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第ニ章
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祝言は、芳明の二十四歳の誕生日に行われた。まだ、残暑の厳しい、九月八日のことである。
地面を叩きつけるような、涼し気な音が耳を刺激する。芳明は微睡みの中で、雨音を聞いていた。昨日までの暑さはどこへやら、雨が地面から熱を奪っているらしい。布団から出た肩が肌寒い。
人の気配を感じて、芳明は目を開けた。
「あら」
少女の、戸惑った声が聞こえた。
「おはよう」
芳明が声を掛けると、顔を覗き込んでいたらしい久仁子は、着物の袖で口元を隠し、薄暗い室内でも分かるほど、顔を赤く染めた。
「おはようございます。
失礼致しました。旦那様のお召し物を持って参りましたの」
それだけ言うと、寝室を出ていった。
時計は六時を指している。
芳明は寝室を見渡した。
留学中に、孝芳が用意してくれた洋館で、新婚生活は始まった。自宅とはいえ、芳明も住み始めたばかりで、見覚えのない光景に等しい。
芳明が寝ている寝台の枕元に、黒い着物が揃えられている。手を伸ばしながら体を起こして、芳明は自分が、布団を被っているだけの裸であることに気付いた。
「あぁ、当たり前か」
初めて触れた婦人の肌は、柔らかく温かかった。ただ、緊張していた為だろうか、あまりよく覚えてはいない。
気持ちを落ち着ける為、ゆっくり着物を身につけると、立ち上がって鏡台の前に立った。
久しぶりに、劣等感が頭をもたげる。男らしくないこの体を、久仁子はどう思っただろうか。久仁子を守る。誓いに嘘はないが、この体で可能性だろうか? などと思われていないかと、不安が脳裏を過る。
(いいや、私は守る。久仁子を一生)
改めて決心し、華奢な体を着物に隠した。
久仁子は、女中の野江と共に、朝食の用意をしていた。
「おはようございます、若旦那様」
芳明が生まれる前から、有間家に仕えている野江は、芳明に気付くと、気を利かせて久仁子を台所から追い出した。
芳明は椅子に腰掛けると、用意されていた新聞を手にした。久仁子はと言うと、前掛けは外したものの、芳明の傍らに立ったままで、少し困った顔をした。
「どうしたの? 座りなさい」
言ってすぐ、大杉男爵家は、純日本風であったことを思い出した。
「椅子は慣れていない?」
「はい。女学校では毎日座っておりましたけれど、自宅では全くでしたので、不思議な気持ちですわ」
ゆったりとした動作で座ると、俯きながらも、チラと芳明を見る。
「雨が昨日では無くて、よろしゅうございました」
野江は手際よく、朝食を食卓に並べる。
「そうだね。
どうしたの?」
久仁子は、こっそり。といった表現が似合う様子で、芳明を見つめている。夫婦とは言え、出会ってまだ、一月も経たない。言い辛いこともあるだろうと、水を向けるが、久仁子はもじもじするばかり。
「若旦那様がお綺麗なので、驚いてらっしゃるのでしょう」
久仁子は、はにかみの笑顔を見せた。
「有間子爵夫人をお見受けする度、母はうっとりと見惚れてしまうのよ。といつも言っておりますの。お母様譲りの、芳明さんの美貌に、きっと驚くわよ。って。
でも、これほどまでにお美しいだなんて、思いもよりませんでした」
(褒め言葉と分かっていても、妻から言われる言葉ではないな)
自らの美を自覚していないわけではない。が、男らしさに価値観を置けば、あまり嬉しい遺伝ではない。
とは言え、久仁子は芳明を、好ましく思っているとわかって、気持ちは落ち着いた。
久仁子は食事の間も、芳明に視線を向けては、頬を染めた。その視線は、芳明をたじろがせた令嬢達のものとは全く違った。
久仁子の優しい目が、芳明に対する愛おしさを伝える。口数は少ないが、視線は饒舌だった。
久仁子は完璧な妻であり、嫁であった。控え目で、気が利き、男爵令嬢でありながら、家事の一切を身に着けていた。社交界で恥をかかないようにと、父男爵からダンスも教えられていた。
自慢にもならないが、洋行帰りのくせに芳明は、ダンスが大の苦手であった。パーティーに出席していても、いつも親しい紳士達と会話を楽しむばかりで、ダンスから逃げてきたのであるが、久仁子を伴っていれば、自分ばかりが楽しんでいてはいけない。一念発起して、夕餉の後、久仁子からダンスを習うことにした。
生成りの、柔らかな正絹で作られたドレスを身に着けて、蓄音機から流れる輪曲に合わせて、久仁子は軽やかにステップを踏む。綿菓子のように甘くて柔らかな声に指示されながら、芳明もたどたどしく足を運ぶ。
「お上手ですわ」
褒められて嬉しくなるのは、子供だけではない。パーティーの前日までみっちり練習を積み、初めて、人前で披露した。
芳明はダンスを、久仁子に習ったことを隠さなかった。男の沽券だとか、面子などは、意味を成しはしない。優れた婦人は讃えられるべきだと、当然のように考えていたからである。
そんな芳明の考えが嘲笑されなかったのは若さの為かも知れない。登美子譲りの華のお陰かも知れない。もしかしたら、久仁子の無垢な可愛らしさのせいかもしれなかったし、二人の微笑ましい仲睦まじさが理由だったかもしれない。
どんな理由があるにしろ、二人は好ましい夫婦として、社交界に受け入れられたのである。
久仁子は社交界に慣れても、あの、はにかんだ笑顔を失わず、芳明を喜ばせた。芳明はあの笑顔が何よりも好きだったのだ。
