進まない時間 前編

岡倉弘毅

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第二十六章

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 予想はついていた。
ただ、涼介は圭のように戸惑いもせず、笑みを消すこともなかった。
「どこへ行こうとしていたのか、未だに思い出せないんだ。
 僕は道に迷って、途方に暮れていた。そんな時、男に声をかけられて、連れてってくれるって言うから、車に乗った」
 圭はさっき、車に、涼介が強く反応した理由を理解した。
「免許忘れたって嘘に騙されてさ、部屋に入ったら、ナイフ突きつけられて」
 それから涼介は、レイプによる体の痛み、口移しで飲まされた水で癒やされた後、襲ってきた絶望感。いつの間にか、男に対して同情していたこと、逃げそびれた時の不思議な安堵感等を話した。
「犯人は、常習犯だったのですか?」
「違うみたい。庇うつもりはないけど、最初は、親切心。そいつにも僕と同じくらいの弟がいて、かわいそうに思ったみたい。
 不幸の始まりは、僕が弟に似ていたこと」
「弟?」
「手を出せない弟に見立てて、男は僕を犯し続けた。どれくらいの時間が経ったのかはわからないけど、夜が二回過ぎたのは覚えている。暗いって怖いね」
 涼介の表情は一向に変わらない。まるで、世間話のように、淡々と語る。
「犯人は、捕まったのですよね?」
 なぜだろう。圭は思った。なぜ涼介は、男と言うのだろう。なぜ、犯人と言わないのか。
「捕まってないよ」
「では、野放しのままですか?」
「殺しちゃった」
 あまりにあっけらかんとした言い方だったため、圭の驚きは一瞬遅れ、危うく悲鳴を上げそうになって、唇を噛み締めた。
「僕、途中からもう、なんにも思い出せなくなっちゃって。どうしてかな、身体の痛みもなくなって」
 乖離が起こったのだな。そう、圭は思った。辛い現実から逃げて、心を癒やすための防御本能。
「僕ね、ずっと考えてたんだ。どうしてこの男はこんなことするんだろうって。
 もしかしたら、僕が知らなかっただけで、男は僕を知っていて、ずっと、好きだったのかもって、そう本気で思ったの。
 だから、聞いたんだ。僕は、自分の名前だけは思い出したかったから。(ねぇ、僕は誰?)って。
 男は僕を、アキって呼んだ。でも、僕、違うと思ったんだ。自分の名前は思い出せないのに、アキじゃないって、なぜかわかったの。
 僕は身代わりだったって、やっと気づいた。そうと気づくと、僕は悔しくて、ただ悔しくて、男を滅多刺しにしちゃったんだ」
「滅多刺し」
「うん。首を刺した後、腹を、血溜まりできるくらい。
 男はまだ、僕をアキって呼んでた。しつこい。もう呼ぶな。って思ったんだ」
 不自然に思った。涼介の記憶が確かなら、驚くべき記憶力である。殺されかけ、犯され、挙げ句、殺人を犯したならば、記憶を失ったとしてもおかしくはない。妄想にしては、辻褄が合いすぎていた。
「一つ、聞いてもいいですか?」
「なに?」
「ずいぶんと詳しく話していますが、覚えているのですか? さっき、全てを忘れたと言いましたが」
 涼介は、ニコリと笑った。
「なんにも覚えてなかった。僕の心の中は憎しみでいっぱいで、それ以外の感情なんか存在しなかったんだ」
「では、今話した内容は」
「あんがいさ、時間が経ってからのほうが、思い出せることってあるよね。
 一種の催眠術かなぁ。
 正気を取り戻してからね、あの事件の夢を見るようになったんだ。時間の流れも同じくらいで、毎日毎日、男が僕に、車に乗るよう促しながら、助手席側の鍵を外すところから、僕が男を殺すまで、繰り返し、繰り返し」
 時々、圭も事件の夢を見る。目覚めると、精神的な疲れで、体を動かせぬ程であるから、繰り返し見続けている涼介の、精神への負担は、圭の比ではあるまい。
「男の愛撫にね、時々感じてた。プライドも全てかなぐり捨てて、とにかく現実から逃れたかったんだ。わずかでも、気持ち良くなったら、喘いだり。でも、身体は一切反応しなかったけどね」
 涼介は初めて、硬い表情を見せた。
「男を刺した時の感触を、僕は忘れられないんだ。あの時、初めて本当の快楽を得た。滅多刺しにしたのだって、衝動が抑えられなかったからなんだ。
 夢は終わらない。繰り返し繰り返し、僕を恐怖に陥れ、殺人による快楽を刻み込む。
 夢の終わり、男を殺した後は、必ず下着が汚れているの。
 僕は怖いんだ。本当は認めたくなんかない。でも、認めるしかないと、夢は言っている。逃げようにも、逃げ場所がないんだ。辛かった。一人で抱えているのは、辛くて堪らない。
 誰も、僕を救ってはくれなかった。家族も、殺人者となった僕を、恐れていることを隠さなかった。これ以上誰かに、僕の本性を知られたくはない!
 笑っていれば、誰も僕の狂気には気付かない。それを望んでいたはずなのに、僕はいつからか、誰かがこの狂気に気付いてくれることを望むようになっていた。
 だから、先輩を見つけた時は、とても嬉しかった」 
「私は、どうすればいいのですか?」
「なにも。先輩は僕を見てくれた。本当の僕を今、見つめてくれている。
 それがどれほど嬉しいことか、わからないだろうけど。
 僕達は、誰にも理解されない傷を負っている。先輩は、殺されるかもしれないと、怯え、僕は、快楽を得たいがために、人を殺すかもしれないと。
 僕はもう、あの忌まわしい記憶を消そうという気持ちさえ、持てなくなっているんだ。諦めかけている。
 でも、快楽のために人を殺さないかと、怯えているのも本当なの。この、僅かな理性が消えるのも、遠いことじゃないと思ってる。
 生きている限り、殺人への誘惑から逃げ続けなければならないんだ」
「病院へ、行こうとは思わないのですか?」
 圭のもっともな疑問に、涼介は、唇の端を上げるだけの嫌な笑いを見せた。
「心に傷一つない精神科医に、こんなどす黒い感情が理解できるなんて思わないよ」 
 圭自身、避けているくせに。と、笑わなかったのは、涼介の優しさだろう。
 涙が一筋、頬を伝って落ちた。
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