視線

岡倉弘毅

文字の大きさ
上 下
9 / 18

第八章

しおりを挟む
 「この子は、本当に手のかからない子ね」
 目を覚ました芳和は、泣き出しもせずに手を玩具に遊んでいた。
「そうなんですの。時々、つまらないと思わせるくらい、おとなしいのですよ」
 子供部屋は祝いの品で溢れていた。久仁子の実家から、親戚から、親しくしているひとから、色々な贈り物が届き、あっという間に、芳和の箪笥の中は一杯になってしまった。
芳和の枕元には、小さな美しい音匣オルゴォルがある。孝芳の遺品を整理していた時に、富美子が見つけた。『芳和へ』とあった。まだ、削り目は新しく、わざわざ贔屓の職人に作らせた物らしかった。
 周りが、男の子に違いない。と、言い始めた妊娠九ヶ月に入った頃、孝芳はこの名を決めた。もちろん、女の子でも嬉しいのだがね。と、好々爺の笑みを浮かべながら。
 初孫の為に、孝芳はこの音匣と名前を用意していたのである。
 名は、命の次に与えられる贈り物であると言う。幸せな赤子は、誕生の瞬間から名を持っていた。音匣を、周りの人の愛情を一身に受け取っていた。まだ幼すぎて、ありがたいとは思いもすまいが、芳和は幸せすぎる赤子には違いなかった。
「あの音匣をよく、ご覧になってますのよ」
「旦那様の?」
「はい。音が鳴っていなくても、視線を向けていらっしゃることが多ございますの」
「まぁ、それはもしかしたら」
「お父様が芳和をご覧になられておいでなのでしょうね」
 二人の思いを壊すまいと、芳明は感情を込めて言う。
 芳明は現実的な性格で、霊魂や生まれ変わりを一切信じていなかった。しかし、今も音匣に視線を向けている芳和を見ていると、なるほど、孝芳は過ぎるほどに子煩悩であったな。と、肯定しそうになってしまう。
 いけないことではない。思い出で心が満たされるなら。そう考えて芳明は、まるで自分も信じていると言わんばかりの態度を示した。
 久仁子が音匣の蓋を開いた。優しい子守唄が流れる。芳和は踊るように、手足を上下させた。
「あら、お腹が空いてらっしゃるのね」
 頬に触れる久仁子の指に、芳和が行儀悪く吸い付いた。二人は示し合わせたように、授乳の用意を始める。
 芳明は視線を外した。何度か接吻もしたことのある乳房は、赤子の口に含まれると、別の尊い物に見える。それなのに気恥ずかしく、直視できないのだ。
「次は、女の子が欲しいわね」
 登美子の明るい声が響く。
「お母様、芳和が生まれたばかりで、久仁子もまだ、体が本調子ではありませんのに」
 芳明の過剰な反応を登美子は、愛しさ故と取ったのだろう。更に目を細めた。
「分かってますよ。直ぐにとは申しておりませんでしょう」
「私も、女の子が欲しいと思っておりますの。芳明さんに似た子なら、どんなに美しく成長することでしょう」
(子供)
 一人目が生まれたかと思えばもう、二人目を周りが暗に要求する。
(義務なのだ)
 そう考えた途端、疲れを感じた。
(子供は可愛い。でも)
「この子は久仁子さんによく似ていますね。とても優しい面立ちで、賢そうで。きっと、誰からも愛される、立派な子爵になってくれるでしょう」
 久仁子の白いうなじに、乳房に、芳明はなんの欲望も持てないことに気づいた。
(俊紀様のせいだろうか) 
 あの夜が思い出される。
(違う。あれは夢だったのだ。気の迷いに他ならない。私は妻を愛している。心の底から。あれは単なる好奇心に過ぎなかったのだ)
 呪文のように、芳明は心の中で唱え続けた。

 二月末、久しぶりに久仁子を伴って、芳明は舞踏会に出席した。
 庭を覆う水仙の香りに、時折、虜となった二人は、ダンスの輪から離れて、散策をしていた。
「あ」
 危うく叫びそうになって、芳明は自分の口を塞いだ。
「どうかなさいましたの?」
 久仁子が、心配そうな顔で見る。
「なんでもない」
 そう言いながらも、動揺は隠せない。芳明は視線を動かせないまま、体を震わせた。
 俊紀がいたのだ。しかし、一向に気付かなかった。
 元々、賑やかな場所を好まない人である。目立つわけでもない。見つけられなかったのは不思議でもなんでもないが、芳明が信じられなかったのは、あの視線を感じられなかったことである。
 あれほど熱い視線を送り、接吻までしておきながら、今の俊紀には、芳明など全く見えていない様子であった。
 良かった。と思う反面、芳明はなぜか、怒りにも似た感情を持っていた。
(一年経つのだ。俊紀様と初めてお会いしたのも、同じ季節だった。二人で梅園を歩きながら、お話しをした)
 水仙の芳香が一瞬、梅の香に思えた。
「松澤様のお宅にお邪魔する約束をしたから、今夜は帰らないよ」
 俊紀は一度も、芳明に視線を向けなかった。一度も。
 芳明は久仁子を乗せた車を見送ると、帰ろうとしている俊紀に近づいた。
 俊紀は、芳明の姿を確認すると、無表情のまま、後部座席の扉を開いた。
 
