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14話 三角関係は勃発する1
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悲鳴が夜の空に響いた。
だけどそれも数秒。静寂がまた私を包む。
私は駆けていた足を止めて、ギュッと一度唇を噛んだ。
さっきまで早く早く、と走っていた足が今は重りがついているかのようだ。引きずりそうになりながらも目的地に向かう。
薄暗い大理石の廊下から少しだけ光が漏れる扉。その扉を開いた先には予想と同じ光景が広がっていた。
綺麗な優しい淡い緑色の絨毯は赤く汚れてしまっている。絨毯には大人二人の身体とブロンド髪が無造作に散らばっていて、キラキラとシャンデリアの光に照らされていた。
ただ一人立っている人物。紫色の長い髪はムカつくくらいに綺麗で、また赤がよく映えるものだ。
返り血を本日もガッツリと浴びているギドはこちらに振り向く。だけど目線は私ではなく、私越しの何かを見つめて鼻で笑った。
「よぉ、レオル。随分と遅い登場じゃねぇか」
振り向けば私の後ろにはブラッドリーさん――レオルが居た。機嫌が悪そうに眉間に皺を寄せて、部屋の有り様を見つめる。
「これはどういうことだ。ここは俺の獲物なはずだが。お前はやる事があるだろう。横取りか」
「横取りなんざしてねぇさ。功績も全部持っていけ。オレは興味ないからな。オレは裏切り者を粛正しただけ。こいつが先にオレを裏切った。裏切りには死を。そう思わねぇか?」
饒舌に語るギド。きっと気持ちが昂っているんだろう。
赤い瞳をギラギラと輝かせて、不気味に笑うギドに私は少しだけ後退りをした。この時の彼と関わると良いことなんて何もない。
嫌だっているのにベタベタ触ってくるし、どう考えても嫌がらせをしてくるし。
ただ私の後ろに居る人物は逃げようなんて思っていないようだ。
ピリピリとした空気はレオルのもの。
レオルという人物は真面目で任務は必ず遂行する。非道と思われようが、命令されたものは何が何でもやり遂げる。
成功率は十割だ。今のところ。
それを彼はお得意の氷魔法を使わずに行っているから、また次元が違い過ぎる。なんで防衛機関なんかに居るのか不思議で仕方ないくらいの戦闘力。
その有能な力も今は自国サンテールのためでなく、ザントピアのために使っている。きっと彼は複雑な気持ちだろう。
それに今の彼はきっと腹の虫が良くないはずだ。
なぜなら、絨毯の上で動かぬモノになってしまった人たちはサンテールの貴族なのだから。
サンテールの貴族だったけども、ザントピアと繋がっていた。これはサンテールとして由々しき事態。
民から徴収したお金や作物をザントピアに提供していた。その代わりにザントピアはこの貴族の領地に手を出さない。
保身に入るのは分かる。ただそれはサンテールでなくザントピアへ助けを求めた。
ならばザントピアの貴族になればよかったのだが、少しだけ情報と知識が足らなかった。ザントピアに良いように使われて、何も差し出せなくなったから手を切ろうとして、この有り様。
お金や地位があるならば、知識もないと途端に立場は危うくなる。今回この貴族は一番最悪な結末を迎えただけだ。
この貴族はサンテールの防衛機関に密告した。それが監視にバレた。だから殺された。
当たり前な事実。ザントピアを裏切るなんて、もっと用意周到にしないと。ギドは何が何でも狙った獲物は逃さないのだから。
残念な結果だなぁ。私はここの家族好きだったんだけどな。
もう少し私がこの家族に色々助言をしていれば、まだ違う未来があったのかもしれない。でもそうなったら私の立場が危ない。結局は何も出来ないんだ。
「マリー」
