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第四章
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昨日のことが気になって、涼介はホームルーム前に、二年二組を覗きに行った。
「良かった、来てる」
休まないだろうかと心配していたが、圭は相変わらず背筋を伸ばし、本を読んでいる最中だった。朝の穏やかな光景。
涼介の脇を、きつい目の少女が足音も荒く通り過ぎ、教室に入って行った。
「麻上君」
呼ばれた本人は、落ち着いた態度で少女に顔を向け、立ち上がる。
次の瞬間、圭は隣の席に勢い良く倒れ込んだ。振り下ろされた少女の右手は、強く拳が握られていた。
「よくも来られたわね。良文は停学なのに」
口許を押さえて、片腕で体を支えて立ち上がろうとする圭を見下ろして、少女は続ける。
「あんたが誘ったんでしょう! いやらしい」
「なに? あの人どうして」
涼介の、独り言とは思えない大きな声に、そばにいた女子が反応した。
「ほら、昨日麻上君に言い寄ってた奴、あの子の彼氏なのよ」
「だって、先輩は悪くないじゃない」
「でも、ねぇ」
まるで圭に非があるとでも言いた気に、友達と頷き合う。その態度に、怒り、我慢できなくなった涼介は、好奇の目を向けている連中を掻き分けて、圭の前に立ちはだかると、
「いい加減にしろよ!」
尚も殴ろうとする少女の手を捕まえた。
「あんたの彼氏が悪いんじゃないか! 僕は見てたんだから」
「どきなさいよ、あんたも殴られたいの?」
圭は涼介の学生服の裾を弱々しく引っ張ると、首を振り、止めるように示した。
「でも」
「早いわね。もう一年を誑かしたの?」
「なにを!」
「やめ」
口を覆っていた手が、赤い液体を零す。
「先輩!」
圭は両手で口を抑えると、机を器用に避けつつ、教室を飛び出した。そのまま手洗いに向かうと、口の中に溜まった血を洗面台に吐き出す。
「心配しないで下さい。ただ、血が嫌いなだけです」
水の力で血を流してしまうが、まだ、切れた場所から出血しているのだろう、何度も吐き出し、ハンカチで口を覆うと、壁に凭れかかった。
「血の味が、気持ち悪い」
「血の味は嫌い?」
「貴方は好きなのですか?」
「嫌いじゃない。舐められるよ」
「私は大嫌いです。血は嫌い。嫌な味」
「頬を冷やした方がいい」
「そうですね」
しかし、口許から離せないのか、ハンカチを動かそうとしない。血を含ませているらしく、うっすらと赤く染まっていた。
涼介は自分のハンカチを濡らし、軽く絞ると圭に差し出した。手を触らずに済むように、できる限り端を持って。
その行動に対して圭はまず、涼介の目を見た。なにかを探るような目。そして満足したのか、指に触れないように慎重にハンカチを受け取り、初めて、笑顔と言うにはあまりにも儚い笑みを見せた。
「ありがとうございます。えっと」
「水野涼介です。涼しいに、芥川龍之介の介」
「それは、涼しそうなお名前ですね」
心底感心したらしい声を出す。
「水野君、ホームルームが始まりますよ」
「いい。先輩が心配だもの」
「大した傷ではありません」
「傷も心配だけど」
圭は首を左右に振ると、ため息と共に言葉を吐き出した。
「もう慣れっこです。中学の時からずっとですもの。
それより、貴方の方が心配です」
「どうして?」
「私に関わると、ろくなことがありません。山上先生がいい例です。可愛いガールフレンドが欲しければ、余計な噂は無い方が良いでしょう?」
「いらない。女の子なんか興味ない」
「珍しい方ですね」
「先輩もそうでしょう? 女、ううん、人間が嫌いでしょう? 怖いでしょう?」
そっと、圭は首を横に振る。
「特定の、数人は好きです」
その言葉に、涼介の胸がチクリと痛む。
「山上先生?」
「そうですね」
「家族?」
「もういません」
「僕は?」
即答は無かった。
「嫌いじゃないでしょう?」
「親切だとは思います。しかし私達はまだ、分かり合えるほどの付き合いはないと思います」
もっともな答えに、涼介は笑顔を見せた。
「即答で好きって言われると、嘘っぽいよね」
「冷たいと、よく言われます」
