8 / 18
第七章
しおりを挟む
風が剃刀の鋭さを持って吹きすさぶ1月の終わり、芳明は若い華族達の集まるサロンにいた。
一通りの挨拶を終えた。俊紀はいない。安堵のため息を吐く。
そのくせ、なにやら心の中に穴の空いたような、そこはかとない苦しみも感じる。友である俊紀を男色だと決めつけ、自惚れにも似た考えで避けている罪悪感のせいだろう。
僅かな時間でも、俊紀を忘れていたかった。そんな気持ちも後押しして、有意義な討論、政策に対する意見、反論に、いつも以上の熱を持って、積極的に加わっていた。
「あぁ、そろそろお開きの時間ですね」
若き侯爵の言葉を合図に、皆が席を立ち始める。
そんな中、一人の紳士が現れた。
「間に合わなかったようですね」
荒い息を吐きながら俊紀は残念そうに呟くと、残っていた人達と挨拶を交わし、芳明の前に立った。
「久しぶりに子爵と、お話しできると、楽しみにしておりましたのに、仕事が長引いてしまいました」
外套の併せ目に外の新鮮な冷たい空気を含ませたまま、俊紀はあの、芳明を捉え込む視線を向けた。
「それならば」
自分でも考えていなかった言葉が唇から溢れ、いけないと思いながらも、芳明は自分を止めることができなかった。
「是非、これから」
俊紀の赤い唇が、三日月を象った。
「それでは、我が家へお出で下さい」
若い華族だけの集まりで、長月侯爵夫人はいなかった。もし、この場に居たのならば、芳明を止めてくれたはずである。それもまた、運命であったのだろう。
伯爵家の敷地に入ると、館と呼ぶに相応しい洋館が見えた。これこそが、伯爵家を潰しかけた元凶であろう。
「私の住まいは、あちらです」
庭の隅に、時を経てこそ得られる、味わいのある、純日本家屋があった。
「食事は母屋から届けて貰いますし、仕事上の来客は、あちらの居間を使っています。ここにあるのは書斎と、寝室だけです。
曽祖父が隠居生活の為に作らせた物です。狭いけれど趣があって、小さな頃から憧れたものでした」
本当に小さな家であった。俊紀の言う通り、二間と湯殿、ご不浄しか見当たらない。
芳明が通された板張りの部屋には、丸い机と二脚の椅子、寝台のみ。
机に、二人は不自然に隣り合わせて座ると、時を忘れて話した。
俊紀がいたのは、芳明よりも五年前であり、口にする様子などもなんとはなく違っていたが、互いに懐かしみ合った。
「仏蘭西は美しく、進歩的な國ですが、私はやはり、日本が好きです」
俊紀が、空になった洋盃に、葡萄酒を注ぎながらいった。
「それは、好きな方がおありだからですか?」
葡萄酒で滑らかになった舌は、心の底に押し込んでいたはずの言葉を、飾りもなしに紡ぎ出す。
俊紀は最初、驚いたような表情をしたが、すぐに目の縁を紅く染めた。人よりも白い肌に赤みが差し、切れ長な目に一段と艶が増す。
「妻に聞きました。俊紀様は、ある令嬢を思い続けているのだと」
まるで少年のように、俊紀は微笑んだ。
「長月侯爵夫人が仰いました。俊紀様は、殿方をお好みだと」
まるで、悪戯を見られた少年のようだと、芳明は思った。みるみるうちに、俊紀は顔を赤く染め、俯いたのだ。
「どちらが本当なのですか?」
俊紀は言葉を発しようとしたらしいが、芳明の元には届かなかった。
「最近、私は強い視線を感じています。その視線を辿ると、いつも俊紀様がいらっしゃった。
あの視線の意味を、教えては頂けませんか?」
俊紀の視線は、いつの間にか芳明にまっすぐ注がれ、もう戸惑いは見せていなかった。
「仏蘭西へ渡る前のことです。私は長月侯爵夫人に、ご婦人とのお付き合いを指南して頂こうとしたのです。
しかし、どうしても受け入れることができませんでした。甘い香りのする柔らかな肌がなぜか嫌で、漸く私は、己の性癖を知ったのです。
長月侯爵夫人は、お口の軽い方ではない。その方が子爵に仰ったのは、私の好みをよくご存知なのでしょうね」
俊紀は、白い指で眼鏡を外すと、芳明の目を覗き込んだ。
「二人きりのこの部屋で、そんなことを仰ると言うことは、おありなのですね」
「なにが」
「覚悟です」
「なんの?」
芳明の左肩が、熱を持った。
「これからわかります」
顔が近付いて来る。
紅をひいたように紅い唇が、芳明の血色の悪い唇に重ねられる。
芳明の心に、嫌悪感は無かった。むしろ、陶酔に似た感情が湧き上がる。
右肩にも温もりを感じ、両肩に、引き寄せようとする力を感じた時、芳明は我に返った。
必死の思いで顔を背け、無理矢理唇を離すと、両手で俊紀の胸を突いた。
洋盃が床に触れ、破片を散らす。電灯の光を受けて、煌めきながら、四方に飛び散った。
「無体な真似は致しません」
芳明は袖口で涙を拭くと、洋盃の破片を踏みつけて部屋を飛び出した。