「……はい、どうしたんですか?」
「やっておけ」
ああ、後片付けね。わかったわかった。
頷く私にギドは興味が失せたのか、さっさと出て行ってしまった。
数十秒して、ギドが外に出て魔力感知でレオル以外の人が周りに誰も居ないこと確認する。
そう、生きているのは私とレオルだけ。
今まで我慢していたため息を吐くように、肺が萎んでいくように。二人だけ、という紛れもない事実が重くのしかかる。
私はその部屋の本棚に向かって歩き出す。その私の腕を引き止めたのはレオルだ。
「……なんでしょうか。ここは私がなんとかしますので」
と言っても、始末屋を呼ぶだけなんだがな。
彼は私を見下ろして、全く温度も感じられない眼差しで「俺がやる。管轄は俺だ」と引く気はないらしい。
こっちがなんとか言っても、あっちは正当な理由に見える言葉で言いくるめてくるだろう。私が口のうまさでも武力でも魔法でも勝てるわけがない。
勝手にしてくれ、という気持ちも込めて何も言わずに私は当初の目的である本棚に近付く。
だけどまたレオルが私の名前を呼んで止めに入る。
そこでやっと合点がいった。
この人、ここにあるものが何か知っているな、と。
「私は今回の仕事はギドの来た痕跡を消すだけです。それ以上は何もしませんよ」
「では本棚に触れる必要はないだろう。むしろ痕跡を残す。わざわざ家を荒らすのか」
「そんな訳ないじゃないですか。私はとある人からの情報でここを見たいだけです」
「好奇心は時に自分に牙を向くぞ」
「ご忠告ありがとうございます」
本棚に一歩近づく。もうレオルからのアクションはない。私を止める気はないらしい。
本棚に手をかけてとある本を引き抜くとその沢山の本が入っている、いかにも重そうな本棚がすんなりと動いた。ガラガラと動く本棚に、私は視界に入った光景につい息を吐いた。
「やっぱり」
ゴン、と重いものが床に倒れる音。そして充満する鉄の臭い。床には大人の二人と同じブロンド髪が散らばる。
この家には私と同じくらいの子供が居た。時折私と遊んでくれた。可愛い女の子。
でもその女の子も今は物言わぬものになってしまっている。
少しの落胆をした後に私は隣で立っているレオルを気にせずに、ギドの痕跡を一つ一つ消していく。
私も信頼されたものだ。もし私がこれでわざと痕跡を残したらどうするんだろう。
そうなれば、きっと私もあの女の子のようになるだけなんだよね。
あらかた作業を終えた後、さっきから全く動かない彼の方に視線を向ける。本棚の中を見つめている彼はどんな表情をしているのか私には見えない。見えたとして、何もしてやれる事はない。
寄り添ったとしても彼のプライドが許さないだろう。優しい言葉をかけてもただの嫌がらせだ。
労いも同情もそばに居る事さえ、今の彼と私では毒にしかならないんだ。
さてそろそろ連絡をするか、と通信機を取り出した時だ。
「…………すまない」
弱々しく微かに聞こえた言葉。聞き間違いかと言われれば、そうにも思える。
だけど確かに彼の声だった。
視界の端では彼がその女の子の頭を撫でていた気がする。私が完全に振り向いた時には、いつものように冷たい表情に戻っていた。
私は見てしまった。
ほんの一瞬だけど、確かに悔しそうに歪めた顔はどこか泣きそうなほどで、弱々しく自分を責めるようなもの。
「……どうしてレオルはここに入ったの?」
こんな事聞いて、ちゃんとした答えが返ってくるわけがないのに、つい口にしてしまった。
どうせいつものように「子供に言う事ではない」とあしらわれるとしても、つい聞いてしまった。
その予想はすぐに崩れる。
ほんの一瞬だけエメラルドの瞳が揺れた気がした。
「俺にはやらなければならない事がある。自分のために遂行する事がある」
