落花流水、掬うは散華―歴史に名を残さなかった新選組隊士は、未来から来た少女だった―

ゆーちゃ

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【 落の章 】

003 揺れる世界

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 すぐに顔を上げれば刀身が頭の右側を掠めようとしていて、咄嗟に低い姿勢を取って左に避けた。
 避けたけれど……何だろう。やけにゆっくりとした動きに見えたのは、気のせい、かな。

 男は一瞬驚いた様に目を見開くも、偶然とはいえ結果的に空を斬ることになり、さらに逆上した様子だった。
 同時に、それまで無表情だった熊さんも、ほう、と目を見張る。

「おのれっ!」

 男は剥き出しの感情を吐き捨てるや否や、再び刀を振り上げる。そして振り下ろされるその間際、またしても世界が揺れた。

 ――違う。
 世界が揺れたんじゃない。私の……私の頭の中が揺れたんだ!

 目眩を起こしそうな一瞬の激しい揺れをやり過ごすと、振り下ろされる刀はとてもゆっくりで、なぜか何も聞こえなくなっていた。
 この感じ、一緒だ。車に轢かれたあの時と……。

 自分の身に何が起きているのかはわからない。それでも、確実に迫り来るその剣筋から逃れるように、大きく身体を傾けた。
 軌道から外れたその瞬間、世界は何事もなかった様に回りだし、ザクッという音が響く。私が座っていたその場所には、刀の切っ先が深く刺さっていた。

「……え」

 そして気がついた。
 これはレプリカなんかじゃない、本物なのだと。

 全身の血が凍りついたような感覚がした。本能が煩いほど警笛を鳴らしているのがわかる。
 逃げろ、と。

 理屈なんてもうどうでもよかった。足に自信があるとか逃げ切れるのかとか。そんなことを考える隙もなく、ただ逃げ出すためだけに身体が勝手に動いていた。
 迫り来る殺気だった怒声と足音を背に、振り返る余裕すらなく一心不乱に走った。

 今日一日全くついていなかった私にも、ようやく神様は救いの手を差し伸べてくれたのかもしれない。
 前方にある土塀の切れ間から現れた人影が二つ、藁にも縋る思いで形振り構わず叫んだ。

「たっ、助けて下さいっ!!」

 助かるかもしれないという期待が、油断を生んだのかもしれない。
 全力で走っているのに叫んだから、バランスを崩しただけかもしれない。
 どちらにせよ、再び神様に見放されたらしい私は、それはもう派手に転がった。

 状況を理解したらしい二人組が、制止の声を上げながら私の元へと駆け寄って来るけれど、すぐ後ろに迫った男の刀の方が早い。

 今度こそ終わったかも……。

 “女子高校生、コスプレしたヤクザに日本刀で斬られる!”
 そんなニュースが流れるのかな。
 ……あ、卒業したからもう高校生じゃないけれど。

 死を目前にしたこの状況でそんなことを考えた自分に呆れるけれど、ただ理不尽に殺されるだなんてそんなのは嫌。
 せめて一矢報いてやれないかと男を睨めば、ぐらりと揺れる世界から音の全てが消え、振り下ろされる刀は速さを失った。

 ――ッ、助かるっ!!

 確信とともに剣筋を見切り、軌道の外へ出ると同時に地を蹴った。
 世界はすぐに音を取り戻し、駆けつけた二人組のうち近い方の人へと飛びつく。やけに驚いた顔をしていたけれど、受け止められるとすぐに背中へと回されて、そのまま大きな背中に縋りついた。

 追いついた男の表情を窺えば正気を失っていて、そいつを渡せ、と刀を構え直す姿は狂気そのものだった。
 けれど、抜き身の刀を突きつけられているにもかかわらず、私が縋りつくその人は、少しも動じることなく言ってのける。

「どういうことか説明してくれ」

 冷えきった指先から伝わる温度と助かったという安堵に、力の抜けた身体は糸が切れたように崩れ落ちた。
 けれど、膝をつく直前に片手で抱き留められていた。

「おいっ、大丈夫か?」
「だ、大丈夫……です……」

 咄嗟に返すも、その声は情けないほど小さく震えていて、全然大丈夫じゃなかった。

げんさん、こいつを頼む」

 そう言って、もう一人の人に私を託した。
 源さんと呼ばれたその人は、黙って頷き両手で私の肩を支えると、もう大丈夫だ、と優しく微笑んだ。
 けれど、刀を構えたままの男の怒りは、私を庇ったことでより一層増したみたいだった。

