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エピソード15
茨の密約(5)
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「ヴィンセント? ちょ、ヴィンセント……っ!?」
咳き込むヴィンセントの背を撫でれば、
彼はいつになく力の無い様子でボクの手を振り払った。
「……ただ、むせただけだ」
むせただけで枕が濡れるほど血を吐くわけがないのに、
ヴィンセントはそんなことを言った。
もしかしたら、意識が混濁しているのかもしれない。
背中に冷たい汗が流れる。
どうしよう。どうすればいい?
医者? 医者を呼んで、それから?
病気なの? いつから? 治るの?
まさか……このまま、なんて――――
「……ま、待ってて。すぐにお医者さんを呼んでくるから」
ボクは宿屋の主人を叩き起こして、事情を説明した。
幸いなことに、主人はとても親切な人ですぐに医者を呼んでくれる。
ボクはその足で馬を借りると、雨で濡れる街を飛び出した。
……ユリアに会うために。
* * *
見ないフリをしていた。
いつか別れが来るだなんて、考えたくなかった。
でも、ずっと分かっていたんだ。
ヴィンセントと一緒にいられる時間は、どんどん短くなっていること。
そうして、いつの日か、ボクは必ず彼を失うこと。
分かっていたんだ。
* * *
ユリアの屋敷を取り囲む森は鬱蒼としていた。
来る時に感じた、柔らかな空気とはほど遠い。
全ての生きとし生けるものが息を潜めている。
そんな空気。
みんなが絶対的強者に、怯えている。
朝日が昇る前に屋敷に辿り着いたのは幸いだった。
音もなくメイドが出迎えてくれる。
来客があることを、彼女は知らされていたらしい。
ボクは屋敷の主に……冷酷で恐ろしい獣が待つ部屋に通された。
牢のような、質素な部屋の中央で、
獣は四肢を鎖で縛られ、拘束されていた。
ユリア自らがそうしたのだろう。
部屋に一歩踏み込むだけで、
充満した殺気に体がバラバラになりそうだ。
「……何の用だ」
雨の音に獣の唸り声が落ちる。
ボクは躊躇いなく彼に近づいた。
「頼みがあるんだ」
「……俺は耳がおかしくなったのか?
お前の口から俺に頼みごとがあると聞こえたような気がするのだが?」
鎖をミシミシと軋ませて、
獣が歯を剥き出しにする。
窓の外で雷鳴が鳴り響く。
ボクは今にも腰を抜かしそうになりながら、
首を振った。
「聞き間違いじゃない。
そもそも、ボクはお前の敵じゃない。
あの時は死にたくなくて必死だったんだ。
出来ることなら、こうしてフツーに話したいと思っていたんだよ」
「目障りだ。さっさと消えろ。
それとも、俺が消してやろうか」
「お前は、あの日、ボクから指輪を取り上げようとしたよね。
これを手に入れて、何をしようと思っていたの」
ボクは指輪のはまった方の手に、もう片方の手を重ねて、
口早に続ける。
「……」
獣の目がスッと細くなった。
部屋に満ちた殺気が今にも弾けそうなほど張り詰める。
肌が泡立ち、口の中がカラカラに渇く。
それでもボクは、もう一歩、獣に近づいた。
「君は、この指輪でユリアを眠らせたかったんだ。
そうすれば、いつも自分が外に出ていられるから。違う?」
「だとしたら、どうした」
「でもさ、どうやってユリアを眠らせるつもりだったの?
君が彼を眠らせるだなんて、
とても難しいよね? だって同じ体なんだもの」
獣が小さく目を見開く。
そこまでは考えていなかったみたいだ。
ボクは大げさな身振り手振りで、自身の胸に手を当てた。
「そこで、ボクが役に立つってわけ。
ボクなら、ユリアを無理なく眠らせられる。この間みたいに。
もしも彼が目覚めてしまっても、ボクがまた眠らせてあげる」
獣は忌々しげに鼻に皺を寄せた。
「そんな言葉を信用しろと?」
「信用できないなら、今すぐ殺せばいいじゃない。
そうすれば二度とこの指輪は使えなくなっちゃうけどね」
わざとらしく肩をすくめれば、獣は小さく鼻を鳴らした。
「……頼みごととは、なんだ」
脳裏にユリアたちと過ごした楽しい時間が過る。
激しい動悸がし始めて、顔が熱くて、酷く胸が痛んだけれど、
それは真っ赤な血の記憶に押し流されてしまった。
稲光が空に走って、カーテンの隙間から鋭い光が差し込む。
次第に激しさを増した雨が、バタバタと窓を叩いた。
「ボクの、頼みは――――」
咳き込むヴィンセントの背を撫でれば、
彼はいつになく力の無い様子でボクの手を振り払った。
「……ただ、むせただけだ」
むせただけで枕が濡れるほど血を吐くわけがないのに、
ヴィンセントはそんなことを言った。
もしかしたら、意識が混濁しているのかもしれない。
背中に冷たい汗が流れる。
どうしよう。どうすればいい?