まるで自分に言い聞かせるように、はっきりと。芯のある声で、そこまで大きな声ではないのに響くように言い切った。
――ああ、これはレオルの言葉じゃない。彼の、レオ・ブラッドリーの言葉だ。
「……ふぅん。それはどうにかなりそう?」
「どうにかするんだ」
彼が顔を見せたのはほんの一瞬だったようだ。
すぐにいつものレオルに戻ってしまったことで、私は追求はするつもりはなかった。
ただこの時、私は確かに思った。
彼を守りたい、支えたい、と。
マリーからフィオナに戻るための野望ではなく、フィオナとして彼を、レオ・ブラッドリーのそばに居たいと。
「いやほんとどうしよ」
夕暮れの教室。私の机にはカップケーキが二つ入った袋。ついついブラッドリーさんの事を考えていたら、思いのほか色んな事を思い出してしまった。
サーシャのようにピュアな恋心とは程遠い、血生臭い恋心だけど確かに私はレオ・ブラッドリーという男に恋をしていた。いや、している。
主にサーシャが作ってくれたカップケーキはココアとプレーン。どちらのカップケーキの上にも球体の緑色の飾りがしてある。
好きな人の瞳の色が出る、魔法の砂糖菓子らしい。なんてものを。
おかげで私は教室で黄昏ている。
自分の気持ちは分かってたけど、そこまで執心はしていないつもりだった。
ブラッドリーさんに婚約者が出来たり指輪が何故か存在していたり、わりとショッキングではあった。故人として扱われているであろう、フィオナをずっと待っているのはあまりにも可哀想。
だからこんなにも心が重たくなるような気持ちになる事はない、とたかを括っていたのだけど。
「マリー・ブラッドリー。まだ残っているのですか? 迎えはまだ来ませんか」
見回りの先生が来てしまった。もうそんなに時間が経っていたのか。
そろそろ迎えに来てくれそうな時間で慌てて席から立ち、教室から出る。その間もカップケーキが入った包みは変わらずだ。
いっその事自分で食べてしまえばいいのだけど、それはなんだか虚しくて悲しくなりそう。捨てるのは勿体ない。
じゃあどうしようか、と考えながら昔の事を思い出していたというわけだ。
恋をすると女の子は変わる、とか聞いたことあるけど本当なんだな。私、今までこんなに自分の事に感傷的にならなかったし。
は~。これでフィオナに戻った時にはブラッドリーさんの結婚式の参列で涙流すのかな~。それともそこでは必死に笑顔を作って、帰って一人で大号泣か?
どちらにせよ悲恋じゃん。悲し。
迎えが来ると思って、急いで下に向かえばそこには意外な人物と出会うことになる。
「あ、ホー、ダニエルくん」
「まだ慣れないのか」
慣れるわけないだろう。そもそもホーエンさんと会ったのザントピアだ。
ホーエンさんは今日は馬術部に誘われて、そちらに顔を出していたのだとか。絶対に女の子はキャーキャー言ってたんだろうな。この人、馬術とかすんなり出来そう。
「ん? そのカップケーキ」
「ああ。今日作ったやつです」
「なるほどな。おかげでランチ要らずだった」
すごい貰ってんじゃん。
やっぱりこの人ショタライフを楽しんでやがる。この人だけショタのままでもいいんじゃないかな。
てかホーエンさんは貰ったものは食べたのか。てっきりブラッドリーさんと一緒で食べないものかと思っていたんだけど。
「全部食べたんですか?」
「貰ったものは食べたぞ。毒の心配か? 俺はちょっと特殊な体質だからな。なかなか効かない」
チート過ぎないかこの人。
ルトブルクが敵じゃなくて本当に良かった。こんな人が敵になるとかごめん被る。対峙した途端に白旗を挙げる自信はある。
「ダニエルくんは甘いもの好きなんですか?」
「好きか嫌いかと言われれば好きな分類だな」
「……じゃあこのカップケーキ食べません?」
