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エピソード30
別れの詩(10)
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* * *
古城の奥の居住区画の一室で、
オレはクッションを抱えてぼんやりしていた。
『何があってもここからでないように。
分かったね、バン?』
ハルからしつこく言い含められたが、
その理由はオレが1番よく分かっている。
オレが死んだら――オレの中の心臓が潰されたら、ユリアが死ぬ。
オレたちの事情を分かっている1月が、
誰を優先的に殺しに来るかなんて、分かりきっている。
オレはクッションを握りしめる腕に力を込めた。
今頃、ユリアたちは1月と戦っているだろう。
事は計画通りに運ばれているんだろうか。
胸に手を当てた。
トクントクンといつも通りの鼓動が手のひらに伝わってきて、
オレはホッと溜息をついた。
……何もせず、待つのは苦手だ。
祈ることしか出来ないなんて、性に合わない。
「……無茶すんなよ、ユリア」
愛する人がケガをしませんように。
みんなが無事でありますように。
1月を倒して、それから……
「……セシル」
結局、アイツを助ける方法は見つけられなかった。
ハルと話をする機会を持てたものの、
何も答えてもらえず今日を迎えてしまった。
夕方に会ったセシルは、いつも通りで、
オレたちは別れらしい言葉を交わさなかった。
全てを終えても、
昨日までの日常が戻ってくるわけではないことを認めたくなかったからだ。
――そんなことを考えていた時だ。
「……っ」
心臓の鼓動が速度を上げた。
全身の毛穴がブワリと開いて、冷や汗が噴き出す。
この感覚はよく知っていた。
ユリアが大きなケガをした時の悪寒だ。
よくない何かが起こっている。
……オレは奥歯を噛み締めた。
出て行くわけにはいかない。
出て行って、オレが殺されたら元も子もない。
――でも。
もし、オレの血を吸わせる時間があったら?
ここでこのままぶっ倒れるよりも、
ずっといいんじゃないか?
それに、辿りつく頃にはもう戦闘は終わっているかもしれない。
ヴィンセントがケガをしているなら、
オレなら応急処置くらいできるし……
いや、何を考えているんだオレは。
ダメに決まってるだろ。
だが。
しかし。
心臓が痛む。
キリキリと悲鳴を上げている。
感じる……ユリアのケガが増えていく……
「………………ああ、くそっ!」
結局、オレはクッションをソファに放ると立ち上がった。
無責任な行動だ。オレのせいで事態は悪化するかもしれない。
なのに、抗えない直感が告げているのだ。
今すぐユリアの下へ行けと。
やっぱり――待つのは性に合わない。
* * *
「どーしたの、青年。
さっきまでの威勢は何処行っちゃったの?」
セシルの身体を乗っ取った1月は、そう言ってケタケタと笑った。
ちろりと小さな舌を出し、血に濡れた鋭い爪先を舐める。
「はぁ、はぁっ、くっ、ぅ……」
1月からなんとか距離を取っている僕は、
満身創痍の体たらくだった。
血を流しすぎたせいで足元が覚束ない。
このままではダメだと頭の中で警鐘が鳴っている。
でも、僕にはセシルの身体を傷付けることが出来なかった。
『ユリアさん、僕たち友達になりましょう!』
初めて彼に出会った時のことを、僕は今でも鮮やかに覚えている。
セシルは初めて出来た友達なのだ。
「おいおい、防戦一方だぞ!」
1月が地を蹴る。
突き出された爪を僕は剣で受け止める。
「セシルの、中から……出て行って、ください……!」
間髪入れずに繰り出される爪を、なんとか弾いた。
しかし全てを防ぐことなんて出来ず、
じりじりと追い詰められていく。
「それはもう断っただろー?
バカのひとつ覚えみたいに、出てけ出てけってさ」
僕の大切な友達の皮を被ったヤツは、
似ても似つかない下卑た笑みを浮かべた。
飛び退れば、血に足を取られてズルリと滑った。
視界がズレて、床に倒れるヴィンセントさんの姿が視界の端に映る。
まだ息があった。
早く手当てをすれば助かるかもしれない。
でも。ああ、僕はどうしたら……!
