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俺が名前を捨てた夜

別物の心と体

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後輩は、俺の頼み通り、あの夜をなかったことにしてくれたようだ。

構内ですれ違った時に、一度だけ何かしら言いたげなそぶりを見せたけれど、あからさまに顔を背けたら、何かを察したように口を閉じた。
理解が良くて助かる。

アルコールの恐ろしさを実感した。
いっそ初めて涼哉の気持ちがわかった気すらした。
アルコールは本当に飛ばしてしまう。
理性も、記憶も、罪悪感も、恋情も。

温もりをくれるのならば誰でもいいなんて、思ってはいなかったはずなのに。
あいつ以外の温度を覚えたくなんて、なかったのに。
なぜ、俺は、涼哉以外の男を、受け入れてしまったのだろう。
受け入れてしまえたのだろう。

俺は、男の体を好む男では、なかったはずなのに。
たとえ女でも、好いた相手でなければ愛したいと思ったことはなかったのに。

俺の内面も知らないで、無闇矢鱈に近寄ってくる女達は不快の一言だし、中学時代に小柄ゆえか冗談まじりで女の代替品じみた真似を強要された時は、嘔吐してしまうほどだった。
愛のない行為を、死ぬほど嫌っていたはずなのに。

アルコールは、人間性すら、簡単に壊すのだろうか。
それとも、俺はとうの昔から、壊れていたのだろうか。



***



自分への嫌悪感と不信感で、すっかり食欲を無くした俺を、涼哉を含めた友人達は心配そうに見ているが、何も問わせなかった。
説明なんて、できるはずもなかったから。

「ごちそうさま……」

ほとんど手を付けぬままに返却スペースへ返す皿に、周りがそっと眉をひそめる。
心配をかけているのは分かったが、食べたら吐いてしまいそうで、口にできなかった。
困ったものだと自分まで溜息をついたとき、小さく胸ポケットが振動した。
無機質な機械を取り出せば、LINEのメッセージ。

『お疲れ様です。今週末に、一度実家に帰ることになりました。その前に、もしお会いできたら嬉しいです。』

あぁ、そうだ。
忘れていた。

目の前に光がぽつんと灯ったような気がした。
もっと聞かなくてはならないことがある。
手に入れなくてはいけない情報がある。
この子からもらえる情報は多ければ多いほど良いだろうから、慎重に聞き出さなければ。

そうだ。
少なくとも、俺はこの子よりは幸せだ。
まだ俺は、涼哉を失ってはいないのだから。
俺の幸せを、失わないために。
この子の失敗を、不幸を、十分に活用しなくては。

無意識にそう思考している自分に気づき、悍ましさに寒気が走った。
なんて無慈悲で残酷で、自分本位な頭だろうか。

人の不幸を喜んで。
人の涙に舌なめずりして。
自分のために利用しようとして。
俺は、ここまで堕ちてしまったのか。

ただ、恋に落ちただけだったはずなのに。
想いが澱んだ沼底で、腐敗してしまったのだろうか。
それならばいっそ果てまで腐りはてて、地を肥やす腐葉土にでもなれればいいのに。



***



週末に大西と会う約束をしたその夜。
夕方から涼哉を含めたみんなで研究室に集まる予定だった。

「……よぉ」
「おつかれ」

現れた涼哉はいつも通り無表情で、いつもよりも、静かだった。
俺も努めて普段通りの顔で、挨拶をする。

「なぁ、ゆずる」
「ん?」

まだ二人しかいない部屋で、涼哉が不意に口を開いた。

「あのさ。部活の、三年の、茶髪のやつ分かる?今、会計やってるやつ。俺とおんなじくらいの背で、茶髪で、……時々メガネしてる男」
「え、……あぁ、うん。分かるけど」

今最も会話に出してほしくない人間をピンポイントで、話題にしてくる涼哉に少なからぬ戸惑いを覚えながら、俺は懸命に普段通りの表情を作った。

「あいつが、どうかした?」
「えっと、……彼女と、結婚するらしい」
「はぁ!?学生じゃんか、二人とも!」

思いがけない台詞に仰天して、思わず声が大きくなる。

「いや、なんか、授かり婚?らしい」
「さずかり……こん……」

呆然と呟く。

では、あの後輩は、妻となる恋人と、守るべき子がいながら、俺と寝たのか?