まだ日の出の遠い午前三時、芳明は覚束ない足取りで、ひたすら我が家を目指した。
息が白く濁る。感覚を失いつつある冷たい指先を慰める。外套を忘れて、震えているはずなのに、肩と唇だけは熱かった。
家人を起こさぬよう静かに家に入り、居間に向かった。電気も点けす、封を切ったばかりのブランデを手にすると、洋盃に注いだ。喉の焼けそうに強いそれを、喉に流し込む。
両手で洋盃を包み込み、芳明は声を殺して泣いた。自分が理解できずに。
(私は畜生道に堕ちたのだろうか。妻にも、侯爵夫人にも、美しい女優にも感じたことのない欲望が、私の心を占領しようとした。
あの時、俊紀様に身を委ねたいと思った心は嘘ではなかった。ただ、道徳を捨てきれぬ私は、拒むことしかできず……私は)
芳明は、自分でも理解できぬ苦しさに、ただ、泣き続けるしかなかった。
一通りの挨拶を終えた。俊紀はいない。安堵のため息を吐く。
そのくせ、なにやら心の中に穴の空いたような、そこはかとない苦しみも感じる。友である俊紀を男色だと決めつけ、自惚れにも似た考えで避けている罪悪感のせいだろう。
僅かな時間でも、俊紀を忘れていたかった。そんな気持ちも後押しして、有意義な討論、政策に対する意見、反論に、いつも以上の熱を持って、積極的に加わっていた。
「あぁ、そろそろお開きの時間ですね」
若き侯爵の言葉を合図に、皆が席を立ち始める。
そんな中、一人の紳士が現れた。
「間に合わなかったようですね」
荒い息を吐きながら俊紀は残念そうに呟くと、残っていた人達と挨拶を交わし、芳明の前に立った。
「久しぶりに子爵と、お話しできると、楽しみにしておりましたのに、仕事が長引いてしまいました」
外套の併せ目に外の新鮮な冷たい空気を含ませたまま、俊紀はあの、芳明を捉え込む視線を向けた。
「それならば」
自分でも考えていなかった言葉が唇から溢れ、いけないと思いながらも、芳明は自分を止めることができなかった。
「是非、これから」
俊紀の赤い唇が、三日月を象った。
「それでは、我が家へお出で下さい」
若い華族だけの集まりで、長月侯爵夫人はいなかった。もし、この場に居たのならば、芳明を止めてくれたはずである。それもまた、運命であったのだろう。
伯爵家の敷地に入ると、館と呼ぶに相応しい洋館が見えた。これこそが、伯爵家を潰しかけた元凶であろう。
「私の住まいは、あちらです」
庭の隅に、時を経てこそ得られる、味わいのある、純日本家屋があった。
「食事は母屋から届けて貰いますし、仕事上の来客は、あちらの居間を使っています。ここにあるのは書斎と、寝室だけです。
曽祖父が隠居生活の為に作らせた物です。狭いけれど趣があって、小さな頃から憧れたものでした」
本当に小さな家であった。俊紀の言う通り、二間と湯殿、ご不浄しか見当たらない。
芳明が通された板張りの部屋には、丸い机と二脚の椅子、寝台のみ。
机に、二人は不自然に隣り合わせて座ると、時を忘れて話した。
俊紀がいたのは、芳明よりも五年前であり、口にする様子などもなんとはなく違っていたが、互いに懐かしみ合った。
「仏蘭西は美しく、進歩的な國ですが、私はやはり、日本が好きです」
俊紀が、空になった洋盃に、葡萄酒を注ぎながらいった。
「それは、好きな方がおありだからですか?」
葡萄酒で滑らかになった舌は、心の底に押し込んでいたはずの言葉を、飾りもなしに紡ぎ出す。
俊紀は最初、驚いたような表情をしたが、すぐに目の縁を紅く染めた。人よりも白い肌に赤みが差し、切れ長な目に一段と艶が増す。
「妻に聞きました。俊紀様は、ある令嬢を思い続けているのだと」
まるで少年のように、俊紀は微笑んだ。
「長月侯爵夫人が仰いました。俊紀様は、殿方をお好みだと」
まるで、悪戯を見られた少年のようだと、芳明は思った。みるみるうちに、俊紀は顔を赤く染め、俯いたのだ。
「どちらが本当なのですか?」
俊紀は言葉を発しようとしたらしいが、芳明の元には届かなかった。
「最近、私は強い視線を感じています。その視線を辿ると、いつも俊紀様がいらっしゃった。
あの視線の意味を、教えては頂けませんか?」
俊紀の視線は、いつの間にか芳明にまっすぐ注がれ、もう戸惑いは見せていなかった。
「仏蘭西へ渡る前のことです。私は長月侯爵夫人に、ご婦人とのお付き合いを指南して頂こうとしたのです。
しかし、どうしても受け入れることができませんでした。甘い香りのする柔らかな肌がなぜか嫌で、漸く私は、己の性癖を知ったのです。
長月侯爵夫人は、お口の軽い方ではない。その方が子爵に仰ったのは、私の好みをよくご存知なのでしょうね」
俊紀は、白い指で眼鏡を外すと、芳明の目を覗き込んだ。
「二人きりのこの部屋で、そんなことを仰ると言うことは、おありなのですね」
「なにが」
