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俺が名前を捨てた夜
忘れると決めた夜
しおりを挟むその夜、俺はおかしかった。
まるで砂漠で餓え渇いた人間のように、人の温もりを欲していた。
「……ちょ、譲先輩、飲み過ぎですよ」
「ちっ、いいんだよ!おとこには、のみたいときがあるの!」
慌てたようにグラスを取り上げる男に、俺は管を巻きながら顔を近づけて凄んだ。
そして遠ざけられたグラスをひったくり、一気に煽る。
「てめえもおとこなら、分かれ!」
「赤い顔で、とろーんとした目で睨まれても怖くないです。めちゃくちゃ酔ってるじゃないですか。お酒強くないくせに……」
呆れたような言葉と、わざとらしいため息に、苛立ちが募る。
「うるせぇ、ばーか!ばかばかばーか!」
「はいはい、馬鹿な後輩ですみませんね」
適当にあしらわれて、俺は更に腹を立てた。
「だまれ、ばか!飲みてぇときは、飲ませろ!」
宅飲みでもないのに、飲み過ぎている自覚はあったが、止められなかった。
普段なら「ゆず、飲みすぎ」と窘めてくれる涼哉は、教授から頼まれた用事のせいで、ここにいない。
自分の中のアルコールの許容量を無視して、俺は次から次へと杯を重ねる。
「……なぁー!もういっぱい」
「ダメですよ!」
「なぁんでぇー」
くてん、と体をもたれさせて、抱きつく。
「いやだーもっと飲むぅー」
「ちょ、近い近い!」
ギョッとしたように焦る男に、むかっときて更に絡みつく。
両腕を広い背中に回し、グリグリと頭を胸板に押し付けた。
「さけをよこせぇー」
「わ、わかったから、体離してくださいっ」
「へへっ、やったぁ」
満面の笑みで笑い、氷が溶けて少しだけ色が薄くなった気がするグラスを受け取る。
「ちょっと、凶悪すぎる……」
誰が呟いた台詞だったかは忘れた。
けれど、顔を赤くしていたから、嫌がられてはいない、と判断して俺は気にしなかった。
お目付け役のいない俺は、完全に歯止めを無くしていた。
度数の高い酒を水のように呷り、誰彼構わず体を寄せる。
甘えるようにすり寄れば、男も女も簡単に頬を染め、瞳を潤ませた。
その度に俺は、勝手にその気になった彼らを嘲笑うように冷たく突き放すのだ。
「んんぅー、さけをのませてくれねぇならぁ、みんなきらいだぁー」
そして俺は、馬鹿みたいな捨て台詞を吐いて、机に突っ伏した。
火照った顔に机の冷たさが心地よい、と笑い、正気を手放した。
それからのことは、覚えていない。
ただ、隣に涼哉はいなかった。
それだけは、確かだった。
目が覚めて目に入ったのは知らない天井だった。
ずきずきと痛む頭からは記憶がさっぱり抜けていて、状況が把握できなかった。
部屋の奥からは、シャワーの音が聞こえる。
起き上がり見回せば、ホテルの一室だと分かった。
ラブホテルではない。
おそらくはシティホテルに近い、きちんとしたビジネスホテルだ。
酔った人間の世話をするためだけに、気軽に泊まる場所ではないだろう。
そして、自分が横たわっていたシーツは、それなりのホテルにはあり得ないほど乱れていて、嫌な汚れ方をしていた。
体からは、覚えのある倦怠感と、重苦しい鈍痛。
「……マジかよ」
ここまで状況が揃えば、どうやっても否定しようがない。
俺は、苦々しい呻き声を漏らし、自分のバッグを確認するためになんとか起き上がった。
テーブルの上に見つけたバッグを目指して歩く。
一歩踏み出すたびに響く腰の痛みに、顔が引き攣ったが敢えて考えないようにした。
ちょっとした不安から、バッグの中身の位置が変わっていないこと、ついでにカードや免許証が盗られていないか調べる。
そして、飲み会の前には厳重にロックをかけてあるスマートフォンが解除されていないことを確認して、やっと一つ息を吐く。
ちらりと目に入ったのは、目の前の椅子の背に脱ぎ捨ててある、黒色のシンプルなジャケット。
それ以外に、相手の私物は見当たらない。
バスルームにでも持っていったのか、用心深いことだ。
確かあんなような黒いジャケットを着ていた後輩がいたはずだ。
ぼやけた脳が引っ張り出してきた情報に、唇が歪む。
何一つ記憶できていないくせに、なんでそんなことは覚えているんだ、と突っ込みたくなるが、簡単だ。
涼哉の物によく似ている、と思ったから。
暗めの茶髪に、引き締まった痩身、よく似た背格好。
少し背は低いけれども、あの男の印象は涼哉に似ていた。
だから、ついてきてしまったのだろうか。
あぁ、なんて分かりやすい。
情けなくて、涙が出るほどだ。
『ごめんなさい。忘れてください。』
深い溜息を一つ吐くと、短く走り書きして、部屋を出た。
あの後輩には、可愛らしい彼女が居たはずだ。
一夜の過ちなどで失ってはならない、守らなければならないものがあるはずだ。
私物を持ってシャワーへ向かうほどに用心深く頭の良い男ならば、あの言葉で理解できるだろう。
「……ははっ」
これで大丈夫、と呟いた後で、乾いた笑いがこぼれた。
全てが、あまりにも、くだらなかった。
静かにホテルを立ち去り、一直線に自宅へ帰る。
玄関のドアを開け、一人になった瞬間に、急に力が抜けた。
「っ、くそ」
身体中を鈍い痛みが走り、崩れ落ちそうになる。
咄嗟に壁に手をついて支え、どれだけ激しくされたのかと恨みそうになったが、慌てて頭を振った。
思い出したくないことなのだから、自分の中に感情を生み出してはいけないのだ。
この夜は、なかったことにするのだから。
初めて涼哉以外に抱かれた体を、認めたくなかったから。
俺は、この夜を、忘れることに決めた。
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