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俺が名前を捨てた夜

呼べない名前

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名前を呼べないことが、こんなにつらいとは、思いもしなかった。



最初の夜から、肌を重ねる機会は何度もあった。
探せばいくらだって転がっていて、果たして俺は今までどれだけの人間をみすみす涼哉の家へと見送っていたのだろうと、歯軋りしてしまったほどだった。

「んっ、んあ、あぁあああっ」

真っ暗な寝室のベッドの上で、俺は甘い悲鳴を上げる。
一度、あまりにも甘美な責め苦に耐えきれず声を出してしまってからは、なし崩しだった。
最初こそ涼哉に気づかれるのではないか、と焦ったが、ちっとも変化がないから、声を押し殺すのはやめた。
もっとも、堪えようとしたところで、無理な話ではあったのだが。

涼哉は、手練れだった。

最初の夜に声を堪えきれたのは、俺がまだこの情交に不慣れだったからに過ぎなかったのだ。
いうなれば、快感を知らなかったから、だ。
回を重ねるたびにより深い悦びを教えられる。
もはや自分がなんのためにこの身体と抱き合っているのか、この暗闇の情事の目的を見失いそうになるほどだ。

涼哉も、言葉を発しなかったのは最初の夜だけで、それからは、相手を俺だと認識してはいないものの、睦言じみた言葉を零すようになった。


「お前、マジ最高」

繋がった時に呻かれる声に、背筋を快感が奔る。

「肌がすべすべで、気持ちいいな」

甘く脇腹をたどる指に腹筋が震える。

「嫌がるのもかわいい」

戯れに触れる指から首を捩って逃げようとすれば、楽し気な声が耳を捕らえる。

「俺ら、相性いいんじゃね?」

冗談交じりに熱い吐息に乗せて囁かれる言葉に、愚かしい勘違いしそうになる。

果ては、残酷にも「あいしてる」と、口走ることすら、あるのだ。

これでは、これまでの相手の人間たちが、勘違いしてしまうのも分かる。
まるで、自分が愛されているかのような、優しい指、熱い体、切ない声。
大切に大切に歓びの火を灯されて、泣き声のような嬌声を引き出される。
体の芯を一息に燃え上がらせるような手管に翻弄されて縋りつけば、力強く抱きしめられる。

「愛してるよ、なぁ、……」

愛の言葉の後に、涼哉の口の中ではの名前が呟かれているのだろう。
かすかに漏れる空気の音が、俺の胸をいつもギリギリと締め付ける。
けれど張り裂けそうな痛みに呻けば、優しい腕がそっと縮こまった体を抱きしめてくれるのだ。

「ごめん、苦しかったら言って」

すまなそうな囁きは、けれど欲望の限界を感じさせる温度で。
腹の中で膨張を続け、ドクドクと脈打つ硬い熱は、今にも破裂しそうだ。
けれど、それでもアルコールで意識を混濁させているはずの涼哉は、腕の中のを想って、自分を抑えるのだ。

「んっ、ちょっと、待つ?」
「っ、大丈、夫」
「ううん、馴染むの、待と?ぁ……っ、こら、締めるな」

腰をぶるりと震わせながらも、涼哉は己を宥めるようにふわりと微笑む。
そして腕の中の人間を宥めるように、額にキスを落とし、優しく背を撫でるのだ。

俺ではない誰かを思って為される行為の一つ一つが、あまりにも優しくて、甘くて、悲しい。

あぁ、なんて愛情深く、情熱的なのだろう。
お前は、こんな風に誰かを愛すのか。

「っ、ふぅ、ッ」

快楽に喘ぐフリをして、震える喉からみじめな吐息を絞り出す。
俺はいつも、闇に紛れて泣いていた。

「いいからっ、……シて」
「……はっ、ごめ」
「んっ、あっ、ふぁッ、……ぁああっ」

結局現実を直視したくない俺は、腰を揺らめかせた。
目の前のアルコールに濁り、熱に蕩けた瞳から、すっと視線をそらす。
愛欲に燃える瞳に浮かぶ甘い熱に囚われて、つい愛されているのではと錯覚してしまうのが恐ろしい。
愛されているのが自分じゃないことなど、痛いほど分かっているはずなのに。

「あいしてるよ」
「っ、ぁあっ」

けれど、この声が、この腕が、この熱が。
自分に向けられたものではないのだということを、この忘我の快楽の中で忘れてしまったとしても、誰が責められるというのだろう。
そう思いながらも、俺は必死に理性を繋ぎとめた。

「なぁ、お前は?」
「っ、ん、あい、してる」
「ふふっ」

酔った涼哉が、嬉しそうに笑う。
愛の言葉を欲してくるのに、求められる言葉を返しながらも、絶対に。
どれだけ強請られても、名前だけは呼ばなかった。

「なぁ、……俺のこと、ちゃんと呼んでよ」

自分だって抱いている相手の名前など口にしないくせに、自分は呼んでほしいとせがむのだ。
そんな時は、身勝手な話だと腹立たしいが、けれど同時に安心もする。
俺のに、気が付いていないという証拠でもあったから。

「なぁ、って、ば!」
「ぅ、ひぃっ」

愚図る子供のような口調で詰られ、意趣返しのように深くまで突きあげられる。

「っあ、やぁっ、す、きぃ」

それでも俺は、ただ名前のない愛を零した。
頭の中がぐちゃぐちゃになって、恐怖すら感じるような快感に、名を呼んで縋りつきたい時も。
俺は、どれだけ焦らされ、苛め抜かれても、『リョウヤ』の三音だけは発しなかった。
ただひたすらに、偽りのない愛だけを零したのだ。

だって。
名前を呼んだ、その瞬間。
夢が醒めるのだと、分かっていたから。






あの日の大西の悲鳴が、いつだって耳の奥で木霊している。

『名前を呼びたいだなんて、思うんじゃなかった』
『出来れば、僕の名前を呼んで欲しいなんて、願うべきじゃなかった』
『それは、分不相応な望みだったのに』

焦がれて焦がれて、やっと手に入った熱を失わないために、大西と同じ轍は踏むまいと決めていたのもある。
けれど、大西以上に、俺には名を呼べない理由があったのだ。

だって。
涼哉は、俺が呼んだら、気が付くはずだ。
そう思っていたし、信じてもいた。

気づかれたら、この関係は終わってしまう。
そしておそらくは親友としての場所も失ってしまうだろう。
それだけは、避けたかったのだ。

けれど、本当は。
もっと恐ろしいことがあった。

考えたくもないことだったが、もし。
もしも、俺が名を呼んでも気づかなかった、としたら。

それは、きっと。
俺にとって、この関係の終わりとは、別の終焉を意味していたから。
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