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はじまりの日
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光の差し込まぬ不潔な地下牢で、一人の男が鎖に繋がれていた。
鍛え上げられた四肢は枷をはめられ、鎖に繋がれている。
申し訳程度に包帯が巻かれた左肩からは、半身が真っ赤に染まるほどに血が滲み出ていた。
右頬には痛々しい刀傷がそのままにされており、命を保つための最低限の治療しか施されていないことが明らかだった。
「これが『国』か」
低い声が、闇を震わせて響いた。
「これが『政治』か」
暗く淀み、光を失った目で地を睨み、憎々しげに呻く。
「これが、『王』か……ッ!」
「……そうですよ。アレが、当代の『王』です」
暗闇の中から、冷たいほどに落ちつきはらった声が答えた。
「……誰だ」
「チッ」
何も見えない闇の中で誰何すれば、さも忌々しげな舌打ちが聞こえてくる。
「あぁ、嫌だ嫌だ。臭いし、汚いし、捕まった間抜けは私の声すら忘れているし」
「……あぁ。華英、お前か」
暫くの思考の後で発された名前に、再び華英は高らかに舌を打った。
小さく光を灯した華英は、眩しそうに顔を歪める鳳寿を、思い切り見下した顔をして見せた。
「考えなきゃ分からないなんて、随分な話ですね。呆けたんですか」
「はは、すまないな……」
かつてのような軽口を叩くこともなく、鳳寿は力なく笑い、謝罪する。
うつろな眼差しを向けられ、華英は泣き出しそうな顔をした。
「とりあえず、ここから出ましょう」
「くくっ、この状態で、どうやって?傷を負い、手枷と足枷をはめられ、獣のように繋がれている。お前、俺を嗤いにきたのか?……冗談も大概にしろ」
憎悪すらも混じった暗い声で、鳳寿は吐き捨てた。
「ここは、次期宰相と呼び声が高い俊才様が来るところじゃない。さっさと帰れ……お前は、体制側の人間なのだろう?」
この国の腐敗に憤った鳳寿は、何度も王へ進言しようとした。
けれど全ては、王の側近達の手によって握り潰された。
その一人は間違いなく、現宰相の副官として宮廷で辣腕を振るっている華英なのだ。
「居たくて居る訳がないだろう。出ようにも牢の鍵がないんだ。耳障りな冗談は止めて、今すぐ出て行け」
いっそ嘲るように、突き放した言い方をする鳳寿に、華英は傷ついた表情を見せる。
しかし一瞬俯いた後、華英はすぐに平静な顔を取り戻した。
「鍵ならありますよ、ここに」
ちゃりん、と軽い金属音とともに現れた武骨な鍵束。
優美そのものといった風情の華英が手にするにはあまりに不釣り合いなそれに、思わず鳳寿は唖然とする。
「どこからかっぱらってきたんだ」
「あなたが気にする必要はありません」
澄ました顔で答えて、華英はあっさり鉄格子の中に入ってくる。
不自然な体勢で座り込んでいる鳳寿の前に膝をつき、華英は眉をひそめる。
「随分な深傷を……早くこの不衛生な場所から出て、手当てをせねば」
「だが、手枷と足枷がある。随分と警戒されてしまったんだ」
おどけた顔で手足を揺すり、ジャラ、と鈍い金属音を絶てて見せれば、「何を諦めているんだか」と蔑みの目で鳳寿を見て、華英は鼻で笑った。
「あなたが愚王の前で暴れるからでしょう。馬鹿者が」
「華英?」
華英が仕えているはずの君主を愚王と言い切ったことに驚いた鳳寿は、次の瞬間更なる驚愕に目を見開いた。
「それに、見くびらないでください。枷の鍵もありますよ」
「なっ!……むしろなんであるんだ?王の部屋に忍び込んだのか!?」
己に剣を向けようとした鳳寿へ激怒した王が、己の手自ら嵌めた枷の鍵。
王が懐にしまいこんだはずの鍵を取り出した華英に、鳳寿は呆れて小さく笑った。
「華英、相変わらずお前は、まるで奇術師のようだな」
「恐れ入りなさい」
思い返せば、幼い頃から手先が器用で、金庫の鍵を開けるのが得意な奴ではあった。
風が吹けば散ってしまう花のような儚げな風情でありながら、したたかで意地汚いところも多かった。
敵にまわったと思っていた幼馴染が、己を助けるために奮闘してくれたことを察して、鳳寿は久々に心からの笑みを浮かべる。
わずかな灯の中でも手際よく解錠しながら、華英は真剣な声で囁いた。
「拷問好きな王の残虐性に助けれました。その場で斬り殺されていたら、どうしようもなかった。……裏から出ましょう。外に馬がつないであります」
「だが、……逃げても、今の俺では故郷までお前を守りきれん」
自由になった手足を軽く動かした鳳寿は、不自然に固まった筋肉と痛む傷に顔を顰める。
「……華英よ。助けてくれたことは礼を言う。だが、お前は一人で逃げろ。俺はどこかに隠れ、隙を見て」
苦渋の顔で言い募る鳳寿を、華英はうんざりと遮った。
「何を弱気になっているのですか。利き腕が残っているでしょう?……外れの丘に味方が待っています。そこまでは腕一本で頑張ってください」
「み、かた……?」
思いもかけない朗報に瞠目する鳳寿を満足げに見つめ返し、華英は鮮やかな赤い唇で笑みを形作った。
「あの昏君と、腐敗した政府に反感を持っているのは、あなただけじゃないってことです。……まったく、水面下で慎重に準備を進めていたのに、あなたが騒ぎを起こすから予定が狂いました」
平然と謀叛の企てを暴露する華英に、鳳寿は唖然とした。
腐敗した王朝で淡々と出世を重ねていた華英は、もう昔の綺麗な少年ではないのだと、自分の華英はもう消えたのだと、そう思っていたのに。
「お前、変わっていなかったんだな」
「当たり前でしょう。私は魑魅魍魎の欲に塗れても、己まで醜悪な悪鬼となり果てるような小物ではありません」
侮るな、とまっすぐに鳳寿の目を見返す華英は、幼い頃の誇り高く穢れない、澄んだ瞳のままだ。
「疑って、悪かった。……あと、計画をぶち壊して、すまない」
小さくなって謝る鳳寿は、華英の怒りを恐れた。
己の完璧な計算が崩れることを、華英は幼い頃から酷く嫌っていたから。
しかし、殊勝に過ちを認め謝罪した鳳寿に、華英は目を瞬いた後、子供のようにくしゃりと笑った。
「いえ、別に。……英雄が現れた時が、最高の好機ですよ」
「英雄?」
「ええ、あなたですよ、鳳寿」
思いがけない言葉に固まる鳳寿を楽しげに見つめ、華英は人差し指一本で、鳳寿の心臓を突いた。
「なってくださいよ、鳳寿。私達の……私の、英雄に」
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