持っている包みを彼の前に出すと、ホーエンさんは目を僅かに見開いた。カップケーキと私を何度か見比べた後に「いいのか?」と確認してくる。
どうせ彼のことだ。緑色の球体の砂糖菓子のことも分かっているんだろう。その色も、誰を想ったものなのかも。
「渡せるわけないので」
「だが……」
「自分で食べるには虚しいじゃないですか。だから食べてもらいたいな、って」
「渡してみればいいだろう」
「あの人、他人が作ったものは口にしないんです」
そこまで言うと、ホーエンさんは難しい表情をして考え込んでしまった。
もう無理矢理ホーエンさんの手に持たせてしまおうか、と思った時だ。
「マリー、遅くなってすまない」
少し息が弾んだ声。走ってきたのだろう。
今日のお迎えはブラッドリーさんのようだ。忙しいのに申し訳ない。
目が合うと、少し目尻を緩ませるブラッドリーさん。
だが、それも一瞬。
私の隣に居る人物を見て、表情を固くした。
「……この子は?」
「あー……この子は」
クラスメイトだよ、と言おうとした。
だが私の隣に居る男、最悪の遮り方をしてきたのだ。
「ダニエル・ホーエンだ」
「……ホーエン?」
僅かにブラッドリーさんの声が低くなる。
いかん。これはいかん。
「俺はダニー・ホーエンの息子、ダニエル・ホーエンだ」
途端にブラッドリーさんから冷気が漏れる。
私の背中には冷や汗が流れた。
爆弾発言をして当の本人、ドヤ顔で空気を理解していない。
ブラッドリーさんは気難しいし、真面目な人だけど普通に生活しているうえでは穏やかな人だ。部下にも優しく人望も厚い。
ただ一つ、ブラッドリーさんには地雷がある。
「……ダニエル・ホーエン」
ブラッドリーさんの地雷、ダニエル・ホーエン。
全否定するほどのものだ。
だけどそれも数秒。静寂がまた私を包む。
私は駆けていた足を止めて、ギュッと一度唇を噛んだ。
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薄暗い大理石の廊下から少しだけ光が漏れる扉。その扉を開いた先には予想と同じ光景が広がっていた。
綺麗な優しい淡い緑色の絨毯は赤く汚れてしまっている。絨毯には大人二人の身体とブロンド髪が無造作に散らばっていて、キラキラとシャンデリアの光に照らされていた。
ただ一人立っている人物。紫色の長い髪はムカつくくらいに綺麗で、また赤がよく映えるものだ。
返り血を本日もガッツリと浴びているギドはこちらに振り向く。だけど目線は私ではなく、私越しの何かを見つめて鼻で笑った。
「よぉ、レオル。随分と遅い登場じゃねぇか」
振り向けば私の後ろにはブラッドリーさん――レオルが居た。機嫌が悪そうに眉間に皺を寄せて、部屋の有り様を見つめる。
「これはどういうことだ。ここは俺の獲物なはずだが。お前はやる事があるだろう。横取りか」
「横取りなんざしてねぇさ。功績も全部持っていけ。オレは興味ないからな。オレは裏切り者を粛正しただけ。こいつが先にオレを裏切った。裏切りには死を。そう思わねぇか?」
饒舌に語るギド。きっと気持ちが昂っているんだろう。
赤い瞳をギラギラと輝かせて、不気味に笑うギドに私は少しだけ後退りをした。この時の彼と関わると良いことなんて何もない。
嫌だっているのにベタベタ触ってくるし、どう考えても嫌がらせをしてくるし。
ただ私の後ろに居る人物は逃げようなんて思っていないようだ。
ピリピリとした空気はレオルのもの。
レオルという人物は真面目で任務は必ず遂行する。非道と思われようが、命令されたものは何が何でもやり遂げる。
成功率は十割だ。今のところ。
それを彼はお得意の氷魔法を使わずに行っているから、また次元が違い過ぎる。なんで防衛機関なんかに居るのか不思議で仕方ないくらいの戦闘力。
