視線

岡倉弘毅

文字の大きさ
上 下
3 / 18

第ニ章

しおりを挟む
 祝言は、芳明の二十四歳の誕生日に行われた。まだ、残暑の厳しい、九月八日のことである。
 地面を叩きつけるような、涼し気な音が耳を刺激する。芳明は微睡みの中で、雨音を聞いていた。昨日までの暑さはどこへやら、雨が地面から熱を奪っているらしい。布団から出た肩が肌寒い。
 人の気配を感じて、芳明は目を開けた。
「あら」
 少女の、戸惑った声が聞こえた。
「おはよう」
 芳明が声を掛けると、顔を覗き込んでいたらしい久仁子は、着物の袖で口元を隠し、薄暗い室内でも分かるほど、顔を赤く染めた。
「おはようございます。
 失礼致しました。旦那様のお召し物を持って参りましたの」
 それだけ言うと、寝室を出ていった。
 時計は六時を指している。
 芳明は寝室を見渡した。
 留学中に、孝芳が用意してくれた洋館で、新婚生活は始まった。自宅とはいえ、芳明も住み始めたばかりで、見覚えのない光景に等しい。
 芳明が寝ている寝台の枕元に、黒い着物が揃えられている。手を伸ばしながら体を起こして、芳明は自分が、布団を被っているだけの裸であることに気付いた。
「あぁ、当たり前か」
 初めて触れた婦人の肌は、柔らかく温かかった。ただ、緊張していた為だろうか、あまりよく覚えてはいない。
 気持ちを落ち着ける為、ゆっくり着物を身につけると、立ち上がって鏡台の前に立った。
 久しぶりに、劣等感が頭をもたげる。男らしくないこの体を、久仁子はどう思っただろうか。久仁子を守る。誓いに嘘はないが、この体で可能性だろうか? などと思われていないかと、不安が脳裏を過る。
 (いいや、私は守る。久仁子を一生)
 改めて決心し、華奢な体を着物に隠した。
 久仁子は、女中の野江と共に、朝食の用意をしていた。
「おはようございます、若旦那様」
 芳明が生まれる前から、有間家に仕えている野江は、芳明に気付くと、気を利かせて久仁子を台所から追い出した。
 芳明は椅子に腰掛けると、用意されていた新聞を手にした。久仁子はと言うと、前掛けは外したものの、芳明の傍らに立ったままで、少し困った顔をした。
「どうしたの? 座りなさい」
 言ってすぐ、大杉男爵家は、純日本風であったことを思い出した。
「椅子は慣れていない?」
「はい。女学校では毎日座っておりましたけれど、自宅では全くでしたので、不思議な気持ちですわ」
 ゆったりとした動作で座ると、俯きながらも、チラと芳明を見る。
「雨が昨日では無くて、よろしゅうございました」
 野江は手際よく、朝食を食卓に並べる。
「そうだね。
 どうしたの?」
  久仁子は、こっそり。といった表現が似合う様子で、芳明を見つめている。夫婦とは言え、出会ってまだ、一月も経たない。言い辛いこともあるだろうと、水を向けるが、久仁子はもじもじするばかり。
「若旦那様がお綺麗なので、驚いてらっしゃるのでしょう」
 久仁子は、はにかみの笑顔を見せた。
「有間子爵夫人をお見受けする度、母はうっとりと見惚れてしまうのよ。といつも言っておりますの。お母様譲りの、芳明さんの美貌に、きっと驚くわよ。って。
 でも、これほどまでにお美しいだなんて、思いもよりませんでした」
(褒め言葉と分かっていても、妻から言われる言葉ではないな)
 自らの美を自覚していないわけではない。が、男らしさに価値観を置けば、あまり嬉しい遺伝ではない。
 とは言え、久仁子は芳明を、好ましく思っているとわかって、気持ちは落ち着いた。
 久仁子は食事の間も、芳明に視線を向けては、頬を染めた。その視線は、芳明をたじろがせた令嬢達のものとは全く違った。
 久仁子の優しい目が、芳明に対する愛おしさを伝える。口数は少ないが、視線は饒舌だった。
 久仁子は完璧な妻であり、嫁であった。控え目で、気が利き、男爵令嬢でありながら、家事の一切を身に着けていた。社交界で恥をかかないようにと、父男爵からダンスも教えられていた。
 自慢にもならないが、洋行帰りのくせに芳明は、ダンスが大の苦手であった。パーティーに出席していても、いつも親しい紳士達と会話を楽しむばかりで、ダンスから逃げてきたのであるが、久仁子を伴っていれば、自分ばかりが楽しんでいてはいけない。一念発起して、夕餉の後、久仁子からダンスを習うことにした。
 生成りの、柔らかな正絹で作られたドレスを身に着けて、蓄音機から流れる輪曲に合わせて、久仁子は軽やかにステップを踏む。綿菓子のように甘くて柔らかな声に指示されながら、芳明もたどたどしく足を運ぶ。
「お上手ですわ」
 褒められて嬉しくなるのは、子供だけではない。パーティーの前日までみっちり練習を積み、初めて、人前で披露した。
 芳明はダンスを、久仁子に習ったことを隠さなかった。男の沽券だとか、面子などは、意味を成しはしない。優れた婦人は讃えられるべきだと、当然のように考えていたからである。
 そんな芳明の考えが嘲笑されなかったのは若さの為かも知れない。登美子譲りの華のお陰かも知れない。もしかしたら、久仁子の無垢な可愛らしさのせいかもしれなかったし、二人の微笑ましい仲睦まじさが理由だったかもしれない。
 どんな理由があるにしろ、二人は好ましい夫婦として、社交界に受け入れられたのである。
 久仁子は社交界に慣れても、あの、はにかんだ笑顔を失わず、芳明を喜ばせた。芳明はあの笑顔が何よりも好きだったのだ。
 恋をしていた。この世で最も純粋な恋を、二人はしていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