 また、俊紀の部屋に入る。それがどんな意味を持っているのか、芳明は理解していた。
俊紀は外套を取ると、赤葡萄酒と洋盃を用意した。
「この前、外套を忘れてお出ででしたが、風邪などひかれませんでしたか? どうお返しすべきかと、悩んでおりました」
 俊紀の皮肉に、苛立ちを覚えた。乱暴に外套を取り、手袋と共に置くと、息苦しさを感じて#本襟締_ネクタイ__#を弛め、第一釦を外した。
「どうぞ」
 洋盃を渡される。その時、人差し指が微かに触れ合った。それだけのことに芳明はひどく動揺し、半分ほど満たされた赤葡萄酒を、一気に飲み干した。
「無茶をなさいますな。どうなさいました?」
 俊紀は無表情のまま、洋盃を口に運んだ。その、絵のような姿を芳明は直視できずにいた。
「どういうおつもりです?」
「なにが?」
「あんな目で私をご覧になったり、接吻をなさりながら、今日は一度も私を」
 俊紀は口の端だけ釣り上げて笑い、そうして、あの目で芳明を見た。
「子爵は、私の気持ちをご存知でありながら、ここへいらした。今度こそは覚悟がお有りだと、思ってよろしいのですね」
 芳明は答えなかった。俯いて、俊紀に背を向けた。拒絶にも見えるその仕草。しかし、背中は無防備だった。 
 俊紀の手の温もりが、布越しにさえ、感じられる。
「震えているのですね。可愛い人だ」
「寒いのです」
「もうじき三月とはいえ、まだ春ではありませんね」
 俊紀は右手を忍ばせ、鎖骨を小指でなぞると、そのまま芳明の顔に添え、仰向かせた。「温めて差し上げますよ」
 接吻は、赤葡萄酒の味がした。
 「初めて言葉を交わした日を、覚えておいでですか? 貴方は梅の木の下に佇んでいらした。梅の花が色褪せて見えるほど、美しかった」
 裸のままで、俊紀は芳明の髪を弄びながら、話し掛ける。
 体を擦り付け合い、絡め合うだけの情交に、芳明は今までに得たことのない満足感と、気怠さを抱いていた。
 寝台の上から部屋を見渡すと、窓際にビスクドールがあるのが見えた。ずっとそこにあったのだろうが、位置が低すぎて気付かなかった。深い海のような青い瞳と、波打つ黄金の髪。
「あのビスクドールは、仏蘭西から?」
 俊紀は、自分の言葉を一切無視した芳明に、不快そうな態度は欠片も見せない。
「母が、少女時代から大事にしていたものです。男の部屋には相応しくないと思いながらも、あの場所になければ寂しくて」
(あの人形は、いくつの情事を見たのだろう)
「芳明様」
 優しい声に、芳明は顔を向けた。俊紀の顔が近づいてくる。芳明は目を閉じた。
 ビスクドールの視線の中で、二人はまた、身体を重ねた。

 「車を用意しましょう」
身支度を整えた芳明に、俊紀が、当然と言わんばかりの口調で申し出た。
「結構です。歩いて帰れる距離ですから、運転手を煩わせる必要はありません」
「私が運転致しますので」
 芳明は、俊紀を見た。いつもの穏やかな表情。
「ご自身でなさるのですか?」
「仕事上から、軽快に動き回る必要がありますから。腕前はなかなかのものですよ」
 芳明は、首を横に振って、辞退した。
「もしも、家人が起きていたなら、髪の乱れの言い訳をしなければなりません。今は丁度良い木枯らしが吹いております」
 俊紀が、目を細めた。好色にも見える笑みに、芳明は少しだけ、体温が上がるのを感じた。
「仕方ありません。では、お気をつけて」
 芳明のうなじに触れると、心底心配そうに言った。

 静かに戻ったつもりが、足音を聞きつけたのだろう、久仁子が玄関で待っていた。
「まさか、起きていたのではないだろうね」
「さっきまで、芳和さんにお乳を差し上げてましたの。それからずっと、寝顔を見ていました。
 どんなに美しい絵画でも、私の心をこれほどまでに満たせるとは思いませんわ。どうしてあんなにお可愛らしいのかしら」
 頬を紅潮させて、久仁子は芳明から荷物を受け取りながら、はしゃいで見せる。
「私も、見たいな」
「えぇ、ご一緒に」
 小さな蒲団の中で、芳和は眠っていた。生まれた頃よりもずっと、大きくなった体。表情も豊かになり、可愛らしさは増すばかりだ。
(この子がいる限り、私の罪が人に知られることはない。この子の存在が、私の罪を覆い隠してくれる)
 そう考えて、芳明は静かに微笑んだ。
「どうなさいましたの?」
 久仁子は芳明の顔を覗き込み、頬を赤く染めた。
「なに?」
「芳明さん、いつにも増して、お綺麗に見えますの」
 はにかみながら俯く久仁子の頬に、軽く接吻する。
 その時、久仁子が一瞬、なにかを感じたらしいことに気付いた。あら? といった表情を見せたのだ。一瞬のことではあったのだが、気になりつつも、恐ろしくて、問うことができなかった。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