恋をしていた。この世で最も純粋な恋を、二人はしていた。
地面を叩きつけるような、涼し気な音が耳を刺激する。芳明は微睡みの中で、雨音を聞いていた。昨日までの暑さはどこへやら、雨が地面から熱を奪っているらしい。布団から出た肩が肌寒い。
人の気配を感じて、芳明は目を開けた。
「あら」
少女の、戸惑った声が聞こえた。
「おはよう」
芳明が声を掛けると、顔を覗き込んでいたらしい久仁子は、着物の袖で口元を隠し、薄暗い室内でも分かるほど、顔を赤く染めた。
「おはようございます。
失礼致しました。旦那様のお召し物を持って参りましたの」
それだけ言うと、寝室を出ていった。
時計は六時を指している。
芳明は寝室を見渡した。
留学中に、孝芳が用意してくれた洋館で、新婚生活は始まった。自宅とはいえ、芳明も住み始めたばかりで、見覚えのない光景に等しい。
芳明が寝ている寝台の枕元に、黒い着物が揃えられている。手を伸ばしながら体を起こして、芳明は自分が、布団を被っているだけの裸であることに気付いた。
「あぁ、当たり前か」
初めて触れた婦人の肌は、柔らかく温かかった。ただ、緊張していた為だろうか、あまりよく覚えてはいない。
気持ちを落ち着ける為、ゆっくり着物を身につけると、立ち上がって鏡台の前に立った。
久しぶりに、劣等感が頭をもたげる。男らしくないこの体を、久仁子はどう思っただろうか。久仁子を守る。誓いに嘘はないが、この体で可能性だろうか? などと思われていないかと、不安が脳裏を過る。
(いいや、私は守る。久仁子を一生)
改めて決心し、華奢な体を着物に隠した。
久仁子は、女中の野江と共に、朝食の用意をしていた。
「おはようございます、若旦那様」
芳明が生まれる前から、有間家に仕えている野江は、芳明に気付くと、気を利かせて久仁子を台所から追い出した。
芳明は椅子に腰掛けると、用意されていた新聞を手にした。久仁子はと言うと、前掛けは外したものの、芳明の傍らに立ったままで、少し困った顔をした。
「どうしたの? 座りなさい」
言ってすぐ、大杉男爵家は、純日本風であったことを思い出した。
「椅子は慣れていない?」
「はい。女学校では毎日座っておりましたけれど、自宅では全くでしたので、不思議な気持ちですわ」
ゆったりとした動作で座ると、俯きながらも、チラと芳明を見る。
「雨が昨日では無くて、よろしゅうございました」
野江は手際よく、朝食を食卓に並べる。
「そうだね。
どうしたの?」
久仁子は、こっそり。といった表現が似合う様子で、芳明を見つめている。夫婦とは言え、出会ってまだ、一月も経たない。言い辛いこともあるだろうと、水を向けるが、久仁子はもじもじするばかり。
「若旦那様がお綺麗なので、驚いてらっしゃるのでしょう」
久仁子は、はにかみの笑顔を見せた。
「有間子爵夫人をお見受けする度、母はうっとりと見惚れてしまうのよ。といつも言っておりますの。お母様譲りの、芳明さんの美貌に、きっと驚くわよ。って。
でも、これほどまでにお美しいだなんて、思いもよりませんでした」
(褒め言葉と分かっていても、妻から言われる言葉ではないな)
自らの美を自覚していないわけではない。が、男らしさに価値観を置けば、あまり嬉しい遺伝ではない。
とは言え、久仁子は芳明を、好ましく思っているとわかって、気持ちは落ち着いた。
久仁子は食事の間も、芳明に視線を向けては、頬を染めた。その視線は、芳明をたじろがせた令嬢達のものとは全く違った。
久仁子の優しい目が、芳明に対する愛おしさを伝える。口数は少ないが、視線は饒舌だった。
久仁子は完璧な妻であり、嫁であった。控え目で、気が利き、男爵令嬢でありながら、家事の一切を身に着けていた。社交界で恥をかかないようにと、父男爵からダンスも教えられていた。
自慢にもならないが、洋行帰りのくせに芳明は、ダンスが大の苦手であった。パーティーに出席していても、いつも親しい紳士達と会話を楽しむばかりで、ダンスから逃げてきたのであるが、久仁子を伴っていれば、自分ばかりが楽しんでいてはいけない。一念発起して、夕餉の後、久仁子からダンスを習うことにした。
生成りの、柔らかな正絹で作られたドレスを身に着けて、蓄音機から流れる輪曲に合わせて、久仁子は軽やかにステップを踏む。綿菓子のように甘くて柔らかな声に指示されながら、芳明もたどたどしく足を運ぶ。
「お上手ですわ」
褒められて嬉しくなるのは、子供だけではない。パーティーの前日までみっちり練習を積み、初めて、人前で披露した。
芳明はダンスを、久仁子に習ったことを隠さなかった。男の沽券だとか、面子などは、意味を成しはしない。優れた婦人は讃えられるべきだと、当然のように考えていたからである。
そんな芳明の考えが嘲笑されなかったのは若さの為かも知れない。登美子譲りの華のお陰かも知れない。もしかしたら、久仁子の無垢な可愛らしさのせいかもしれなかったし、二人の微笑ましい仲睦まじさが理由だったかもしれない。
どんな理由があるにしろ、二人は好ましい夫婦として、社交界に受け入れられたのである。
久仁子は社交界に慣れても、あの、はにかんだ笑顔を失わず、芳明を喜ばせた。芳明はあの笑顔が何よりも好きだったのだ。
恋をしていた。この世で最も純粋な恋を、二人はしていた。
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