。
 だから怖いってば!
 そんなことはお構いなしに、土方さんが斎藤さんに指示をだす。

「こいつに屯所の中を案内してやってくれ」
「承知。では、琴月……だったか? ついて来い」
「は、はい! お願いします!」

 空腹を誤魔化しつつ、さっさと出て行ってしまった斎藤さんのあとを追いかけた。

 斎藤さん曰く、私が今いるのは前川邸で、壬生浪士組はここと、道を一本挟んだ先にある八木邸に分宿して屯所としているらしい。芹沢さんと新見さんは、普段は八木邸の方にいることも教えてくれた。
 そして、最初に案内してくれたのは台所で、私の知っているキッチンとはほど遠く、コンロの代わりに竈が置いてあった。実際に目にするのは初めてで、物珍しさについじっと見ていれば、突然、握りたてのおにぎりを手渡された。

「いいんですか!?」
「ああ。だが夕餉も近い。一つだけだ」
「ありがとうございます! いただきます!」

 ただの塩むすびだけれど、とっても美味しい。
 あっというまに小さくなって、最後の一口を詰め込むと斎藤さんが訊いてきた。

「俺を知っているのか?」
「え? あっ、ん……んんっ!」

 おにぎりが詰まり慌てて胸を叩けば、斎藤さんが見かねて用意してくれた水で一気に流し込む。

「ふぅ……すみません。えっと……土方さんです。土方さんから聞いていました!」

 申し訳ないとは思いつつ、咄嗟に誤魔化した。

 屯所の案内が再開すると、斎藤さんのあとをついて歩く。斎藤さんは口数が少ない人なのか、台所を出てからの案内は簡潔で、説明以外の言葉を交わすことはほとんどなかった。
 その後ろ姿は、土方さんや沖田さんほど長くはない髪を高すぎない位置で一つに結っていて、歩みに合わせて規則正しく揺れている。その様をじっと見つめていたら、突然、視界いっぱいに背中が広がり危うくぶつかりかけた。

「舞っているようだった」
「え? ……な、何がですか?」
「今朝の、新見さんの剣を避けている時だ。まるで、舞を舞っているようだった」
「あれは……そんなんじゃないです」

 そんな優雅なものじゃない。酷い揺れと目眩に耐えながら、ゆっくりと繰り出される刀をただ避けていただけなのだから。

「謙遜するな。だが、剣を振るえるような身体には見えんのだがな」

 そう言うなり、斎藤さんがくるりと振り返る。
 突然、私の両腕を横に上げたかと思えば両方の手首を掴み、むぎゅっむぎゅっと握りながら肘を通り二の腕へ。そのまま脇腹から腰へと滑っていく。

「ひゃっ! あっ、あのっ。さ、さっ、斎藤さんっ!?」
「まるで女のような身体だな」
「い、いや、あのっ。は、離してもらっていいですかっ!?」
「反応まで女だな」

 何でもいいから離してーっ!
 そう訴えたいのに、金魚のように口をパクパクさせることしかできない私を、斎藤さんはおかしそうに見下ろしながら、くくっと喉を鳴らして笑っている。
 さっきまでの寡黙で真面目そうなイメージが、音を立てて崩れていくのだけれど!

「とにかく、もう少し鍛えた方がいい」

 満足したのか、やっと解放してくれた。
 煩い心臓を落ちつかせつつ、真っ赤であろう顔を手で軽く扇いでいると、あることを思い出した。

「そ、そういえば……沖田さんが稽古をつけてくれるって言ってました」
「ほう、沖田が。お前も物好きだな」
「え? どういう意味ですか?」

 土方さんも含みのある言い方をしていたし、沖田さんの稽古っていったい何!?
 訊いても答えてくれない斎藤さんは、口の端を吊り上げるもすぐに真面目な表情を見せた。

「琴月。お前が本当に剣術を学びたいというなら俺もみてやろう。遠慮なく声をかけろ」
「あ、ありがとうございます」

 一通りの案内は終わっていたようで、部屋へ戻ると斎藤さんは書き物をしている土方さんに声をかけ、きちんと礼をしてから出て行った。
 静けさに包まれる部屋のなか、さっきの斎藤さんの言葉を思い出す。

「そういえば、斎藤さんも稽古をつけてくれるって言ってました。何だか不思議な気分です」

 兄が口にしていたヒーローたちの名は、実在した人物とはいえ同じ時代を生きる人たちではなくて。昔話やおとぎ話の登場人物と何ら変わらない、そんな感覚だったから。
 そんな人たちが目の前にいるだけで驚きなのに、私に剣術の稽古をつけてくれるだなんて。それはまるで、自分自身が物語の中に入り込んでしまったような、そんな感覚さえするから。
 まぁ、タイムスリップじたいが、おとぎ話みたいなことなのだけれど……。

「そういや、斎藤を知っていたのか?」

 土方さんが、すらすらと筆を走らせながら訊いてきた。
 斎藤さんが最初にこの部屋へやって来た時、名字しか名乗らなかったのに、私が下の名前まで口にしてしまったからだろう。
 はい、と正直に答えれば、滑らかな筆さばきがピタリと止まった。

「なぁ、お前は俺たちのことをどれくらい知ってるんだ?」
「昨日も言ったと思いますが、壬生浪士組のことは本当に知りません。ただ……」
「新選組……か」
「はい。私が知っている新選組になら、土方さんも斎藤さんも、沖田さんもいます。でもここは……」
「壬生浪士組だ」

 予想通りの答えが返ってきた。
 私からすればどう考えても新選組なのだけれど、これ以上はまた睨まれそうで口をつぐんだ。
 再び書き物に戻ったのか、夕日の差し込む部屋には、紙の上を滑る微かな筆の音だけが響いていた。
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