その有能な力も今は自国サンテールのためでなく、ザントピアのために使っている。きっと彼は複雑な気持ちだろう。
それに今の彼はきっと腹の虫が良くないはずだ。
なぜなら、絨毯の上で動かぬモノになってしまった人たちはサンテールの貴族なのだから。
サンテールの貴族だったけども、ザントピアと繋がっていた。これはサンテールとして由々しき事態。
民から徴収したお金や作物をザントピアに提供していた。その代わりにザントピアはこの貴族の領地に手を出さない。
保身に入るのは分かる。ただそれはサンテールでなくザントピアへ助けを求めた。
ならばザントピアの貴族になればよかったのだが、少しだけ情報と知識が足らなかった。ザントピアに良いように使われて、何も差し出せなくなったから手を切ろうとして、この有り様。
お金や地位があるならば、知識もないと途端に立場は危うくなる。今回この貴族は一番最悪な結末を迎えただけだ。
この貴族はサンテールの防衛機関に密告した。それが監視にバレた。だから殺された。
当たり前な事実。ザントピアを裏切るなんて、もっと用意周到にしないと。ギドは何が何でも狙った獲物は逃さないのだから。
残念な結果だなぁ。私はここの家族好きだったんだけどな。
もう少し私がこの家族に色々助言をしていれば、まだ違う未来があったのかもしれない。でもそうなったら私の立場が危ない。結局は何も出来ないんだ。
「マリー」
「……はい、どうしたんですか?」
「やっておけ」
ああ、後片付けね。わかったわかった。
頷く私にギドは興味が失せたのか、さっさと出て行ってしまった。
数十秒して、ギドが外に出て魔力感知でレオル以外の人が周りに誰も居ないこと確認する。
そう、生きているのは私とレオルだけ。
今まで我慢していたため息を吐くように、肺が萎んでいくように。二人だけ、という紛れもない事実が重くのしかかる。
私はその部屋の本棚に向かって歩き出す。その私の腕を引き止めたのはレオルだ。
「……なんでしょうか。ここは私がなんとかしますので」
と言っても、始末屋を呼ぶだけなんだがな。
彼は私を見下ろして、全く温度も感じられない眼差しで「俺がやる。管轄は俺だ」と引く気はないらしい。
こっちがなんとか言っても、あっちは正当な理由に見える言葉で言いくるめてくるだろう。私が口のうまさでも武力でも魔法でも勝てるわけがない。
勝手にしてくれ、という気持ちも込めて何も言わずに私は当初の目的である本棚に近付く。
だけどまたレオルが私の名前を呼んで止めに入る。
そこでやっと合点がいった。
この人、ここにあるものが何か知っているな、と。
「私は今回の仕事はギドの来た痕跡を消すだけです。それ以上は何もしませんよ」
「では本棚に触れる必要はないだろう。むしろ痕跡を残す。わざわざ家を荒らすのか」
「そんな訳ないじゃないですか。私はとある人からの情報でここを見たいだけです」
「好奇心は時に自分に牙を向くぞ」
「ご忠告ありがとうございます」
本棚に一歩近づく。もうレオルからのアクションはない。私を止める気はないらしい。
本棚に手をかけてとある本を引き抜くとその沢山の本が入っている、いかにも重そうな本棚がすんなりと動いた。ガラガラと動く本棚に、私は視界に入った光景につい息を吐いた。
「やっぱり」
ゴン、と重いものが床に倒れる音。そして充満する鉄の臭い。床には大人の二人と同じブロンド髪が散らばる。
この家には私と同じくらいの子供が居た。時折私と遊んでくれた。可愛い女の子。
でもその女の子も今は物言わぬものになってしまっている。
少しの落胆をした後に私は隣で立っているレオルを気にせずに、ギドの痕跡を一つ一つ消していく。
私も信頼されたものだ。もし私がこれでわざと痕跡を残したらどうするんだろう。
そうなれば、きっと私もあの女の子のようになるだけなんだよね。
