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第十七章
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確かに、理想的な恋ではあります。妻を大事に思い、姿を見ているだけでうっとりと心癒される気持ちは、正しく恋なのだと。
愛は美しいだけではなく、優しいだけではなく、喜びだけではないことを知ってしまった私だからこそ、そう言い切れるのです。妻を優しく抱きしめたいと思い、頬に接吻したいとは思っても、抱き合いたいとは思わないのです。
妻との関係が穏やかな湖だとすれば、貴方との関係は、時には人命をも奪う恐ろしい海。しかし、海は美しく、人を惹きつけて止まぬ魅力をも持っているのです。湖の穏やかさに負けぬ、深い魅力を。
貴方と抱き合い、苦しみあった時間。思い出すだけで涙が込み上げてくるあの時間をも、私は愛しているのです。こうして、二度と会うことが叶わず、海の彼方で生きる貴方を思うしかできぬ今、傷つけ合った時はどれほど幸せだったかと考えずにはいられません。
貴方は今、健康なのでしょうか? どのような勉強をなさっておいでなのでしょうか? 知る術はあれど、知ってしまえばまた、貴方に会いたくなるのが恐ろしく、誰にも問うことができません。
ですからどうか、聞きたくなくとも耳に入る、悲しい知らせなどもたらさぬよう、重ね重ねお願い申し上げます。
どうかお元気で。
幾通目か、既に思い出せぬ手紙を封筒にしまうと、窓の向こうに目をやった。庭の隅では、庭師が集めた枯れ葉を燃しているのが見える。芳明は羽織を身に纏うと、手紙を懐に押し込んで、外に出た。薄暗い庭に、ほんのりと明るい焚き火。近付けば、ひんやりと冷たい空気も温められ、気持ちが良い。
着物の裾が乱れぬように手で押さえながら、焚き火の脇に見を屈める。懐から宛名のない封筒を取り出し、赤い光抱える灰の中に半寸ほど差し込んだ。
白い封筒は焦げ始め、やがて朱の炎を吹き上げる。
灰にせねばならぬ。
芳明の指を求めて、炎が徐々に上がって来る。
灰にせねばならぬ。
いつまでと囚われていてはならぬと、自ら叱りつけても尚、炎がまるで俊紀のように感ぜられて、封筒を離すのが躊躇われる。熱いと指は訴えているのに、心はまだ、求められることを望んでいる。
灰にせねば……
「お父さま」
幼子の声に、指先は力を失った。殆どが炎に包まれた封筒が、仲間を求めるかのように、焚き火の中に消えていく。
灰にせねばならぬ。家族のために。約束したのだ。俊紀と約束したのだ。家族を大事にするのだと。
「なにをしているの?」
芳和は下駄の音を響かせながら、芳明に向かってくる。
「焚き火に当たっているのだよ」
炎を上げていた封筒も今は、四角い灰になり、つい今崩れ落ちた。芳和に知られるはずも無かろうが、封筒が形を失っていることに安堵した。
「あぁ、駄目だよ、火傷をしてしまう」
焚き火に手を翳そうとして、あまりに近過ぎた芳和を庇い、手を差し出した芳明の袖が風を作り、封筒だった灰が煽られて、空を舞いながら燃え尽きた。壊れながら地に向かってふうわりと落ちていく。
「蛍みたい」
無邪気な芳和の声に、芳明は答えようとして、言葉に詰まる。言葉に代えて、芳和のの柔らかで温かな体を抱きしめる。
どんなに求めようとも、俊紀と生涯を共をすることは叶わない。もう、終わってしまったのだから。
何よりも、この温もりを失うことはできない。久仁子の優しい、はにかみの笑顔を奪われては生きてはいけない。自分勝手と言われてもしかたはあるまいが、芳明はもう、一人では生きていけないのだ。愛を知り、恋を知ってしまった今となっては。
「家に入ろうか」
芳和が、はい。と答えると、芳明は立ち上がった。
どこからかは薄暗くてわからないけれど、梅の香りが漂って来た。これからはこの香りを感じるたびに、互いを思い出すのだろう。