医者? 医者を呼んで、それから?
病気なの? いつから? 治るの?
まさか……このまま、なんて――――
「……ま、待ってて。すぐにお医者さんを呼んでくるから」
ボクは宿屋の主人を叩き起こして、事情を説明した。
幸いなことに、主人はとても親切な人ですぐに医者を呼んでくれる。
ボクはその足で馬を借りると、雨で濡れる街を飛び出した。
……ユリアに会うために。
* * *
見ないフリをしていた。
いつか別れが来るだなんて、考えたくなかった。
でも、ずっと分かっていたんだ。
ヴィンセントと一緒にいられる時間は、どんどん短くなっていること。
そうして、いつの日か、ボクは必ず彼を失うこと。
分かっていたんだ。
* * *
ユリアの屋敷を取り囲む森は鬱蒼としていた。
来る時に感じた、柔らかな空気とはほど遠い。
全ての生きとし生けるものが息を潜めている。
そんな空気。
みんなが絶対的強者に、怯えている。
朝日が昇る前に屋敷に辿り着いたのは幸いだった。
音もなくメイドが出迎えてくれる。
来客があることを、彼女は知らされていたらしい。
ボクは屋敷の主に……冷酷で恐ろしい獣が待つ部屋に通された。
牢のような、質素な部屋の中央で、
獣は四肢を鎖で縛られ、拘束されていた。
ユリア自らがそうしたのだろう。
部屋に一歩踏み込むだけで、
充満した殺気に体がバラバラになりそうだ。
「……何の用だ」
雨の音に獣の唸り声が落ちる。
ボクは躊躇いなく彼に近づいた。
「頼みがあるんだ」
「……俺は耳がおかしくなったのか?
お前の口から俺に頼みごとがあると聞こえたような気がするのだが?」
鎖をミシミシと軋ませて、
獣が歯を剥き出しにする。
窓の外で雷鳴が鳴り響く。
ボクは今にも腰を抜かしそうになりながら、
首を振った。
「聞き間違いじゃない。
そもそも、ボクはお前の敵じゃない。
あの時は死にたくなくて必死だったんだ。
出来ることなら、こうしてフツーに話したいと思っていたんだよ」
「目障りだ。さっさと消えろ。
それとも、俺が消してやろうか」
「お前は、あの日、ボクから指輪を取り上げようとしたよね。
これを手に入れて、何をしようと思っていたの」
ボクは指輪のはまった方の手に、もう片方の手を重ねて、
口早に続ける。
「……」
獣の目がスッと細くなった。
部屋に満ちた殺気が今にも弾けそうなほど張り詰める。
肌が泡立ち、口の中がカラカラに渇く。
それでもボクは、もう一歩、獣に近づいた。
「君は、この指輪でユリアを眠らせたかったんだ。
そうすれば、いつも自分が外に出ていられるから。違う?」
「だとしたら、どうした」
「でもさ、どうやってユリアを眠らせるつもりだったの?
君が彼を眠らせるだなんて、
とても難しいよね? だって同じ体なんだもの」
獣が小さく目を見開く。
そこまでは考えていなかったみたいだ。
ボクは大げさな身振り手振りで、自身の胸に手を当てた。
「そこで、ボクが役に立つってわけ。
ボクなら、ユリアを無理なく眠らせられる。この間みたいに。
もしも彼が目覚めてしまっても、ボクがまた眠らせてあげる」
獣は忌々しげに鼻に皺を寄せた。
「そんな言葉を信用しろと?」
「信用できないなら、今すぐ殺せばいいじゃない。
そうすれば二度とこの指輪は使えなくなっちゃうけどね」
わざとらしく肩をすくめれば、獣は小さく鼻を鳴らした。
「……頼みごととは、なんだ」
脳裏にユリアたちと過ごした楽しい時間が過る。
激しい動悸がし始めて、顔が熱くて、酷く胸が痛んだけれど、
それは真っ赤な血の記憶に押し流されてしまった。
稲光が空に走って、カーテンの隙間から鋭い光が差し込む。
次第に激しさを増した雨が、バタバタと窓を叩いた。
「ボクの、頼みは――――」
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