「先輩は真剣に考えてくれたんでしょう?」
「なぁにいちゃいちゃしてんのよ!」
山上に連れられた少女が、飽くまでも攻撃的に、無抵抗であるはずの圭を責めようと構える。
「なにを言ってるんだ。謝りに来たんだろう」
「どうして謝らなきゃならないのよ! 逆でしょ!」
攻撃的な少女に、圭は諭すと言うには冷たすぎる、落ち着いた声で向かった。
「貴方の怒りは彼への愛情ではなく、女としてのプライドを踏み躙られたことへの怒り、つまり、単なるヒステリーです」
さっきまでの無抵抗は決して、女性に対する男の礼儀ではなく、気持ち悪くて喋れなかっただけらしい。血を拭って毒舌を開始すると、どうして被害者であるはずの圭が非難されるのか、わかった気がした。
「麻上、言い過ぎだ」
山上が咎める。
(噂にもなるよな。問題が起きると絶対いるもん、この人)
圭は山上を一瞥した後、頭を下げた。
「言い過ぎました。申し訳ありません」
「先輩」
両手を下げて深く頭を下げると、傷に障ったのか、小さな痛みを訴えた。
「大丈夫か?」
「口の中の傷はすぐに治ります」
「どうでも良いでしょう、そんな奴」
「今度はお前か謝る番だ」
「嫌よ」
潔い圭とは反対に、少女は強情だった。唇を尖らせて、決して自分の非は認めようとはしない。
「唇を突き出しているということは、噛み殺す怒りがない証拠。その程度の怒りの捌け口にされた私としましては、口先だけの謝罪など聞きたくありません」
今度は山上も止めなかった。
「随分腫れてるな」
「今日は普通に話すことができません。帰っても良いでしょうか?」
口調は冷静だが、顔色はいつにも増して良くない。
「許可するけど、その前に保健室に行ったらどうだ?」
「口の中に塗る薬などないでしょう? だったら帰ります。今日は隼人が休みなので」
(ハヤト?)
「そうか。だったらその方がいいな。帰り際に倒れるなよ。
っと、鞄、取ってきてやるから待ってろよ。
西東先生、あとをお願いします」
少女を任せて、山上は教室に向かった。
「とんだとばっちりを食わせてしまいましたね。入学早々遅刻の汚点ですよ。
私を庇った以上、それだけではすみません」
「僕も噂になるかな」
「かもしれません。申し訳ありませんが」
「どうして謝るの? 僕は嬉しいけど」
圭の目に、警戒が現れたのを察して、慌てて付け足す。
「昨日の男みたいなことを考えているわけじゃないよ。友達になりたいんだ」
「私なんかと?」
自嘲しながら、疑いをその目から無くそうとしない。
「友達になりたいと思うのはおかしいの? 世の中、盛りの付いた雄ばかりじゃないよ」
自分の疑いを恥じたのか、それとも照れくさかったのか、圭は怒ったような、泣き出しそうな顔をした。
「僕達にだって、青春を謳歌する権利はあるはずでしょう?」
「そんな物、随分昔に剥奪されてしまったように思われます」
目を伏せて、圭は低い声で呟く。
「剥奪されたら、奪い返せばいい」
「奪い返せるものなら」
続けて言おうとして止めたのか、単に血が気持ち悪かったのか、圭はハンカチを口に押し付けると、黙り込んでしまった。
短い沈黙が流れる。
「お待たせ。ほら、麻上。あ、手は塞がってるか」
「大丈夫です。ありがとうございます」
「そら、水野も来い。担任に説明してやるから」
「お願いします」
責任を感じているのか、圭は頭を深く下げると、口許のハンカチをしまい、涼介の濡れたハンカチを頬に当てたまま、鞄を持ち上げた。
「先輩、一人で大丈夫?」
「子供ではありません」
「でも、顔色が良くない」
「元々、良くありません」
「気を付けて帰れよ」
涼介の教室の前で別れる。
「水野君」
涼介は、優しく呼ばれたことに狼狽え、どもりながら返事をすると、ほぼ同じ高さにある、圭の目を見た。
「ありがとうございました」
「い、いいえ。あの、先輩も、お気をつけて」
「はい。では、失礼します」
最後に見せた笑顔は、山上に向けたものかもしれなかったが、涼介は胸が高鳴るのを止めることはできない。
「笑うとすっごく雰囲気変わる」
独り言のつもりだったが、山上は聞き逃さなかった。
「あまり笑わないからな。しかし、さっきの顔は珍しい。水野は気に入られたみたいだな」