俺の動揺を、涼哉は妙に鋭い眼差しで見つめながら、静かに尋ねた。

「……ショック?」
「い、や。めでたいことじゃね?ちょっと、わりと、ビックリしたけど」

しどろもどろになりつつ返答すると、涼哉は小さく息を吸い込んでから、やけに朗らかに告げた。

「なんか結婚祝い?贈ろうと思うんだけど、何がいいと思う?ゆずも、連名で送ろうぜ?」
「……あ、うん、いいね」

あぁ、なんだ。
そんな相談か。

何か感づかれたのかと緊張していたが拍子抜けして、涼哉を見れば、困り切ったような、思いつめた顔をしている。
昔から人への贈り物が苦手な男だな、と苦笑する。

「なんでもいいんじゃないか?ふふっ、てか、俺に聞くよりも、適任な奴が他にいるんじゃね?……俺、彼女も子供もいないしさ」
「俺もいねぇよ」
「お前にいたのは、彼女じゃなくてセフレだもんな」
「うるせぇよ」
「ははっ」

優し気に見えるにこやかな笑みを作り、もしくは悪戯めいた顔をしてみせながら、俺は冷え切っている心を自覚していた。

愛する女と、その女の腹に宿った愛するこども。
そんなものを手にしている男でも、体だけならば簡単に堕とせるのだ。
アルコールとは、なんて恐ろしい。

それとも。
男というものは、そんなものなのだろうか。
心と体は、まったく別の動き方をする生き物なのだろうか。

そうだとしたら、俺はもっと刻み込んでおくべきだったのだろう。

体が簡単に手に入ったからと言って、いつか心も手に入れられるなんて。
そんな愚かな願い、間違っても抱いてはいけなかったのだから。




***




「ゆずる」
「ん?どうした?」

秋の親睦会という名の他大学との合同飲み会で、結局俺と涼哉は、いつも通り近くに座っていた。
いつもと比べて少し空いていたはずの隙間をいつの間にかゼロに詰めて、酔って赤い顔をした涼哉が、俺の左腕を捕まえた。

「なぁ、ほんとうのこと言って」

まっすぐに座ることすらむつかしいくせに、真剣な顔をする。
どうしたんだ、と言いながらやんわりと手を離させようとすれば、逆らうようにぎゅっと掴まれた。

「お前、俺の事、嫌いなの?」
「……はぁ?」

あまりにも唐突な言葉に、俺はバカみたいに口を開けて固まった。
酒のせいだけとは思えない、どこか切迫した表情の涼哉に、はて、と首を傾げる。

ここ数日、「涼哉と」は、変わったことはなかったはずだ。
先程の問いに答えてやれなかったこと以外はいつも通り、……いや、そういえば、最近研究室では少し距離が遠かったかもしれない。
涼哉の家に遊びに行くのも避けていた。

ほかの男に抱かれた俺に、涼哉が何か違和感を察してしまうのではないかと、不安だったことを思い出した。
今考えれば、自意識過剰も甚だしいけれど。

男の心と体は別物だ。
そして、俺だって、男なのだ。
ただ夜を過ごしただけで、なにかが変わるなんて、バカバカしい。
ましてや、涼哉が、俺の些細な変化に気が付いてしまうかも、なんて、どこまで間抜けな心配だろうか。
そのせいでかえって不審がらせては意味がないじゃないか。
少し可笑しくなってしまって、俺は笑った。

「あぁ、ごめんごめん。ちょっと風邪っぽかったから、離れてただけだよ」

思いついた心当たりに、そう適当な理由をつけて言って笑いかければ、涼哉はなぜか深く傷ついたような顔で俯き、「そっか」と呟いた。

「涼哉……?」
「いや、気にしないでくれ。俺の、勘違い、だったんだ」

訝しく名前を呼んでも、涼哉はもう何も話す気はなさそうで、下手くそな笑みを作るばかりだ。
今にも泣きそうな、頼りない顔で。

俺は、何か間違えたのだろうか。



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