頭の中は、「でも」と「どうしたら」でいっぱいだった。
ヴィンセントさんを助けるには、セシルを斬らなくちゃいけない。
しかし、僕にそれは出来ない。
この期に及んで……何をしているんだろう。
「考え事なんて余裕だね?」
「ぐっ、ぁっ……!」
一瞬、意識が逸れた隙を突いて、1月が懐に飛び込んできた。
胸元に焼けるような痛みが走る。
下から斜めに斬り上げられたのだ。
肉を裂き、骨を断たれる不愉快な衝撃。
僕はこみ上げてきた血塊を吐き出した。
「がはっ……」
ガクリと膝から力が抜け、身体が後ろに倒れる。
踏ん張りはきかず、背中を強かに打った。
踏みつけられる。
かと思えば、肩口を鋭く伸びた爪で刺し貫ぬかれた。
「……っ!」
「あはは。もう起き上がれない?
ちょっと根性足りないんじゃないの」
グリグリと貫く傷を広げるように、爪を動かされる。
「ああっ!」
「どうやって痛めつけてあげようか。
とりあえず、滅多刺し?
滅多刺しだね?」
衝撃、それから死ぬほどの痛み。
「あっ、ぐっ、うぅっ……!」
その後、自分の身に何が起きているのかは、よく分からなかった。
何度も突き立てられる爪に身体が跳ねる。
「あは、あははっ……はぁ、いいよ、その苦悶に満ちた表情。
もっと苦しんでよ。
悲鳴あげて、ごろごろ転がってよ!」
「あっ……ぅああっ!」
「まだまだ。まだ、俺の怒りはこんなもんじゃないよ。
さっきはよくも! よくもよくもよくも!!」
意識が朦朧としてきた。
頭の中に靄がかかったようで、何も考えられなくなる。
ダメだ。
このままじゃ、ダメだ……
なのにもう……僕は1月を振り払う力もない。
やがて……どれくらい経っただろうか。
か細い呼吸を繰り返すだけになった頃、1月は僕の上から退いた。
「はぁ、はぁ、はは……。
危ない、危ない……こんなことしてる暇なかった。
君のこと持って帰るなら、
ちゃんと心臓の方を潰してからの方が安心確実だし」
踵を返す気配。
僕は、咄嗟に力の籠もらない右手を伸ばす。
「行かせ、ません……」
足首を掴んだ。
血で濡れた指先がブーツの上を滑る。
「離せよ」
「嫌、だ」
「離せ」
「嫌だ……っ!!」
手を蹴られた。
続いて、思い切りブーツの厚底で踏みつけられる。
「あぐっ……!」
「俺もさ? 君とはもう少し遊んでいたいんだよ?
でも、7月が来てからじゃ遅いし、
君の身体には、どこの欠けもなくお着替えしたいんだよ」
目がかすんで、もう、1月がどんな顔をしてこちらを見下ろしているのかも分からない。
それどころか、ヤツの声すら不明瞭に聞こえた。
踏みつけられた指先の痛みが、
急速に遠ざかる。
僕は必死で意識を手繰り寄せる。
しっかりしろ。
叔父さんが来てくれる可能性はゼロじゃない。
少しでもコイツをここに留めなくちゃ。
だから、しっかりしろ。
しっかりしろよ。
食いしばった歯の間から、吐息の代わりに血が溢れ出た。
「セシ、ル…………」
友達の身体まで冒涜されて、
なのに、僕はやり返すことすら出来ない。
僕はちっとも強くなっていなかった。
「――そうそう。諦めて、大人しくしててよ。
もう、おしまいなんだから」
追い打ちをかけるように、
そんな言葉が鼓膜を震わせる。
潰れた指の上から、足が退けられた。
身体が重い。
もう、どこも動かせない。
目の前が、じわじわと黒く塗り潰されていった。
強くなりたかったんだ。
『大切な人が誰も傷つかない』ことを選び取れる強さが。
僕の考えは甘かったのかな。
そんな強さを得ることなんて……僕には、まだ無理だったんだ。
『――貴様の望む強さは、その程度か』
不意に、不遜な声が頭の中に響く。
それは良く知った、けれど少しだけ懐かしいような声。
『これでは、おちおち消えてもいられない』
そんな言葉と共に、
僕は落ちていくように、意識を失った。
古城の奥の居住区画の一室で、
