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俺が名前を捨てた夜
背筋が粟立つような期待
しおりを挟む隠れ家のようなカフェの奥の席で大西はすでに待っていた。
「大西」
「譲先輩」
見るからに女子が好みそうなお洒落な店の中、所在なく椅子に腰掛けていた大西は俺の顔を見てホッとしたように笑った。
「待たせてごめんな。ちょっと教授につかまっちゃって」
申し訳なさそうに顔の前で手を合わせると、大西は困ったように首を振った。
「いえ、お忙しいこと、分かってますから」
「大西は人間ができてるなぁ」
そう告げれば、年に似合わぬ疲れた顔に弱々しい笑みを浮かべる。
「ははっ、僕なんかに、気を遣わないでください」
どこか居た堪れないような様子の大西は、最後に会った時よりも、更に小さくなったようだった。
実際に少し痩せたのか、それとも、彼の中の光を追うことを諦めて、彼を取り巻く空気がしぼんだのか。
瑞々しく太陽に向かっていたはずの彼の花は、蕾のうちに萎れてしまったようだ。
それもきっと、彼の運命なのだろうけど。
適当に頼んだ皿が次々と運ばれ、ノンアルコールカクテル同士で乾杯する。
「お疲れ様でした。お時間を取ってくださって、ありがとうございます」
「いや、全然。俺も話したかったし」
優しい先輩の顔で言えば、大西は嬉しいというよりも困ったような顔をする。
「……なんだか、不思議です。譲さんと、こうしているの。すごく、ふしぎ」
吐息のように呟いて、大西は目を閉じる。
「すみません……僕の懺悔を、聞いていただけますか」
「ん。いいよ」
そっと目を伏せて、俺は聞く姿勢を取った。
そして、静かに尋ねた。
「なぁ、何があったの。……なんで、終わったの」
「終わったのは、僕が、バカだったからです。身の丈に合わない夢を、見たから」
悲しげに呟いて、大西はグラスの水を一口含んだ。
こくりと小さく嚥下して、躊躇うように視線を机の上で彷徨わせる。
そして何一つ縋るものを見つけられなかった少年は、両手で顔を覆うと、呻くように囁いた。
「ただ快感を享受できていれば……それで満足出来ていたら……まだ、僕にあの手は伸ばされていたのかもしれない、のに」
指の隙間から溢れる雫に気づかないふりをして、俺はじっと言葉を待った。
「声は、許されたけれど、言葉は許されなかった。特に名前は嫌がられていたんだと思います。最初の晩、恐怖もあって、名前を呼びかけようとしたら、『呼ぶな』って、口を押えられたから」
名前を呼ぶことを、禁じられた?
いぶかしく眉を寄せる俺のことなど気にもせず、大西は言葉をぽろぽろと零し続ける。
誰にも言えない恋の顛末を、誰かに覚えておいてほしいのだろう。
俺が利用しようとしていることも知らず、かわいそうなことだ、と少しだけ思った。
「それは理解できたし、まだ我慢できました。涼哉先輩は、きっと『その人』と、僕たちの相違を、なるべく感じたくなかったんだろうって。でも、だんだん、どうしても辛くなって」
「……なんで?」
止まってしまった言葉に、そっと続きを促せば、大西はズルッと洟を啜り、おしぼりを目に当てた。
「何も、言ってくれない、から」
「……へ?」
言葉を理解できずに瞬く俺に気づくことなく、大西は痛む胸を押さえて、悲痛な声を絞り出す。
「抱かれている間は、ずっと、無言で。まるで自分が存在しない幻のような、魂のない人形になったような気がして、苦しくて、痛くて、どうしようもなくて……!」
「……え?」
なにも、いわない?
あいつが?
まるで、愛されているのだと勘違いするほどに、馬鹿みたいに愛を囁くのに。
誰か知らない人間に向けて捧げられる、蕩けそうなほど甘い睦言に、俺の胸は闇すらも燃え滅ぼしそうなほどに焼け焦げているというのに。
「僕は、人形では、居られなくなってしまったんです」
これは、一体、どういうことなんだ。
***
大西にただ優しい言葉を与え、穏やかに別れの挨拶を終えた後。
一人になった帰路で、俺は、必死に深呼吸を繰り返していた。
完全に、混乱していた。
涼哉との夜は、大西が語るものとは、真逆だった。
いや、名前を呼ばないということは、同じだ。
俺は、敢えて危険を冒したくなんてないから、決してあいつの名を呼ばない。
涼哉も、俺の名は呼ばない。
当然だ、あいつは、相手が俺であることを知らないのだから。
けれど、何も言わない、なんてことはない。
嬌声でない言葉を発したら轡を噛まされるなんて、されたこともない。
どういうことだろう。
あぁ、それは、どういう。
「っ、ダメだ」
過ぎた興奮に、意味の分からない言葉を叫び出してしまいそうな口を押さえる。
ぞっとするような、けれどとてつもなく甘美な期待が、俺の脳を侵し、蝕み、支配する。
「落ち、つけ……ダメだ……」
恐怖に似た昂揚感の中で、しかし明らかに恐怖とは異なる甘い鼓動で胸が弾む。
勝手に高鳴る心臓を押さえ、俺は自分に言い聞かせた。
いけない。
自分に都合のいい解釈なんて、いらない。
天上の夢を見てしまったら、地に堕ちたときに、苦しいだけだ。
そう思いながらも、俺の心臓は背筋の粟立つような期待に、アップテンポでリズムを奏で続けた。
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