あらかた作業を終えた後、さっきから全く動かない彼の方に視線を向ける。本棚の中を見つめている彼はどんな表情をしているのか私には見えない。見えたとして、何もしてやれる事はない。
寄り添ったとしても彼のプライドが許さないだろう。優しい言葉をかけてもただの嫌がらせだ。
労いも同情もそばに居る事さえ、今の彼と私では毒にしかならないんだ。
さてそろそろ連絡をするか、と通信機を取り出した時だ。
「…………すまない」
弱々しく微かに聞こえた言葉。聞き間違いかと言われれば、そうにも思える。
だけど確かに彼の声だった。
視界の端では彼がその女の子の頭を撫でていた気がする。私が完全に振り向いた時には、いつものように冷たい表情に戻っていた。
私は見てしまった。
ほんの一瞬だけど、確かに悔しそうに歪めた顔はどこか泣きそうなほどで、弱々しく自分を責めるようなもの。
「……どうしてレオルはここに入ったの?」
こんな事聞いて、ちゃんとした答えが返ってくるわけがないのに、つい口にしてしまった。
どうせいつものように「子供に言う事ではない」とあしらわれるとしても、つい聞いてしまった。
その予想はすぐに崩れる。
ほんの一瞬だけエメラルドの瞳が揺れた気がした。
「俺にはやらなければならない事がある。自分のために遂行する事がある」
まるで自分に言い聞かせるように、はっきりと。芯のある声で、そこまで大きな声ではないのに響くように言い切った。
――ああ、これはレオルの言葉じゃない。彼の、レオ・ブラッドリーの言葉だ。
「……ふぅん。それはどうにかなりそう?」
「どうにかするんだ」
彼が顔を見せたのはほんの一瞬だったようだ。
すぐにいつものレオルに戻ってしまったことで、私は追求はするつもりはなかった。
ただこの時、私は確かに思った。
彼を守りたい、支えたい、と。
マリーからフィオナに戻るための野望ではなく、フィオナとして彼を、レオ・ブラッドリーのそばに居たいと。
「いやほんとどうしよ」
夕暮れの教室。私の机にはカップケーキが二つ入った袋。ついついブラッドリーさんの事を考えていたら、思いのほか色んな事を思い出してしまった。
サーシャのようにピュアな恋心とは程遠い、血生臭い恋心だけど確かに私はレオ・ブラッドリーという男に恋をしていた。いや、している。
主にサーシャが作ってくれたカップケーキはココアとプレーン。どちらのカップケーキの上にも球体の緑色の飾りがしてある。
好きな人の瞳の色が出る、魔法の砂糖菓子らしい。なんてものを。
おかげで私は教室で黄昏ている。
自分の気持ちは分かってたけど、そこまで執心はしていないつもりだった。
ブラッドリーさんに婚約者が出来たり指輪が何故か存在していたり、わりとショッキングではあった。故人として扱われているであろう、フィオナをずっと待っているのはあまりにも可哀想。
だからこんなにも心が重たくなるような気持ちになる事はない、とたかを括っていたのだけど。
「マリー・ブラッドリー。まだ残っているのですか? 迎えはまだ来ませんか」
見回りの先生が来てしまった。もうそんなに時間が経っていたのか。
そろそろ迎えに来てくれそうな時間で慌てて席から立ち、教室から出る。その間もカップケーキが入った包みは変わらずだ。
いっその事自分で食べてしまえばいいのだけど、それはなんだか虚しくて悲しくなりそう。捨てるのは勿体ない。
じゃあどうしようか、と考えながら昔の事を思い出していたというわけだ。
恋をすると女の子は変わる、とか聞いたことあるけど本当なんだな。私、今までこんなに自分の事に感傷的にならなかったし。
は~。これでフィオナに戻った時にはブラッドリーさんの結婚式の参列で涙流すのかな~。それともそこでは必死に笑顔を作って、帰って一人で大号泣か?
