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俺が名前を呼んだ夜
初めての夜
しおりを挟むそれから、何年も経った。
俺も大人になり、譲との適切な距離感というものを身につけて、一人で立って歩けるようになっていた。
たとえそれが、簡単な接触や戸惑いで砕け散る、恐ろしく脆いものであったとしても。
中学、高校、大学。
いつだって譲はたくさんの人に愛されていて、幸せそうだった。
どんな時も譲の周りには多くの人がいて、譲が言うところの本物の愛を彼に投げている。
「譲っ!」
「ゆずくん」
「譲くん」
「ゆずちゃーん」
「譲先輩」
数えきれないほどの声が、様々な種類の愛情を載せて、譲の名を呼ぶ。
そして彼らの愛を受け止めて、譲は満たされた顔で笑っているのだ。
俺がいても、いなくても。
「……ははッ」
何度も何度も同じ光景を目の当たりにして、同じ光景に傷ついて、俺はその度に乾いた笑い声をあげて、そっと目を伏せる。
いっそ離れてしまいたいと願って、けれど譲の側から離れたら呼吸すら出来なくなりそうで、結局離れることも出来なくて。
孤独と渇望で気の狂いそうになる夜は、正気を手放した自分が譲の元へ走り出しそうになる。
俺は自分が恐ろしかった。
いつかとんでもないことをしでかすのではないか、と。
俺はいつも、必死で気を紛わせていた。
近づいてくる女と手当たり次第に遊んで、譲とよく似た体温を探してみたり。
譲にどこか面影の似た代替品を見つけて、目蓋の裏の幻影を抱いてみたり。
そんなくだらない真似で、なんとか狂気を抑え込もうとしていた。
結局どれも、大した意味を持たなかったのだけれども。
「ゆずる……」
手に入ることのないものに焦がれる虚しさに打ちひしがれながら、譲から与えられた『親友』という椅子に、俺はみっともなくしがみつき続けていたのだ。
あの夜も、同じだった。
俺ではない人間に笑いかける譲を見ていられなくて、いつも通りに現実から目を逸らしていた。
思い通りにならない苛立ちをアルコールで流し込もうとするように、愚かなほどに杯を重ねて、酔いに酔った飲み会の帰り。
薄ぼけた視界の中、ふと感じた匂いに、意識が引き戻された。
「っ、ゅず……?」
息が、止まりそうだった。
気づいたのだ。
狭いタクシーの中、隣にある温もりが、間違えようもないほどに、ひどく馴染んだものであることに。
そっと身を寄せれば、ピクリと微かな動揺を示し、けれど応えるように近くなる吐息。
心拍数は一気に上昇し、酒のせいにはできないほど昂揚した。
あぁ。
もしか、して。
夢のような、もはや妄想のような可能性が、アルコールに沸いた脳に浮かぶ。
抗いようもなく魅力的な、一つの馬鹿げた『可能性』。
アァ、マサカ。
モシカシテ、モシカシテ。
狂った理性は思考力を失い、その妄想に、俺は取り憑かれた。
ユズルモ、俺ヲ、……。
俺は、一つの可能性に賭けた。
俺が、ソウイウ意味で愛されている、という、ありえない『可能性』に。
ドクンドクン、と心臓がうるさく喚く。
高濃度のアルコールに焼かれた脳味噌は、必死で考えた。
どうすれば、譲を俺のものにできるのか、を。
「……ん」
逃げられないように、酔ったふりを続ける。
譲は俺の浅はかな打算に気づいた様子もなく、俺を玄関前まで担ぐようにして連れて行ってくれた。
そして、当然のような顔で俺のポケットから鍵を取り出す。
その時、布越しに触れた指先にすら興奮して、体が熱くて仕方なかった。
「ッ、はっ」
玄関に入った瞬間、もう我慢は出来ない、と思った。
酔ったふりは止めて、自分の足で立つ。
立ち去るならば、今すぐに去ってくれ。
玄関の鍵が開いているうちに。
早く、行け。
でないと。
「ぅ」
ちっとも逃げず、真後ろで息をひそめるように立っている譲から漂う、酷く情欲をそそられる香気に、息が詰まった。
柔軟剤の甘い匂いが譲の香りと混じって、俺の鼻腔を焼く。
「……か、やろう」
闇に溶かすように呻いて、逃げるのが遅い譲の服を、乱暴に握りしめた。
「はっ、ハァ」
居間に入るやいなや、押し潰すように抱きしめた体からは、抵抗の意思を感じなかった。
何も言わないことを身勝手に同意だと解釈して、そのまま首筋に唇を這わせた。
あまい、においがした。
「っく」
脳味噌がくらりと揺れて、煮え立つようだ。
無理矢理に服を剥ぎ取り、乱暴に体を弄る。
アルコールに焼き切れた理性では、欲望が抑えられそうになかった。
逸る衝動を抑えきれず、性急にソファに押し倒す。
無抵抗な体をいいことに柔らかな肢体をまさぐれば、悲鳴のような吐息が固く閉ざされた唇を裂いて飛び出した。
火照る肌があまりにも扇情的で、堪えきれぬ興奮に腰へ甘い痺れが走る。
口を開ければ獣じみた呼吸と呻きばかりが零れ、まともな人間の言葉を発することは出来そうになかった。
「ひっ、ぁあ」
身勝手な俺の非情すぎる責めに、譲は何度も苦し気な、けれど甘い啼き声を上げた。
必死な顔で振り向いて、俺を見た譲の瞳は濡れている。
その涙をぺろりと舐めれば、やわらかい、塩の味がした。
俺の舌に反応して、ピクリと俺を締め付ける譲の内腔に堪え切れず、全身を真っ白な光が貫いた。
「ぅ、ぁ」
快感を極め、どさりと丸い背中にのしかかる。
ほとんど反応もなくなった譲の肩に噛みついて、口の中で「愛してる」と呻くように告げれば、酷く口の中が渇いていて掠れて言葉にならなかった。
馬鹿みたいに口を開けっぱなしで、犬のように息をしていたからだろう。
ハッハッと、自分と同じように荒い呼吸を繰り返す譲をぎゅっと抱きしめて呼吸が落ち着くのを待っていると、一気に酒が回ったような急な眠気に襲われた。
「ん……」
あまりにも満ち足りた、気怠い幸福感。
汗の味がする甘い体をきつく抱きしめて、眠りに落ちた。
それは、間違いなく、至福の夜だった。
翌朝、一人きりのシーツで目覚めるまでは。
「……え」
飛び起きるようにベッドから出て、愛しい影を家の中を探し回る。
もしくは書き置きでもないかとあちらこちらを見て回ったが、全く見当たらなかった。
人の気配などしないリビングで立ちすくむ。
昨日のことは、もしかしたらすべて夢だったのか、と。
けれど、目も当てられないほどに汚れたシーツとぐしゃぐしゃのソファーカバーが、昨夜の激情が夢ではなかったと告げている。
「うそ、だろ!?」
残されたのは、俺が『誰か』と夜を過ごした証拠だけ。
相手を示す証拠は、何一つ、残されていない。
驚くほどに痕跡のない朝に、震えが走った。
譲は、一体どういうつもりなのだろうか。
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