「さっさとそいつを渡せ! 邪魔するならお前らとて容赦はせんぞ!」
「……ほう。なら、俺も遠慮はいらねぇってことだよな?」

 私を庇ったその人は、足を前後に開き僅かに前傾姿勢を取る。そして、左の腰へあてがわれた両の手が掴むそれは……刀だった。

 今頃気づいた自分にも唖然とするけれど、よく見れば、全員和装で腰には刀まで差している。
 似たような風貌だし、もしかしなくても全員仲間……だろう。

 このまま刀を抜いてしまえば、本当に斬り合いが始まるかもしれない。そんな張り詰めた空気が肌を刺すけれど、同時に、さっきはあんなに走れた足が今は竦んでしまい、ただ見ているしか出来なかった。

「そこまでにしておけ、新見にいみ

 声のした方を見ると、いつのまにか合流した熊さんがいた。
 熊さんに新見と呼ばれたその男は、ギリギリと音がしそうなほど奥歯を噛んでから、くそっ、と吐き捨て乱暴に刀を納めた。
 それを見届けた熊さんは、今度は私を庇ったその人に、口の端を吊り上げ話しかける。

土方ひじかたも本気にしてやるなよ。新見のお遊びだ」
「ふん。俺としては、このままやり合っても構わなかったんだがな」

 土方と呼ばれたその人の返事も耳を疑うけれど、それ以上に聞き流すことが出来なかったのは、熊さんがさらっと放った一言だった。

「お遊びって何ですか。何度も斬られそうになって……殺されかけたのに……。あなたはただ見ているだけで、助けてもくれなかったのに!」

 そう言って熊さんを睨みつけるけれど、きつく手を握る私の前に悠然と歩み出た熊さんは、手にした扇子で私の顎を掬い上げると、だが……と信じがたい言葉を口にした。

「お前は死ななかっただろう?」

 絶句するとはこういうことを言うのだろう。
 死ななかったからいいだろうって?
 そんなのはただの結果論だ。普通じゃない。狂っている。

 パシン、と乾いた音が鳴り響き、その場にいた全員の視線が私に突き刺さった。

「お、おい……」

 私を庇ってくれた土方さんの、焦りを含んだ声を合図に、この場に緊張が走るのがわかった。
 私は間違っていないと思うものの、身体は勝手に硬直し、熱くて痛む手を握りしめてこのあとの展開に覚悟する。
 けれど、私に頬を平手打ちされた熊さんは、怒るどころか薄ら笑いを浮かべて口角を上げた。

「この俺に手を上げるとは、いい度胸だな。面白い。女、名は?」

 面白いと言って私を捉えるその目はなどではなく、どんな獰猛な猛獣よりも鋭く有無を言わさぬ強さがある。
 一歩でも下がってしまえば、その研ぎ澄まされた爪牙の餌食になりそうなほど。

琴月春ことづき はる

 負けじとその目を強く見据えると、はっきりとした口調で名乗った。

「春か。俺は芹沢鴨せりざわ かもだ」

 せりざわ、かも……?
 ふと、兄の顔が浮かんだけれど、私を支える源さんと呼ばれていた人の声に掻き消されてしまった。

「とりあえず、屯所で詳しい話を聞こうか」
「あぁ。そうだな」

 私を庇ってくれた土方さんが頷くけれど、それを制するように芹沢さんが口を挟む。

「話なんぞ屯所じゃなくてもいいだろう。お前ら全員ついて来い。其奴を逃がすなよ? 逃げ足は早いぞ」

 そう笑って言うなり、羽織を翻し歩き始めた。
 残された人たちの反発もすぐに呆れと諦めに変わり、それぞれが仕方なくといった様子で歩き出す。

 逃げるなら今だろう。
 けれど、また刀を出されたら、次も助かるという保証はどこにもない。一旦抗うことはやめて、私も肩を支えられたまま……いや、正確には捕らえられたまま歩いた。

 おもむろに見上げた日暮れの空は、人工物に遮られることなく山際まで続いている。
 小さなため息と同時に再び浮かんだ兄の顔は、妙な胸騒ぎだけを残して消えていくのだった。
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