さよならの合図は、

15
BL
君の声。

キミと2回目の恋をしよう

なの
BL
ある日、誤解から恋人とすれ違ってしまった。 彼は俺がいない間に荷物をまとめて出てってしまっていたが、俺はそれに気づかずにいつも通り家に帰ると彼はもうすでにいなかった。どこに行ったのか連絡をしたが連絡が取れなかった。 彼のお母さんから彼が病院に運ばれたと連絡があった。 「どこかに旅行だったの?」 傷だらけのスーツケースが彼の寝ている病室の隅に置いてあって俺はお母さんにその場しのぎの嘘をついた。 彼との誤解を解こうと思っていたのに目が覚めたら彼は今までの全ての記憶を失っていた。これは神さまがくれたチャンスだと思った。 彼の荷物を元通りにして共同生活を再開させたが… 彼の記憶は戻るのか?2人の共同生活の行方は?

【BL】こんな恋、したくなかった

のらねことすていぬ
BL
【貴族×貴族。明るい人気者×暗め引っ込み思案。】  人付き合いの苦手なルース(受け)は、貴族学校に居た頃からずっと人気者のギルバート(攻め)に恋をしていた。だけど彼はきらきらと輝く人気者で、この恋心はそっと己の中で葬り去るつもりだった。  ある日、彼が成り上がりの令嬢に恋をしていると聞く。苦しい気持ちを抑えつつ、二人の恋を応援しようとするルースだが……。 ※ご都合主義、ハッピーエンド

【BL】声にできない恋

のらねことすていぬ
BL
<年上アルファ×オメガ> オメガの浅葱(あさぎ)は、アルファである樋沼(ひぬま)の番で共に暮らしている。だけどそれは決して彼に愛されているからではなくて、彼の前の恋人を忘れるために番ったのだ。だけど浅葱は樋沼を好きになってしまっていて……。不器用な両片想いのお話。

ただ愛されたいと願う

藤雪たすく
BL
自分の居場所を求めながら、劣等感に苛まれているオメガの清末 海里。 やっと側にいたいと思える人を見つけたけれど、その人は……

毒/同級生×同級生/オメガバース(α×β)

ハタセ
BL
βに強い執着を向けるαと、そんなαから「俺はお前の運命にはなれない」と言って逃げようとするβのオメガバースのお話です。

成り行き番の溺愛生活

アオ
BL
タイトルそのままです 成り行きで番になってしまったら溺愛生活が待っていたというありきたりな話です 始めて投稿するので変なところが多々あると思いますがそこは勘弁してください オメガバースで独自の設定があるかもです 27歳×16歳のカップルです この小説の世界では法律上大丈夫です  オメガバの世界だからね それでもよければ読んでくださるとうれしいです

そばにいてほしい。

15
BL
僕の恋人には、幼馴染がいる。 そんな幼馴染が彼はよっぽど大切らしい。 ──だけど、今日だけは僕のそばにいて欲しかった。 幼馴染を優先する攻め×口に出せない受け 安心してください、ハピエンです。

処理中です...