『これで最後だから』と、抱きしめた腕の中で泣いていた

和泉奏
BL
「…俺も、愛しています」と返した従者の表情は、泣きそうなのに綺麗で。 皇太子×従者

ハルとアキ

花町 シュガー
BL
『嗚呼、秘密よ。どうかもう少しだけ一緒に居させて……』 双子の兄、ハルの婚約者がどんな奴かを探るため、ハルのふりをして学園に入学するアキ。 しかし、その婚約者はとんでもない奴だった!? 「あんたにならハルをまかせてもいいかなって、そう思えたんだ。 だから、さよならが来るその時までは……偽りでいい。 〝俺〟を愛してーー どうか気づいて。お願い、気づかないで」 ---------------------------------------- 【目次】 ・本編(アキ編)〈俺様 × 訳あり〉 ・各キャラクターの今後について ・中編(イロハ編)〈包容力 × 元気〉 ・リクエスト編 ・番外編 ・中編(ハル編)〈ヤンデレ × ツンデレ〉 ・番外編 ---------------------------------------- *表紙絵:たまみたま様(@l0x0lm69) * ※ 笑いあり友情あり甘々ありの、切なめです。 ※心理描写を大切に書いてます。 ※イラスト・コメントお気軽にどうぞ♪

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

Endless Summer Night ~終わらない夏~

樹木緑
BL
ボーイズラブ・オメガバース "愛し合ったあの日々は、終わりのない夏の夜の様だった” 長谷川陽向は “お見合い大学” と呼ばれる大学費用を稼ぐために、 ひと夏の契約でリゾートにやってきた。 最初は反りが合わず、すれ違いが多かったはずなのに、 気が付けば同じように東京から来ていた同じ年の矢野光に恋をしていた。 そして彼は自分の事を “ポンコツのα” と呼んだ。 ***前作品とは完全に切り離したお話ですが、 世界が被っていますので、所々に前作品の登場人物の名前が出てきます。***

初恋はおしまい

佐治尚実
BL
高校生の朝好にとって卒業までの二年間は奇跡に満ちていた。クラスで目立たず、一人の時間を大事にする日々。そんな朝好に、クラスの頂点に君臨する修司の視線が絡んでくるのが不思議でならなかった。人気者の彼の一方的で執拗な気配に朝好の気持ちは高ぶり、ついには卒業式の日に修司を呼び止める所までいく。それも修司に無神経な言葉をぶつけられてショックを受ける。彼への思いを知った朝好は成人式で修司との再会を望んだ。 高校時代の初恋をこじらせた二人が、成人式で再会する話です。珍しく攻めがツンツンしています。 ※以前投稿した『初恋はおしまい』を大幅に加筆修正して再投稿しました。現在非公開の『初恋はおしまい』にお気に入りや♡をくださりありがとうございました!こちらを読んでいただけると幸いです。 今作は個人サイト、各投稿サイトにて掲載しています。

逃げられない罠のように捕まえたい

アキナヌカ
BL
僕は岩崎裕介(いわさき ゆうすけ)には親友がいる、ちょっと特殊な遊びもする親友で西村鈴(にしむら りん)という名前だ。僕はまた鈴が頬を赤く腫らせているので、いつものことだなと思って、そんな鈴から誘われて僕は二人だけで楽しい遊びをする。 ★★★このお話はBLです 裕介×鈴です ノンケ攻め 襲い受け リバなし 不定期更新です★★★ 小説家になろう、pixiv、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ、fujossyにも掲載しています。

別れようと彼氏に言ったら泣いて懇願された挙げ句めっちゃ尽くされた

翡翠飾
BL
「い、いやだ、いや……。捨てないでっ、お願いぃ……。な、何でも!何でもするっ!金なら出すしっ、えっと、あ、ぱ、パシリになるから!」 そう言って涙を流しながら足元にすがり付くαである彼氏、霜月慧弥。ノリで告白されノリで了承したこの付き合いに、βである榊原伊織は頃合いかと別れを切り出したが、慧弥は何故か未練があるらしい。 チャライケメンα(尽くし体質)×物静かβ(尽くされ体質)の話。

あなたの隣で初めての恋を知る

ななもりあや
BL
5歳のときバス事故で両親を失った四季。足に大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされる。しらさぎが丘養護施設で育ち、高校卒業後、施設を出て一人暮らしをはじめる。 その日暮らしの苦しい生活でも決して明るさを失わない四季。 そんなある日、突然の雷雨に身の危険を感じ、雨宿りするためにあるマンションの駐車場に避難する四季。そこで、運命の出会いをすることに。 一回りも年上の彼に一目惚れされ溺愛される四季。 初めての恋に戸惑いつつも四季は、やがて彼を愛するようになる。 表紙絵は絵師のkaworineさんに描いていただきました。

処理中です...