「気に入られた?」
今度は聞き逃されたらしい。
山上は左手で涼介を招き、教室の扉を開いた。
翌日、休み時間の度に二年二組に通っているが、圭の姿を見つけることができずにいた。やはり、昨日のことがショックだったのだろうかと、心配している涼介の背後から、覚えのない声が聞こえた。
「麻上君なら、休みだよ」
二組の生徒らしい。長い髪を掻き上げながら、わざとらしい笑顔を見せた。
「結構多いのよね。麻上君、月に三日は休むもん。
昨日のことは関係ないと思うよ。いつもはそんなことないから。
水野君でしょう? 一年で可愛い子がいるって噂だよ。麻上君とは、どう言う関係?」
「どうって、友達です」
「友達?」
クスッ、と、耐えきれぬように笑った。
「なに?」
「麻上君の友達って、初めて聞いた」
頭を殴られたような衝撃を受けた。
友達。そんな当たり前の言葉も、圭に対して使ったならば、嘲笑の対象になってしまうのだ。
剥奪され、圭は奪い返すことを諦めた。当たり前の権利を。
「失礼します」
尚も笑い続ける少女を一瞥して、踵を返す。
(僕が取り返す。先輩のために)
『腕が痛い』
身体の下敷きになった状態の腕が、ぎしぎしと音を立てそうなほどに痛む。
『解いてよ』
泣きじゃくりながら訴えると、男は動きを止めた。
『そんなに痛いのか?』
弱々しく頭を動かす。
『でも、解いたら逃げるだろう?』
今度は左右に振った。
『痛くて逃げられないよ』
こんな目に遭いながら、お願いをしなければならない自分の身の上を恨みつつ、それでも必死に耐えた。
『腕が抜けちゃいそうだよ』
簡単に、聞いてくれるとは思えない。それでも、できる限り従順な態度を示す。
『お願い。前で縛れば良いでしょう? 助けて』
時計のない部屋。この男は時間を捨てたのだろうか。報われぬ愛を胸に秘めた時から? 時が解決してくれるはずがないと、絶望の淵に追いやられて?
時の経過がわからない。カーテンの引かれた薄暗い部屋にも時折、昼間の光が見え隠れした。
『ベッドに縛っても良いよ。痛い』
愛する人に似た顔で懇願されると、苦しめていることが辛くなるのだろう。その案で妥協した。
身体を離して、腕を縛り上げていた紐を解く。
束の間の開放感。
束縛されないことが、こんなにも気持ちの良いことだとは、今までの気づかずにいた。
しかし、それは飽くまでも束の間の開放。
男は、腕をマッサージでもするように揉むと、両手首にまた、紐を括り付けた。
『逃げるなよ。逃げないでくれよ。お前は俺のものだろう? 俺のこと、誰よりも好きだって言ったじゃないか』
離してはくれない。この男は、愛する少年を失うことを恐れているのだ。
たとえ、紛い物でも。
「良かった、来てる」
休まないだろうかと心配していたが、圭は相変わらず背筋を伸ばし、本を読んでいる最中だった。朝の穏やかな光景。
涼介の脇を、きつい目の少女が足音も荒く通り過ぎ、教室に入って行った。
「麻上君」
呼ばれた本人は、落ち着いた態度で少女に顔を向け、立ち上がる。
次の瞬間、圭は隣の席に勢い良く倒れ込んだ。振り下ろされた少女の右手は、強く拳が握られていた。
「よくも来られたわね。良文は停学なのに」
口許を押さえて、片腕で体を支えて立ち上がろうとする圭を見下ろして、少女は続ける。
「あんたが誘ったんでしょう! いやらしい」
「なに? あの人どうして」
涼介の、独り言とは思えない大きな声に、そばにいた女子が反応した。
「ほら、昨日麻上君に言い寄ってた奴、あの子の彼氏なのよ」
「だって、先輩は悪くないじゃない」
「でも、ねぇ」
まるで圭に非があるとでも言いた気に、友達と頷き合う。その態度に、怒り、我慢できなくなった涼介は、好奇の目を向けている連中を掻き分けて、圭の前に立ちはだかると、
「いい加減にしろよ!」
尚も殴ろうとする少女の手を捕まえた。
「あんたの彼氏が悪いんじゃないか! 僕は見てたんだから」
「どきなさいよ、あんたも殴られたいの?」
圭は涼介の学生服の裾を弱々しく引っ張ると、首を振り、止めるように示した。
「でも」
「早いわね。もう一年を誑かしたの?」
「なにを!」
「やめ」
口を覆っていた手が、赤い液体を零す。