どちらにせよ悲恋じゃん。悲し。
迎えが来ると思って、急いで下に向かえばそこには意外な人物と出会うことになる。
「あ、ホー、ダニエルくん」
「まだ慣れないのか」
慣れるわけないだろう。そもそもホーエンさんと会ったのザントピアだ。
ホーエンさんは今日は馬術部に誘われて、そちらに顔を出していたのだとか。絶対に女の子はキャーキャー言ってたんだろうな。この人、馬術とかすんなり出来そう。
「ん? そのカップケーキ」
「ああ。今日作ったやつです」
「なるほどな。おかげでランチ要らずだった」
すごい貰ってんじゃん。
やっぱりこの人ショタライフを楽しんでやがる。この人だけショタのままでもいいんじゃないかな。
てかホーエンさんは貰ったものは食べたのか。てっきりブラッドリーさんと一緒で食べないものかと思っていたんだけど。
「全部食べたんですか?」
「貰ったものは食べたぞ。毒の心配か? 俺はちょっと特殊な体質だからな。なかなか効かない」
チート過ぎないかこの人。
ルトブルクが敵じゃなくて本当に良かった。こんな人が敵になるとかごめん被る。対峙した途端に白旗を挙げる自信はある。
「ダニエルくんは甘いもの好きなんですか?」
「好きか嫌いかと言われれば好きな分類だな」
「……じゃあこのカップケーキ食べません?」
持っている包みを彼の前に出すと、ホーエンさんは目を僅かに見開いた。カップケーキと私を何度か見比べた後に「いいのか?」と確認してくる。
どうせ彼のことだ。緑色の球体の砂糖菓子のことも分かっているんだろう。その色も、誰を想ったものなのかも。
「渡せるわけないので」
「だが……」
「自分で食べるには虚しいじゃないですか。だから食べてもらいたいな、って」
「渡してみればいいだろう」
「あの人、他人が作ったものは口にしないんです」
そこまで言うと、ホーエンさんは難しい表情をして考え込んでしまった。
もう無理矢理ホーエンさんの手に持たせてしまおうか、と思った時だ。
「マリー、遅くなってすまない」
少し息が弾んだ声。走ってきたのだろう。
今日のお迎えはブラッドリーさんのようだ。忙しいのに申し訳ない。
目が合うと、少し目尻を緩ませるブラッドリーさん。
だが、それも一瞬。
私の隣に居る人物を見て、表情を固くした。
「……この子は?」
「あー……この子は」
クラスメイトだよ、と言おうとした。
だが私の隣に居る男、最悪の遮り方をしてきたのだ。
「ダニエル・ホーエンだ」
「……ホーエン?」
僅かにブラッドリーさんの声が低くなる。
いかん。これはいかん。
「俺はダニー・ホーエンの息子、ダニエル・ホーエンだ」
途端にブラッドリーさんから冷気が漏れる。
私の背中には冷や汗が流れた。
爆弾発言をして当の本人、ドヤ顔で空気を理解していない。
ブラッドリーさんは気難しいし、真面目な人だけど普通に生活しているうえでは穏やかな人だ。部下にも優しく人望も厚い。
ただ一つ、ブラッドリーさんには地雷がある。
「……ダニエル・ホーエン」
ブラッドリーさんの地雷、ダニエル・ホーエン。
全否定するほどのものだ。
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![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
白い結婚は無理でした(涙)
詩森さよ(さよ吉)
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わたくし、フィリシアは没落しかけの伯爵家の娘でございます。
明らかに邪な結婚話しかない中で、公爵令息の愛人から契約結婚の話を持ち掛けられました。
白い結婚が認められるまでの3年間、お世話になるのでよい妻であろうと頑張ります。
小説家になろう様、カクヨム様にも掲載しております。
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