視線

岡倉弘毅

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第十六章

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 答えが出たのは、早春の頃だった。
 家族で湯島天神でお参りをした後、梅を楽しんでいた。
 華やかな紅梅、清らかな白梅、雅を誇る枝垂れ梅。そよそよと漂う風に乗せられた香りは、高貴であった。
(あの春の日、小さな命が宿ったと知らされた)
 その小さな命、芳和は、子爵家の跡取りにふさわしく、賢く、優しい子に育っている。
(そしてあの別れの前日、もう一つの命が宿った)
 久仁子が一針一針愛情を込めて作った正絹のドレスに身を包んで、幼いレディは、周りに幸せな気持ちを振りまいている。
(一つだけ偽らざる真実は、私が久仁子を愛していると言うこと。それだけはどうしも曲げようがない)
「松澤様のお噂、本当ですの?」
  思い出したように、久仁子が言った。
「松澤様の噂?」
「ご存知ありませんのね? 松澤様が四月にまた、留学をなさるとの伺いましたの。今度は英吉利だそうですわ」
 さり気なく問うたところ、噂の出どころは松澤伯爵夫人の実妹である、楠木子爵夫人だと言うから、間違いはあるまい。
 心臓を握り潰されそうな苦しさを感じた。
 おそらく、俊紀にとってあの日以来、梅は特別な花になったことだろう。それは、芳明にしても同じだった。
 今までは、嫌悪の対象として。
 そして、これからは……。
 帰宅してからずっと、書斎に閉じ籠って考えていた。出会いから、別れまでの自分の考え、そして言葉を。今までずっと目を背け続けていた事柄を。
 別れの日、俊紀の過去を蒸し返すような発言をしたのは、自身、計算の上での言葉だったと思っていた。自らを棚に上げて、浮気者よと、俊紀を蔑んだつもりだった。
 しかし、それは間違いだったと、今気付いた。嫉妬していたのだ。自分以外の誰かを、俊紀が抱いたことに。
 「出かけてくる。遅くなると思うから、先に休んでいなさい」
 夕食に殆ど箸をつけぬまま、久仁子に言い含めて屋敷を出たのは六時過ぎだった。日は既に沈み、冷たい風が頬に触れる。
 「ここで結構です」
 芳明を案内し、俊紀の自室の扉を叩こうとする執事を止めて、芳明は下がるように要求した。部屋に入れてもらえないかもしれない。それはそれで仕方ないことであるが、これ以上、執事の前で無様な姿を晒したくはなかった。
 今は、心臓が大人しくしている。既に、冷たい態度を取られる覚悟もできている。どんな結果になろうとも、今、行動しなければ一生、機会はなくなってしまうのだ。
 右手で、力強く三度、扉を叩いた。扉の向こうから、なに? と、声が聞こえた。
「俊紀様、私です」
 何かが倒れた音がした。椅子ではないだろうか。慌てて立ち上がった為に倒れたのだろうか。
 乱暴に扉が開かれた。俊紀の身長に合わせて顔を上げると、記憶にあるよりもずっと痩せた顔が、そこにはあった。
「どうして」
「また、留学なさるとの噂を」
 俊紀はため息を吐いた。それは芳明に対してのものではなく、疲れ故のものらしい。
「慌てられたのですね」
 部屋を覗けば、思った通り椅子が倒れていた。俊紀は少し顔を赤らめると、どうぞ。と、立っている方の椅子を手で示した。
「日本にいるのが苦しくて。しかしまた、仏蘭西へという気にはなれませんでした。芳明様との思い出のある場所は、私には辛すぎます」
 机の上には、一輪の梅が活けられている。
「今まで私は、俊紀様とのことは、極力思い出すまいとしておりました。妻を裏切った自分が許せなかったのです。私はもう二度と、妻を裏切ったりはしません。
 ただ、一つだけ、俊紀様にお伝えしたいことが」
窓際に、当然だが、人形の姿はない。しかし、その代わりでもあるかのように、深い、青い瞳が置かれていた。
「私は、俊紀様を愛しています。どうしても今まで、それを認めることができませんでしたが」
 項垂れていた俊紀が、身を起こした。信じられないとばかりに、目を見開く。
「妻を愛しているのも、本当です。これでは多情の浮気者と罵られても仕方ありませんが、私も決して、戯れで身を任せたわけではありません。愛しているからこそ、抱き合い、そして今まで忘れられずに苦しんでいるのです。
 俊紀様の仰る通り、私は元々、男色家なのだと思います。ただ、それを自覚する前に久仁子と出会った。久仁子は私の思い描く理想の女性だったのです聖母のように優しく、清らかな。だからこそ今まで認めることができなかったのでしょう。本当の私を」
「本当の貴方。その、本当の貴方は、私を」
 芳明は大きく頷いた。もう、嘘をつく必要などない。今こそ、自分を偽らず、正直になるときなのだ。
「ありがとうございます。私はその言葉を胸に、これから先、生きていけます」
 俊紀は立ち上がり、芳明に近寄ると、顔を寄せてきた。芳明は目を閉じる。久しぶりに重ねられる唇。俊紀の髪からは、微かに梅の香りがした。
「どうか、ご家族を大事になさって下さい。私は、遠く英吉利から、芳明様と、ご家族の幸せを祈らせて頂きます。
 ただ、今宵だけは、私の我が儘を聞いて頂けませんか? 日本を離れる前にもう一度、貴方と二人だけで打ち解けてお話ししたいと思っておりました。もう二度と、触れたりは致しませんから」
「はい、あの頃のようにまた、友として」
 友として……。ずっと求めていた関係に戻って……
 愛していると伝え合い、今、また関係の変わった二人は、夜を徹して、過去を忘れて話をした。以前の、友達だった時のように。葡萄酒ではなく、珈琲を飲みながら。
 朝、暗いうちに辞することを告げ、芳明は腰を上げた。今の二人は偽りのもの。現実を映し出す太陽が現れる前に、別れてしまわなければならない。再び苦しみ合わないためにも。
 俊紀は寂しさを隠すことなく、名残惜しげに門まで着いてきた。
「ここまでで良いです。これ以上いたなら、私も離れ難くなってしまいます」
 最後になって、自然な恋人同士になれたのは、皮肉なことだと思う。それでも、芳明に家族がある以上、それも仕方あるまい。
「お元気で。もう二度とお会いしません。お手紙も出しません。それでも貴方を一生愛し続けます。
 ご家族をお大事に。どうか、お幸せに」
 握手をしながら、芳明は視線だけで周りを見渡した。誰もいないことを確認すると、初めて、自ら俊紀に口付けた。
「俊紀様も、お元気でいらして下さい。
 さようなら」
 お互いに、さようならの声は、語尾が震えていた。
 重い門を閉じてしまうまで見つめ合い、その後も暫く動けずにいた。
 心の中は悲しさで満ち満ちているものの、今までずっとその重さに苦しんでいた荷を下ろせたことで、安らぎをも得ていた。
(もう、私は私を偽る必要はない。私達は、純粋な気持ちで愛を伝え合った。これからずっと、愛し合えるのだ)
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