「先輩!」
圭は両手で口を抑えると、机を器用に避けつつ、教室を飛び出した。そのまま手洗いに向かうと、口の中に溜まった血を洗面台に吐き出す。
「心配しないで下さい。ただ、血が嫌いなだけです」
水の力で血を流してしまうが、まだ、切れた場所から出血しているのだろう、何度も吐き出し、ハンカチで口を覆うと、壁に凭れかかった。
「血の味が、気持ち悪い」
「血の味は嫌い?」
「貴方は好きなのですか?」
「嫌いじゃない。舐められるよ」
「私は大嫌いです。血は嫌い。嫌な味」
「頬を冷やした方がいい」
「そうですね」
しかし、口許から離せないのか、ハンカチを動かそうとしない。血を含ませているらしく、うっすらと赤く染まっていた。
涼介は自分のハンカチを濡らし、軽く絞ると圭に差し出した。手を触らずに済むように、できる限り端を持って。
その行動に対して圭はまず、涼介の目を見た。なにかを探るような目。そして満足したのか、指に触れないように慎重にハンカチを受け取り、初めて、笑顔と言うにはあまりにも儚い笑みを見せた。
「ありがとうございます。えっと」
「水野涼介です。涼しいに、芥川龍之介の介」
「それは、涼しそうなお名前ですね」
心底感心したらしい声を出す。
「水野君、ホームルームが始まりますよ」
「いい。先輩が心配だもの」
「大した傷ではありません」
「傷も心配だけど」
圭は首を左右に振ると、ため息と共に言葉を吐き出した。
「もう慣れっこです。中学の時からずっとですもの。
それより、貴方の方が心配です」
「どうして?」
「私に関わると、ろくなことがありません。山上先生がいい例です。可愛いガールフレンドが欲しければ、余計な噂は無い方が良いでしょう?」
「いらない。女の子なんか興味ない」
「珍しい方ですね」
「先輩もそうでしょう? 女、ううん、人間が嫌いでしょう? 怖いでしょう?」
そっと、圭は首を横に振る。
「特定の、数人は好きです」
その言葉に、涼介の胸がチクリと痛む。
「山上先生?」
「そうですね」
「家族?」
「もういません」
「僕は?」
即答は無かった。
「嫌いじゃないでしょう?」
「親切だとは思います。しかし私達はまだ、分かり合えるほどの付き合いはないと思います」
もっともな答えに、涼介は笑顔を見せた。
「即答で好きって言われると、嘘っぽいよね」
「冷たいと、よく言われます」
「先輩は真剣に考えてくれたんでしょう?」
「なぁにいちゃいちゃしてんのよ!」
山上に連れられた少女が、飽くまでも攻撃的に、無抵抗であるはずの圭を責めようと構える。
「なにを言ってるんだ。謝りに来たんだろう」
「どうして謝らなきゃならないのよ! 逆でしょ!」
攻撃的な少女に、圭は諭すと言うには冷たすぎる、落ち着いた声で向かった。
「貴方の怒りは彼への愛情ではなく、女としてのプライドを踏み躙られたことへの怒り、つまり、単なるヒステリーです」
さっきまでの無抵抗は決して、女性に対する男の礼儀ではなく、気持ち悪くて喋れなかっただけらしい。血を拭って毒舌を開始すると、どうして被害者であるはずの圭が非難されるのか、わかった気がした。
「麻上、言い過ぎだ」
山上が咎める。
(噂にもなるよな。問題が起きると絶対いるもん、この人)
圭は山上を一瞥した後、頭を下げた。
「言い過ぎました。申し訳ありません」
「先輩」
両手を下げて深く頭を下げると、傷に障ったのか、小さな痛みを訴えた。
「大丈夫か?」
「口の中の傷はすぐに治ります」
「どうでも良いでしょう、そんな奴」
「今度はお前か謝る番だ」
「嫌よ」
潔い圭とは反対に、少女は強情だった。唇を尖らせて、決して自分の非は認めようとはしない。
「唇を突き出しているということは、噛み殺す怒りがない証拠。その程度の怒りの捌け口にされた私としましては、口先だけの謝罪など聞きたくありません」
今度は山上も止めなかった。
「随分腫れてるな」
「今日は普通に話すことができません。帰っても良いでしょうか?」
口調は冷静だが、顔色はいつにも増して良くない。
「許可するけど、その前に保健室に行ったらどうだ?」
「口の中に塗る薬などないでしょう? だったら帰ります。今日は隼人が休みなので」
(ハヤト?)
