進まない時間 前編

岡倉弘毅

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第四十八章

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 どう説明すべきか。悩んでいるうちに、起き出したらしい圭は、シャワーを浴びに行った。昨夜は着替えもせず眠ってしまったのだから、我慢できなかったのだろう。
 なにか、大事なことを忘れている気がした。
 考えることが多すぎて、頭の中はぐちゃぐちゃで、しばらく思考を停止する。
 圭の足音。
「包帯!」
 やっと、今一番大事なことを思い出した。シャワーの際にはラップを巻く予定が、すっかり忘れこんでいたのだ。
 リビングに出ると、包帯を水浸しにした圭が、途方に暮れていた。頑張って着たらしいTシャツは、袖が変色している。
 頭は良いし、不要な蘊蓄を蓄えているくせに、圭は時々、とんでもなくとぼけたことをする。そんなところがまた、可愛らしいと思った。
「おいで」
 ソファに座らせ、包帯の取り換えと傷の消毒をする。
「さっきの声は、何だったのですか?」
 話すタイミングを探していた隼人に、チャンスが巡ってはきたが、気持ちは重かった。
「山上君からの電話だったのだけど、落ち着いて聞いてくれ。
 西島君が殺されたらしい」
「水野君に?」
 どうして知っているのか、問おうとしてやめた。圭自身、発言に驚いている様子が窺われた。
 ふと、脳裏に武を看取ったあの日の記憶が浮かんだ。明の死からの連想ではない。もう一つ、記憶が浮かんでくる。
 涼介だった。真っ赤な口紅を塗った、いや、違う。赤い血で染まった、放心状態の涼介だ。
「水野君に会いたい」
 うわごとのように言った。
「行こう」
「会えるの?」
「お前と俺に会いたいと言っているらしい。
 さ、これでいい。着替えておいで」
  圭は頷き、自室に向かった。
 嵐の前の静けさ。圭の落ち着きは、逆に恐ろしく感じられる。
 隼人は、黙っているのが苦痛だった。昨日から緊張が解ける暇も無く、事件が起こり続けていた。
「もう、気付いているのでしょう?」
 助手席にもたれたままで、圭の穏やか過ぎる声。
「三年前、西島武を殺したのが、水野君だと」
 圭も苦痛だったのだろうか、隼人の心を盗み見たかのように、静かに言った。
「いつから、知っていたんだ?」
「文化祭の前に、帰宅が遅かった日があったでしょう? あの日、互いの過去を告白し合いました。
 その時はまだ、殺した相手が西島武だとは知りませんでしたが」
 病院に到着して、二人はまた黙り込んだ。
 涼介が病院に収容されているのは、手の平の傷が理由らしかったが、案内されたのは、精神科病棟だった。
 ベッドとサイドテーブルしか無い、清潔な病室。朝日を浴びた真っ白な部屋は、清潔過ぎて逆に気が滅入りそうに思えた。
 涼介はベッドに腰掛け、包帯を巻いた手に手錠を掛けた状態で、二人を迎え入れた。
「傷、痛いでしょう?」
 圭は頭を横に振ると、用意されていたパイプ椅子に腰掛けた。
「何日か前から、圭を刺そうとする夢を見ていたんだ。今までは、刺す前に必死に目を覚ましていたけど、次に見れば多分、抗えないってわかってた。
 まさか、現実の方が早いなんて思っちゃなかったけど」
 二人の背後、つまり、涼介の正面には刑事がいる。にも関わらず涼介は饒舌だった。
「僕が殺したいのは、圭ただ一人。気付いたでしょう? 気付いていたでしょう?
 この欲望が消えてくれれば良いのだけど、自信がないんだ。
 気をつけて。僕には二度と、気を許しちゃいけない」
「ごめんなさい。ごめんなさい! 私は、貴方の力になれませんでした」
 膝に揃えられた手の上に、涙の粒が零れる。
「もうとっくに、僕は諦めていたんだよ。圭は何も悪くなんて無い」
 涼介は隼人に視線を向けると、笑顔を見せた。
「長瀬さん、圭を守って。決して僕に、殺させないで」
「わかった。約束するよ」
 まるで映画を観ているようだった。緊張しているのに、他人事のよう。現実からの逃避を始めたのだろうか?
 もう会えない。会ってはいけない。それが一番辛いと感じた。
「一つ聞いて良いですか?」
「なに?」
「どうして西島さんを?」
 涼介は穏やかに笑んだ。
「何もかも奪おうとするんだ。僕の人生も、圭も、武も、あいつは奪おうとする。だから、許せなかった。
 もう帰って。二度と会わない」
 隼人は立ち上がり、圭にも立つよう促した。のろのろと、駄々をこねる子供のように、圭の動きは緩慢だった。
 涙に濡れた目で、涼介を見つめる。
「さようなら」
 涼介が、優しく突き放す。
「さようなら」
 圭は何も言えず、ただ、涙を流すだけ。
「行こう」
 しかし、抵抗なく、素直に歩き出した。
 扉を潜ろうとしたその時、圭が隼人の手を振りほどき、振り向いた。
「水野君!」
「圭は大丈夫だよね。長瀬さんがいるもの」
 バイバイ。と、手を振ると、手錠の音が鈍く部屋中に響いた。
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