オレはクッションを抱えてぼんやりしていた。
『何があってもここからでないように。
分かったね、バン?』
ハルからしつこく言い含められたが、
その理由はオレが1番よく分かっている。
オレが死んだら――オレの中の心臓が潰されたら、ユリアが死ぬ。
オレたちの事情を分かっている1月が、
誰を優先的に殺しに来るかなんて、分かりきっている。
オレはクッションを握りしめる腕に力を込めた。
今頃、ユリアたちは1月と戦っているだろう。
事は計画通りに運ばれているんだろうか。
胸に手を当てた。
トクントクンといつも通りの鼓動が手のひらに伝わってきて、
オレはホッと溜息をついた。
……何もせず、待つのは苦手だ。
祈ることしか出来ないなんて、性に合わない。
「……無茶すんなよ、ユリア」
愛する人がケガをしませんように。
みんなが無事でありますように。
1月を倒して、それから……
「……セシル」
結局、アイツを助ける方法は見つけられなかった。
ハルと話をする機会を持てたものの、
何も答えてもらえず今日を迎えてしまった。
夕方に会ったセシルは、いつも通りで、
オレたちは別れらしい言葉を交わさなかった。
全てを終えても、
昨日までの日常が戻ってくるわけではないことを認めたくなかったからだ。
――そんなことを考えていた時だ。
「……っ」
心臓の鼓動が速度を上げた。
全身の毛穴がブワリと開いて、冷や汗が噴き出す。
この感覚はよく知っていた。
ユリアが大きなケガをした時の悪寒だ。
よくない何かが起こっている。
……オレは奥歯を噛み締めた。
出て行くわけにはいかない。
出て行って、オレが殺されたら元も子もない。
――でも。
もし、オレの血を吸わせる時間があったら?
ここでこのままぶっ倒れるよりも、
ずっといいんじゃないか?
それに、辿りつく頃にはもう戦闘は終わっているかもしれない。
ヴィンセントがケガをしているなら、
オレなら応急処置くらいできるし……
いや、何を考えているんだオレは。
ダメに決まってるだろ。
だが。
しかし。
心臓が痛む。
キリキリと悲鳴を上げている。
感じる……ユリアのケガが増えていく……
「………………ああ、くそっ!」
結局、オレはクッションをソファに放ると立ち上がった。
無責任な行動だ。オレのせいで事態は悪化するかもしれない。
なのに、抗えない直感が告げているのだ。
今すぐユリアの下へ行けと。
やっぱり――待つのは性に合わない。
* * *
「どーしたの、青年。
さっきまでの威勢は何処行っちゃったの?」
セシルの身体を乗っ取った1月は、そう言ってケタケタと笑った。
ちろりと小さな舌を出し、血に濡れた鋭い爪先を舐める。
「はぁ、はぁっ、くっ、ぅ……」
1月からなんとか距離を取っている僕は、
満身創痍の体たらくだった。
血を流しすぎたせいで足元が覚束ない。
このままではダメだと頭の中で警鐘が鳴っている。
でも、僕にはセシルの身体を傷付けることが出来なかった。
『ユリアさん、僕たち友達になりましょう!』
初めて彼に出会った時のことを、僕は今でも鮮やかに覚えている。
セシルは初めて出来た友達なのだ。
「おいおい、防戦一方だぞ!」
1月が地を蹴る。
突き出された爪を僕は剣で受け止める。
「セシルの、中から……出て行って、ください……!」
間髪入れずに繰り出される爪を、なんとか弾いた。
しかし全てを防ぐことなんて出来ず、
じりじりと追い詰められていく。
「それはもう断っただろー?
バカのひとつ覚えみたいに、出てけ出てけってさ」
僕の大切な友達の皮を被ったヤツは、
似ても似つかない下卑た笑みを浮かべた。
飛び退れば、血に足を取られてズルリと滑った。
視界がズレて、床に倒れるヴィンセントさんの姿が視界の端に映る。
まだ息があった。
早く手当てをすれば助かるかもしれない。
でも。ああ、僕はどうしたら……!