「そうか。だったらその方がいいな。帰り際に倒れるなよ。
っと、鞄、取ってきてやるから待ってろよ。
西東先生、あとをお願いします」
少女を任せて、山上は教室に向かった。
「とんだとばっちりを食わせてしまいましたね。入学早々遅刻の汚点ですよ。
私を庇った以上、それだけではすみません」
「僕も噂になるかな」
「かもしれません。申し訳ありませんが」
「どうして謝るの? 僕は嬉しいけど」
圭の目に、警戒が現れたのを察して、慌てて付け足す。
「昨日の男みたいなことを考えているわけじゃないよ。友達になりたいんだ」
「私なんかと?」
自嘲しながら、疑いをその目から無くそうとしない。
「友達になりたいと思うのはおかしいの? 世の中、盛りの付いた雄ばかりじゃないよ」
自分の疑いを恥じたのか、それとも照れくさかったのか、圭は怒ったような、泣き出しそうな顔をした。
「僕達にだって、青春を謳歌する権利はあるはずでしょう?」
「そんな物、随分昔に剥奪されてしまったように思われます」
目を伏せて、圭は低い声で呟く。
「剥奪されたら、奪い返せばいい」
「奪い返せるものなら」
続けて言おうとして止めたのか、単に血が気持ち悪かったのか、圭はハンカチを口に押し付けると、黙り込んでしまった。
短い沈黙が流れる。
「お待たせ。ほら、麻上。あ、手は塞がってるか」
「大丈夫です。ありがとうございます」
「そら、水野も来い。担任に説明してやるから」
「お願いします」
責任を感じているのか、圭は頭を深く下げると、口許のハンカチをしまい、涼介の濡れたハンカチを頬に当てたまま、鞄を持ち上げた。
「先輩、一人で大丈夫?」
「子供ではありません」
「でも、顔色が良くない」
「元々、良くありません」
「気を付けて帰れよ」
涼介の教室の前で別れる。
「水野君」
涼介は、優しく呼ばれたことに狼狽え、どもりながら返事をすると、ほぼ同じ高さにある、圭の目を見た。
「ありがとうございました」
「い、いいえ。あの、先輩も、お気をつけて」
「はい。では、失礼します」
最後に見せた笑顔は、山上に向けたものかもしれなかったが、涼介は胸が高鳴るのを止めることはできない。
「笑うとすっごく雰囲気変わる」
独り言のつもりだったが、山上は聞き逃さなかった。
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「気に入られた?」
今度は聞き逃されたらしい。
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「麻上君なら、休みだよ」
二組の生徒らしい。長い髪を掻き上げながら、わざとらしい笑顔を見せた。
「結構多いのよね。麻上君、月に三日は休むもん。
昨日のことは関係ないと思うよ。いつもはそんなことないから。
水野君でしょう? 一年で可愛い子がいるって噂だよ。麻上君とは、どう言う関係?」
「どうって、友達です」
「友達?」
クスッ、と、耐えきれぬように笑った。
「なに?」
「麻上君の友達って、初めて聞いた」
頭を殴られたような衝撃を受けた。
友達。そんな当たり前の言葉も、圭に対して使ったならば、嘲笑の対象になってしまうのだ。
剥奪され、圭は奪い返すことを諦めた。当たり前の権利を。
「失礼します」
尚も笑い続ける少女を一瞥して、踵を返す。
(僕が取り返す。先輩のために)
『腕が痛い』
身体の下敷きになった状態の腕が、ぎしぎしと音を立てそうなほどに痛む。
『解いてよ』
泣きじゃくりながら訴えると、男は動きを止めた。
『そんなに痛いのか?』
弱々しく頭を動かす。
『でも、解いたら逃げるだろう?』
今度は左右に振った。
『痛くて逃げられないよ』
こんな目に遭いながら、お願いをしなければならない自分の身の上を恨みつつ、それでも必死に耐えた。
『腕が抜けちゃいそうだよ』
簡単に、聞いてくれるとは思えない。それでも、できる限り従順な態度を示す。
『お願い。前で縛れば良いでしょう? 助けて』
時計のない部屋。この男は時間を捨てたのだろうか。報われぬ愛を胸に秘めた時から? 時が解決してくれるはずがないと、絶望の淵に追いやられて?
時の経過がわからない。カーテンの引かれた薄暗い部屋にも時折、昼間の光が見え隠れした。
『ベッドに縛っても良いよ。痛い』
愛する人に似た顔で懇願されると、苦しめていることが辛くなるのだろう。その案で妥協した。
身体を離して、腕を縛り上げていた紐を解く。
束の間の開放感。
束縛されないことが、こんなにも気持ちの良いことだとは、今までの気づかずにいた。
しかし、それは飽くまでも束の間の開放。
男は、腕をマッサージでもするように揉むと、両手首にまた、紐を括り付けた。
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