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番外編4
白夜の夜明け(3)
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「なに?」
俺は目を瞬いた。
コイツは何を言っている?
「見てなどいない」
「ふーん……?」
再び、バンはフォークを口に運んだ。
パイの上部に振りかけられていた粉糖が、ヤツの吐息に触れて雪のように舞う。
ついで、彼はフォークを口には運ばず、
左にスライドさせたり、上下に動かしたりした。
「なあ。――見てるよな?」
「見ていない」
「いや、見てるだろ」
「 見ていない。しつこいぞ」
「食べたいなら食べたいって言えよ。分かんねぇから」
「なに……俺が……?
馬鹿な。食べたいとも思っていないし、
そもそも見ていないと言っているだろうが」
閉じた本を投げつけると、バンはフォークを皿の上に置いた。
「……」
それから急に立ち上がって本を拾い、
それを俺のソファに置くと、部屋の入口へと向かう。
「おい。何処に行く」
「便所」
俺が何か言うよりも早く、バンは部屋を後にしてしまった。
しん、と部屋に沈黙が落ちる。
イチジクのパイを見やれば、
ふいに、口に含んだ時の、生地の羽のように軽い歯ごたえだとか、
イチジクのとろける甘さが口の中に広がった。
ユリアが好んでよく食べているものだ。
俺は視線を逸らした。
口の中に唾液が溜まる。
俺は本を手に取った。ページを開く。
しかし、しばらくすると、
気がつけばまた視界の中心にパイがある。
喉が鳴った。俺は唇を舐めた。
くだらない。
再び視線を逸らし、長く溜息を吐く。
何故かとても苛立って、鼻に皺が寄る。
すると――
「やっぱり食いたいんじゃねえか」
「……っ!」
声にハッと我に返れば、
扉の隙間から、バンがこちらを窺っていた。
「なっ、何をコソコソしている!」
「お前、そういうの良くないぞ。
絶対損するから、もう少し素直になった方がいいって」
部屋に戻ってきたバンは、
何を思ったのかパイの乗った皿を手にこちらにやって来た。
「ほら」
彼は手早くパイを一口大に切り分けると、
フォークで刺して差し出してくる。
「何の真似だ」
「自分で食えないなら、食わせてやるよ」
「貴様、殺されたいのか!?」
「二言目には、殺す殺すって……
語彙力貧困か?」
「貴様……」
「まあ、語彙力うんぬんは脇に置いといて。
そもそもの話、オレ、甘い物苦手なんだよ。
で、お前は苦手なわけじゃないんだろ?
だったら、お前が食った方がいい。
そっちのがパイも幸せだから」
鼻先に押し付けられたパイからは、
小麦の焼けた香ばしい匂いと、甘い香りが漂ってくる。
俺は顔を背けた。
「貴様は何か勘違いをしている。
好き嫌いの問題ではない。俺は飽き飽きしているんだ」
「飽き飽き?」
「そうだ。そのパイは……
そのパイの八割を、アイツは今日のおやつ時に食べていただろう。
見るだけで気持ちが悪くなる」
「でも、食べたのはユリアだろ。
お前が食べたわけじゃない」
「……前に、貴様は俺に問いかけたな。
『俺とアイツは記憶を共有しているのか』と。
正確には、俺だけがユリアの記憶を共有している。
食べたわけじゃなくとも、俺はアイツが食べたものを全て知覚している。
だから、飽き飽きしたと言っている」
「関係ねーじゃん。
記憶の中で食べるのと、現実で食べるのとじゃ訳が違う」
思わぬ返答に、俺はまじまじとバンを見た。
「違う? 何が違う?」
記憶にあるのなら、それは俺の経験だ。
俺はこのパイの味を、歯ごたえを、香りを知っている。
口に含んだ時の心の動きすら味わっている……
「食ってみたら分かるって。ほら、口開けろ」
俺は訝しげにバンを睨みつけた。
鼻先にパイの欠片が触れて、クリームが付く。
俺は舌を伸ばして、鼻の頭を舐めた。
続いて、渋々ながら口を開ければ、パイの欠片が中へと放られる。
「……どうだ?」
咀嚼して飲み込んだ俺に、バンが小首を傾げた。
俺は鼻を鳴らした。
「……知った味だ」
「でも美味いだろ」
何が面白いのか、バンが笑う。
俺は目線を逸らしてから低く唸った。
「…………悪くはない」
「そりゃ良かった。んじゃ、もう一口」
「……」
口の中に甘さが広がると同時に、
言葉にならない感情が湧き上がって、染み入っていく……
俺は目を瞬いた。
コイツは何を言っている?