梅の花こそ、二人の愛の形見なのだと、その時芳明は気付いた。
終
愛は美しいだけではなく、優しいだけではなく、喜びだけではないことを知ってしまった私だからこそ、そう言い切れるのです。妻を優しく抱きしめたいと思い、頬に接吻したいとは思っても、抱き合いたいとは思わないのです。
妻との関係が穏やかな湖だとすれば、貴方との関係は、時には人命をも奪う恐ろしい海。しかし、海は美しく、人を惹きつけて止まぬ魅力をも持っているのです。湖の穏やかさに負けぬ、深い魅力を。
貴方と抱き合い、苦しみあった時間。思い出すだけで涙が込み上げてくるあの時間をも、私は愛しているのです。こうして、二度と会うことが叶わず、海の彼方で生きる貴方を思うしかできぬ今、傷つけ合った時はどれほど幸せだったかと考えずにはいられません。
貴方は今、健康なのでしょうか? どのような勉強をなさっておいでなのでしょうか? 知る術はあれど、知ってしまえばまた、貴方に会いたくなるのが恐ろしく、誰にも問うことができません。
ですからどうか、聞きたくなくとも耳に入る、悲しい知らせなどもたらさぬよう、重ね重ねお願い申し上げます。
どうかお元気で。
幾通目か、既に思い出せぬ手紙を封筒にしまうと、窓の向こうに目をやった。庭の隅では、庭師が集めた枯れ葉を燃しているのが見える。芳明は羽織を身に纏うと、手紙を懐に押し込んで、外に出た。薄暗い庭に、ほんのりと明るい焚き火。近付けば、ひんやりと冷たい空気も温められ、気持ちが良い。
着物の裾が乱れぬように手で押さえながら、焚き火の脇に見を屈める。懐から宛名のない封筒を取り出し、赤い光抱える灰の中に半寸ほど差し込んだ。
白い封筒は焦げ始め、やがて朱の炎を吹き上げる。
灰にせねばならぬ。
芳明の指を求めて、炎が徐々に上がって来る。
灰にせねばならぬ。
いつまでと囚われていてはならぬと、自ら叱りつけても尚、炎がまるで俊紀のように感ぜられて、封筒を離すのが躊躇われる。熱いと指は訴えているのに、心はまだ、求められることを望んでいる。
灰にせねば……
「お父さま」
幼子の声に、指先は力を失った。殆どが炎に包まれた封筒が、仲間を求めるかのように、焚き火の中に消えていく。
灰にせねばならぬ。家族のために。約束したのだ。俊紀と約束したのだ。家族を大事にするのだと。
「なにをしているの?」
芳和は下駄の音を響かせながら、芳明に向かってくる。
「焚き火に当たっているのだよ」
炎を上げていた封筒も今は、四角い灰になり、つい今崩れ落ちた。芳和に知られるはずも無かろうが、封筒が形を失っていることに安堵した。
「あぁ、駄目だよ、火傷をしてしまう」
焚き火に手を翳そうとして、あまりに近過ぎた芳和を庇い、手を差し出した芳明の袖が風を作り、封筒だった灰が煽られて、空を舞いながら燃え尽きた。壊れながら地に向かってふうわりと落ちていく。
「蛍みたい」
無邪気な芳和の声に、芳明は答えようとして、言葉に詰まる。言葉に代えて、芳和のの柔らかで温かな体を抱きしめる。
どんなに求めようとも、俊紀と生涯を共をすることは叶わない。もう、終わってしまったのだから。
何よりも、この温もりを失うことはできない。久仁子の優しい、はにかみの笑顔を奪われては生きてはいけない。自分勝手と言われてもしかたはあるまいが、芳明はもう、一人では生きていけないのだ。愛を知り、恋を知ってしまった今となっては。
「家に入ろうか」
芳和が、はい。と答えると、芳明は立ち上がった。
どこからかは薄暗くてわからないけれど、梅の香りが漂って来た。これからはこの香りを感じるたびに、互いを思い出すのだろう。
梅の花こそ、二人の愛の形見なのだと、その時芳明は気付いた。
終
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