頭の中は、「でも」と「どうしたら」でいっぱいだった。
ヴィンセントさんを助けるには、セシルを斬らなくちゃいけない。
しかし、僕にそれは出来ない。
この期に及んで……何をしているんだろう。
「考え事なんて余裕だね?」
「ぐっ、ぁっ……!」
一瞬、意識が逸れた隙を突いて、1月が懐に飛び込んできた。
胸元に焼けるような痛みが走る。
下から斜めに斬り上げられたのだ。
肉を裂き、骨を断たれる不愉快な衝撃。
僕はこみ上げてきた血塊を吐き出した。
「がはっ……」
ガクリと膝から力が抜け、身体が後ろに倒れる。
踏ん張りはきかず、背中を強かに打った。
踏みつけられる。
かと思えば、肩口を鋭く伸びた爪で刺し貫ぬかれた。
「……っ!」
「あはは。もう起き上がれない?
ちょっと根性足りないんじゃないの」
グリグリと貫く傷を広げるように、爪を動かされる。
「ああっ!」
「どうやって痛めつけてあげようか。
とりあえず、滅多刺し?
滅多刺しだね?」
衝撃、それから死ぬほどの痛み。
「あっ、ぐっ、うぅっ……!」
その後、自分の身に何が起きているのかは、よく分からなかった。
何度も突き立てられる爪に身体が跳ねる。
「あは、あははっ……はぁ、いいよ、その苦悶に満ちた表情。
もっと苦しんでよ。
悲鳴あげて、ごろごろ転がってよ!」
「あっ……ぅああっ!」
「まだまだ。まだ、俺の怒りはこんなもんじゃないよ。
さっきはよくも! よくもよくもよくも!!」
意識が朦朧としてきた。
頭の中に靄がかかったようで、何も考えられなくなる。
ダメだ。
このままじゃ、ダメだ……
なのにもう……僕は1月を振り払う力もない。
やがて……どれくらい経っただろうか。
か細い呼吸を繰り返すだけになった頃、1月は僕の上から退いた。
「はぁ、はぁ、はは……。
危ない、危ない……こんなことしてる暇なかった。
君のこと持って帰るなら、
ちゃんと心臓の方を潰してからの方が安心確実だし」
踵を返す気配。
僕は、咄嗟に力の籠もらない右手を伸ばす。
「行かせ、ません……」
足首を掴んだ。
血で濡れた指先がブーツの上を滑る。
「離せよ」
「嫌、だ」
「離せ」
「嫌だ……っ!!」
手を蹴られた。
続いて、思い切りブーツの厚底で踏みつけられる。
「あぐっ……!」
「俺もさ? 君とはもう少し遊んでいたいんだよ?
でも、7月が来てからじゃ遅いし、
君の身体には、どこの欠けもなくお着替えしたいんだよ」
目がかすんで、もう、1月がどんな顔をしてこちらを見下ろしているのかも分からない。
それどころか、ヤツの声すら不明瞭に聞こえた。
踏みつけられた指先の痛みが、
急速に遠ざかる。
僕は必死で意識を手繰り寄せる。
しっかりしろ。
叔父さんが来てくれる可能性はゼロじゃない。
少しでもコイツをここに留めなくちゃ。
だから、しっかりしろ。
しっかりしろよ。
食いしばった歯の間から、吐息の代わりに血が溢れ出た。
「セシ、ル…………」
友達の身体まで冒涜されて、
なのに、僕はやり返すことすら出来ない。
僕はちっとも強くなっていなかった。
「――そうそう。諦めて、大人しくしててよ。
もう、おしまいなんだから」
追い打ちをかけるように、
そんな言葉が鼓膜を震わせる。
潰れた指の上から、足が退けられた。
身体が重い。
もう、どこも動かせない。
目の前が、じわじわと黒く塗り潰されていった。
強くなりたかったんだ。
『大切な人が誰も傷つかない』ことを選び取れる強さが。
僕の考えは甘かったのかな。
そんな強さを得ることなんて……僕には、まだ無理だったんだ。
『――貴様の望む強さは、その程度か』
不意に、不遜な声が頭の中に響く。
それは良く知った、けれど少しだけ懐かしいような声。
『これでは、おちおち消えてもいられない』
そんな言葉と共に、
僕は落ちていくように、意識を失った。
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