「見てなどいない」
「ふーん……?」
再び、バンはフォークを口に運んだ。
パイの上部に振りかけられていた粉糖が、ヤツの吐息に触れて雪のように舞う。
ついで、彼はフォークを口には運ばず、
左にスライドさせたり、上下に動かしたりした。
「なあ。――見てるよな?」
「見ていない」
「いや、見てるだろ」
「 見ていない。しつこいぞ」
「食べたいなら食べたいって言えよ。分かんねぇから」
「なに……俺が……?
馬鹿な。食べたいとも思っていないし、
そもそも見ていないと言っているだろうが」
閉じた本を投げつけると、バンはフォークを皿の上に置いた。
「……」
それから急に立ち上がって本を拾い、
それを俺のソファに置くと、部屋の入口へと向かう。
「おい。何処に行く」
「便所」
俺が何か言うよりも早く、バンは部屋を後にしてしまった。
しん、と部屋に沈黙が落ちる。
イチジクのパイを見やれば、
ふいに、口に含んだ時の、生地の羽のように軽い歯ごたえだとか、
イチジクのとろける甘さが口の中に広がった。
ユリアが好んでよく食べているものだ。
俺は視線を逸らした。
口の中に唾液が溜まる。
俺は本を手に取った。ページを開く。
しかし、しばらくすると、
気がつけばまた視界の中心にパイがある。
喉が鳴った。俺は唇を舐めた。
くだらない。
再び視線を逸らし、長く溜息を吐く。
何故かとても苛立って、鼻に皺が寄る。
すると――
「やっぱり食いたいんじゃねえか」
「……っ!」
声にハッと我に返れば、
扉の隙間から、バンがこちらを窺っていた。
「なっ、何をコソコソしている!」
「お前、そういうの良くないぞ。
絶対損するから、もう少し素直になった方がいいって」
部屋に戻ってきたバンは、
何を思ったのかパイの乗った皿を手にこちらにやって来た。
「ほら」
彼は手早くパイを一口大に切り分けると、
フォークで刺して差し出してくる。
「何の真似だ」
「自分で食えないなら、食わせてやるよ」
「貴様、殺されたいのか!?」
「二言目には、殺す殺すって……
語彙力貧困か?」
「貴様……」
「まあ、語彙力うんぬんは脇に置いといて。
そもそもの話、オレ、甘い物苦手なんだよ。
で、お前は苦手なわけじゃないんだろ?
だったら、お前が食った方がいい。
そっちのがパイも幸せだから」
鼻先に押し付けられたパイからは、
小麦の焼けた香ばしい匂いと、甘い香りが漂ってくる。
俺は顔を背けた。
「貴様は何か勘違いをしている。
好き嫌いの問題ではない。俺は飽き飽きしているんだ」
「飽き飽き?」
「そうだ。そのパイは……
そのパイの八割を、アイツは今日のおやつ時に食べていただろう。
見るだけで気持ちが悪くなる」
「でも、食べたのはユリアだろ。
お前が食べたわけじゃない」
「……前に、貴様は俺に問いかけたな。
『俺とアイツは記憶を共有しているのか』と。
正確には、俺だけがユリアの記憶を共有している。
食べたわけじゃなくとも、俺はアイツが食べたものを全て知覚している。
だから、飽き飽きしたと言っている」
「関係ねーじゃん。
記憶の中で食べるのと、現実で食べるのとじゃ訳が違う」
思わぬ返答に、俺はまじまじとバンを見た。
「違う? 何が違う?」
記憶にあるのなら、それは俺の経験だ。
俺はこのパイの味を、歯ごたえを、香りを知っている。
口に含んだ時の心の動きすら味わっている……
「食ってみたら分かるって。ほら、口開けろ」
俺は訝しげにバンを睨みつけた。
鼻先にパイの欠片が触れて、クリームが付く。
俺は舌を伸ばして、鼻の頭を舐めた。
続いて、渋々ながら口を開ければ、パイの欠片が中へと放られる。
「……どうだ?」
咀嚼して飲み込んだ俺に、バンが小首を傾げた。
俺は鼻を鳴らした。
「……知った味だ」
「でも美味いだろ」
何が面白いのか、バンが笑う。
俺は目線を逸らしてから低く唸った。
「…………悪くはない」
「そりゃ良かった。んじゃ、もう一口」
「……」
口の中に甘さが広がると同時に、
言葉にならない感情が湧き上がって、染み入っていく……
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