「覚悟です」
「なんの?」
芳明の左肩が、熱を持った。
「これからわかります」
顔が近付いて来る。
紅をひいたように紅い唇が、芳明の血色の悪い唇に重ねられる。
芳明の心に、嫌悪感は無かった。むしろ、陶酔に似た感情が湧き上がる。
右肩にも温もりを感じ、両肩に、引き寄せようとする力を感じた時、芳明は我に返った。
必死の思いで顔を背け、無理矢理唇を離すと、両手で俊紀の胸を突いた。
洋盃が床に触れ、破片を散らす。電灯の光を受けて、煌めきながら、四方に飛び散った。
「無体な真似は致しません」
芳明は袖口で涙を拭くと、洋盃の破片を踏みつけて部屋を飛び出した。
まだ日の出の遠い午前三時、芳明は覚束ない足取りで、ひたすら我が家を目指した。
息が白く濁る。感覚を失いつつある冷たい指先を慰める。外套を忘れて、震えているはずなのに、肩と唇だけは熱かった。
家人を起こさぬよう静かに家に入り、居間に向かった。電気も点けす、封を切ったばかりのブランデを手にすると、洋盃に注いだ。喉の焼けそうに強いそれを、喉に流し込む。
両手で洋盃を包み込み、芳明は声を殺して泣いた。自分が理解できずに。
(私は畜生道に堕ちたのだろうか。妻にも、侯爵夫人にも、美しい女優にも感じたことのない欲望が、私の心を占領しようとした。
あの時、俊紀様に身を委ねたいと思った心は嘘ではなかった。ただ、道徳を捨てきれぬ私は、拒むことしかできず……私は)
芳明は、自分でも理解できぬ苦しさに、ただ、泣き続けるしかなかった。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
ハルとアキ
花町 シュガー
BL
『嗚呼、秘密よ。どうかもう少しだけ一緒に居させて……』
双子の兄、ハルの婚約者がどんな奴かを探るため、ハルのふりをして学園に入学するアキ。
しかし、その婚約者はとんでもない奴だった!?
「あんたにならハルをまかせてもいいかなって、そう思えたんだ。
だから、さよならが来るその時までは……偽りでいい。
〝俺〟を愛してーー
どうか気づいて。お願い、気づかないで」
----------------------------------------
【目次】
・本編(アキ編)〈俺様 × 訳あり〉
・各キャラクターの今後について
・中編(イロハ編)〈包容力 × 元気〉
・リクエスト編
・番外編
・中編(ハル編)〈ヤンデレ × ツンデレ〉
・番外編
----------------------------------------
*表紙絵:たまみたま様(@l0x0lm69) *
※ 笑いあり友情あり甘々ありの、切なめです。
※心理描写を大切に書いてます。
※イラスト・コメントお気軽にどうぞ♪
【完結】幼馴染から離れたい。
June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。
βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。
番外編 伊賀崎朔視点もあります。
(12月:改正版)
読んでくださった読者の皆様、たくさんの❤️ありがとうございます😭
1/27 1000❤️ありがとうございます😭
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。



Endless Summer Night ~終わらない夏~
樹木緑
BL
ボーイズラブ・オメガバース "愛し合ったあの日々は、終わりのない夏の夜の様だった”
長谷川陽向は “お見合い大学” と呼ばれる大学費用を稼ぐために、
ひと夏の契約でリゾートにやってきた。
最初は反りが合わず、すれ違いが多かったはずなのに、
気が付けば同じように東京から来ていた同じ年の矢野光に恋をしていた。
そして彼は自分の事を “ポンコツのα” と呼んだ。
***前作品とは完全に切り離したお話ですが、
世界が被っていますので、所々に前作品の登場人物の名前が出てきます。***

Ωの不幸は蜜の味
grotta
BL
俺はΩだけどαとつがいになることが出来ない。うなじに火傷を負ってフェロモン受容機能が損なわれたから噛まれてもつがいになれないのだ――。
Ωの川西望はこれまで不幸な恋ばかりしてきた。
そんな自分でも良いと言ってくれた相手と結婚することになるも、直前で婚約は破棄される。
何もかも諦めかけた時、望に同居を持ちかけてきたのはマンションのオーナーである北条雪哉だった。
6千文字程度のショートショート。
思いついてダダっと書いたので設定ゆるいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる